86.モノヒト
少し短いです
「決して【死神】様のお邪魔はさせませんので」
イルンガはどうしてもセイギに【奴隷】を連れていかせたい一心でそう頼み込んでいた。セイギは正直どちらでも良かったのだが、ここでイルンガの言う通りにしてしまえば、少なくともセイギは物品で買収が出来る、あるいは何処かに肩入れすると考えられる可能性があった。それは【死神】の力が一意ではないという証左にもなりかねない。そうすればセイギの力を求めた各国が競るようにセイギの元へ押し寄せないとも言い切れない。本来は安寧を求めるためのこの旅路。あの家でひっそりと生きることを誓った目的。それを易々と自身で崩すなど愚の骨頂。
そして、そう易々と命を引き受けることも出来ないという理由もあった。決してそれが易いとは言わないが、犬猫のように飼う如くとはいかないのだ。まるで影のように自生してくれると言うのなら話は別だが、流石にそれは酷と言えよう。命に責任を持つということは、単純に生殺与奪を握っていることとは違う。命の全てに、全ての思考に、全ての運命に、セイギの存在が欠かせないのだということだ。
セイギのその不安を感知したのか、イルンガがセイギを説くように笑みを浮かべる。不安を和らげようとしたその表情であっても、損得勘定で動くイルンガのそれは逆に不安を煽る要素になっているとは、当の本人ではなかなか気付かないものだ。
「一通りの家事技能、自衛のための戦闘技能は皆習得しております。決して損はさせないと誓えます」
イルンガがちらと少女に視線を向ける。先程の表情を浮かべたまま、その視線は肉食獣のそれであった。
「【死神】様が死ねと申せばすぐに命も絶ちましょう」
イルンガの視線の先、翡翠の少女はナイフを自身の喉に突き付けていた。刃先が喉の外皮を傷付けているのか、血が膨れるように溢れ、その張力の限界を迎えてツッと一滴滴った。
「やめろ馬鹿!」
咄嗟にセイギはそのナイフを掴む。ナイフの刃はセイギの指を切り裂き、少なくない出血を伴う。痛くないと言えば嘘になる。痛みに慣れたと言えばそれも少し違う。好き好んで痛みを味わう訳でもない。しかし身体の痛みとは所詮一過性のものだ。死とはそれを含めて絶望を味わうことだ。暗い深淵へ落ちていくことだ。痛みとは生きている証だ。セイギは今、生きている。目の前の少女もまた、生きている。
ナイフを掴んで止めたその行動、その行動は引き返しの利かない選択肢。イルンガは恐らく笑っていることだろう。まんまと奴隷商の思惑通りとなってしまった現状。命を見せつけるようにして企んだ下策。それならば、最後まで手のひらで踊ってやろうじゃないか。共に堕ちていこうじゃないか。セイギはスッと大きく息を吸い込んだ。
「この子を、引き受けよう」
引き受けよう。連れていこう。命の最後まで、貰い受けよう。自刃に倒れるのではなく、凶刃に絶たれるのではなく、あるがままの最期を迎えさせよう。
不幸が降りかかると言うのなら、俺が代わりに傘となって受け止めよう。壁がその道を遮ると言うのなら、俺が剣となって道を切り開こう。
――だからその眼で俺を見ないでくれ。
* * *
『その【奴隷】には名前がございませんので必要でしたら【死神】様がお与えください』
奴隷商が最後に口にしていた言葉。それはかつてセイギが聞いた言葉の焼き直しであった。
『……私に名前は、ありません』
そう言っていた彼女の横顔。しかし既にその顔は朧だ。決して短くもなく長くもなく、浅いわけではないが深いわけでもなく、少なからずとも縁のあったはずの人間ですら記憶は彼女を置いてゆく。名前すら持たない、ただ一人の【奴隷】。朽ちては名前を残すこともなく有象無象の中に消える定め。
翡翠がセイギを貫いていた。
「ご主人様、お怪我のお手当てを致します」
その言葉を聞いたセイギは尚更表情を歪める。今回は特に"ご主人様"の言葉に対して反応が顕著であった。
その言葉は"飼われた"命が発する言葉だ。決して対等になることはなく、常に上下の関係に生き続けていくことだ。
それをセイギは疎ましく感じている。疎ましいと感じていると言うよりも、――恐れていた。
その瞳がセイギを見続けていることを、下からジッと見上げられていることを。無言でセイギを断罪しているような、そんな感覚を振り払いたいと願っていた。
「俺のことをご主人様と呼ぶな。セイギでもタナカでも、【死神】とでも呼べ」
「では、セイギ様と……」
「様は付けるな」
「申し訳がございません。私は【奴隷】でございます。主人である方のことを敬称なしに呼ぶことは致しかねます」
「……俺がやれと言ってもか?」
「大変恐縮ではございますが」
「……はあ。ならさん付けでいいか?」
「かしこまりました。それではセイギさんとお呼びさせて頂きます」
【奴隷】とは言えど、何かしらのルールで生きているらしく、敬称無しで呼ばせようと考えていたセイギの思案は破綻した。主人が絶対ではあるが、決して交わることはない。それが【奴隷】とそうでない人間との隔たり。
「それではセイギさん、お怪我のお手当てを致します」
「要らない」
そう一言でその言葉を遮る。少女に傷付いた筈の手のひらを向ける。浅くはない傷が刻まれていたはずの手のひらはその傷が幻であったかのように綺麗な様子だった。
その事実を見せ付けられたが、少女の表情は揺るがない。驚きもしていないのか、能面のような表情を保ったままだ。
「これは完治していらっしゃるのでしょうか」
少女は躊躇う様子もなく、淡々と事実の確認をする。
「ああ、そうだ」
少女は決して【奴隷】としてのスタンスを崩すことはない。セイギとの間の壁を越えるつもりはなく。
自己の存在を主張することなく、ただ影のように生きては死に逝くつもりなのだ。世界に楔を穿つことなく、そこにあったことを否定するかのように生きながらにして死んでいる。
そうあることを容認している。
――そうあることを、運命付けられている。
だから、せめてもの抵抗に。
「お前に名前を与えよう」
少女との繋がりを、確かな形として残すために。
「お前の名前は――」




