77.シシャとキョウシャ
お久しぶりです……orz
遅くて申し訳が御座いません……
緩慢な覚醒がもたらすはのは軽い記憶の混濁と凝り固まった体の不快感だった。
見慣れない天井を見詰めるのは何度目だろうか、年期の入った天井の染みをぼんやりと数えつつ、緩やかに上体を起こした。
パキパキと小気味のいい音が上がる。そうして寝起きの不快感を払拭しながら横目に隣を伺ったセイギは、本来いるはずのグレンの姿がないことに気がついた。正直そうしたことはこの短い旅路の中でも幾度かあったため、セイギはそれを気にかけることをしなかった。
閉めきった雨戸を開け放つと、太陽の燦々とした日光がセイギの目を穿つ。その日光を腕で遮りながらセイギは現在の時間を鑑みた。雲は一切なく陽光を遮るものはない。太陽の位置は未だ中天へと至らず、刺すような明かりを放ってはいない。空気には冷たさは感じられず、陽光の恩恵を十分に受けきったように感じ取れた。
それらを統合して考えられることは、今の時刻が九時や十時ではないかということだった。
かつてセイギはリズに時計の存在を聞かされていた。しかし、時計のような精密機器は高価なものであり、一般の市民が持つことは出来ないものらしかった。街で購入し、鐘で市民に大まかな時刻を知らせる。それがこの世界における時計という存在だった。
「おはよう、リズ」
ベッド脇に据え置かれたリズをセイギは抱き上げ、挨拶の一環とでも言うかのごとく唇を寄せた。セイギの唇にざらついた感覚が残る。
セイギはリズを太陽へ翳すようにして掲げた。まるで敬愛してやまない神を崇めるかのように。そしてセイギの瞳にリズの大きな黒い影が落ち込んでいた。
「……ああ、おはよう、だ」
リズの黒く沈んだ眼窩がセイギを見つめていた。セイギはそれに怯むことはなく、ましてや恐れることもない。ただその瞳に込められていたのは――……
「逃げるぞ!」
そんなセイギの神聖な儀式を遮ったのはいつのまにか消えていた隣人、グレンのものだった。
その表情には焦りが募り、切らした息が緊迫した空気に説得力を持たせている。
そのグレンの後ろではリックがオドオドとした様子で右往左往しており、グレンとの様子の差異からいかにも滑稽な様子に見えていた。
「いきなりなんだよ……」
切迫した空気を感じつつ、しかし急にその空気に馴染むことが出来なかったセイギはグレンにそうした言葉を投げ掛けることしか出来なかった。それは明らかにグレンの意図した行動とは異なり、それがグレンのことを苛立たせたのは否定できないものだった。
「今はそんなことを言っている場合じゃ……」
「いやァ、逃げられちゃ困るんだよねェ」
急に飛び込んだその声は嫌に間延びしたような声で、些細ながらも感情をささくれ立たせる。そしてその声はセイギのすぐ後ろ、開け放った窓から響いてくるのであった。
慌てて振り返ったセイギの視界にまず最初に飛び込んだのは目深に被ったその深緑の中折れ帽だった。そのせいでその眼を拝むことは出来ないはずなのだが、何故かそこだけは夜空に輝く月のように見て取れた。そこに鮮やかに黄色く燦然と輝いていたのは猫の瞳にも似た獰猛な肉食獣のもの。正面から見つめられたセイギは正体不明の感情に襲われ硬直した。
「ふぅむ」
その双眸が品定めをするようにセイギをなぞる。セイギはその言い様のない感覚を覚え、身震いをした。
例えるならば、その視線はまるで蛇が這い回るようなもの。身動ぎ一つではその視線を掻い潜ることなどは出来ず、無駄に行動を起こしたに過ぎなかった。
「どうしたァ?まさか怖がっているわけではないだろ?」
厭らしい嘲笑。何を把握しているのか、まるで全てを見通しているかのように男が尋ねた。
その目に浮かぶのは嫌悪にも似た悪意。それは決して人が人を見るような目つきではなかった。
「……どこの人間だ?」
グレンの絞るような声が部屋に響いた。そこにはいつものような余裕は一切なく、切羽詰まったかのような声色であった。
それが何を意味しているのかセイギには理解できていなかったが、この現状が決して望ましくないものであるということは即座に理解できた。
「本当はわかってるんじゃねえのォ?」
返答はいかにもグレンを小馬鹿にしたようなものであり、まともな答えではない。しかし、それもグレンの顔を見れば的を外れた答えではなかったことがわかる。グレンの表情は苦虫を噛み潰したようなものであり、まるで想像が悪い方向へ的中してしまったかのようなバツの悪さを感じさせるものであった。
「それじゃあお前は……」
「まァ、答えてやんねーけど」
言葉を濁したグレンの意図を分かっていて、男はその先の言葉を途切らせた。
ジロリ、と男の目がセイギを貫いた。気持ちの悪さを感じる。執着するような、おぞましい何か。人を人として見ていないような、その視線。
間違いなく、男の獲物はセイギだった。
――ゴクリ。
セイギの喉がやけに大きな音を立てたかのように感じられる。しかしそれは決して正しくはない。当然さほど大きな音を立ててはいないし、それに意識を取られるような派手なものでもない。ただ、それ以外の音がすべて失われたに過ぎない。
その敵意はいつ以来のものだろうか。かつてそれは味わったことのある――
鉄の臭いがした。悲鳴が聞こえた。命乞いの声が聞こえる。視界が赤く染まる。鮮やかな黄色が零れる。影が落ちている。人影が崩れ落ちている。肉塊、肉塊、肉塊――……
思わず嗚咽が、悲鳴が、セイギの口から零れ落ちようとしていた。
――息が苦しい。胸が締め付けられる。
手を口元へとかざそうとして、その腕の自由が外部からの要因によって封じられていることが判明する。
その袖は、リックの小さな手でギュッと強く握られていたことに初めて気が付いたのだ。
見ればリックの表情は蒼白にも近く青ざめていた。いつも強気なようでいて、その本質で言えば一介の少女にしか過ぎない。竜殺しに同行するとは言えど、こうして対人を取ることは想定外だったのかもしれない。
そんなリックの姿を確認し、皮肉にも自分よりも小さな存在を認識したセイギは冷静さを取り戻した。冷静さを取り戻したところでセイギの心情にはさほど変化はないのだが、自身の力を再度確認することが出来るほどには落ち着きを取り戻した。
そしてセイギは確認する。自身のその力を。すべての存在を駆逐し、排除し、命を略取するおぞましい力を。何も恐れることはない。奪われる前に奪えばいいだけの話だ。
次にセイギが視線を男にぶつけたとき、セイギの瞳に宿っていたのは冷静な殺意。
あるいは、――強者の傲慢だった。
そして短いです……m(__)m




