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セイギノミカタ  作者: 柏木大翔
斯くも優しく厳しい世界
75/104

75.黒い揺りかご

なんの変化もない、退屈な話。

 出立はその日の太陽も中天の頃であった。

 (うら)らかな陽気も相俟って非常に眠気を誘う。春眠暁を覚えずとも言うが、温暖な気候であれば午睡に誘われてしまうのも当然。手持ち無沙汰で集中出来ることもなく、延々と後ろへ流れていく景色を意識も籠らないような眼差しで漠然と眺めているだけならば、当然欠伸の一つや二つ、発せられるのも道理であった。


「ふぁああふぅ」


 大口を開けてセイギが欠伸を放つ。その動作に一切の羞恥もなく、あまりの豪快さに見ている者には逆に清々しささえ感じさせる。それは人がいようがいまいが、そんなこと何ら関係もないとでも言いたげな様子にも見えた。実際、セイギはリックに見られたところではしたないだとかみっともないだとか、そんなことを考えるほど繊細には出来てはいない。気負った様子が微塵も見られないその態度に気が緩んだのか、それに釣られるようにリックも両手で口を押さえながら欠伸をする。


「ふわぁ」


 羞恥の心を残しているリックは、欠伸というその気恥ずかしさに僅かに頬を染めているのが対照的であった。しかしセイギはそんなリックには興味も示さない様子で瞼を閉じようとしていた。リックはそんなセイギに気楽さを感じつつ、その無作法にも若干腹立たしさを感じる。しかしそんな些細な憤慨は眠りの狭間に落ち、眠気と混じりあってただ一つの混沌へと姿を変えた。


 二人は眦に涙を溜め、それを軽く拭いながらも眠気と戦い続ける。現在馬車の中は物静かであり、中に居るのはセイギとリックの二人きり。グレンは御者台におり、いつものように茶化したり誤魔化したりする声は聞こえない。それ故にいつも以上に空間が静けさに包まれていた。

 互いに話し合うような会話はなく、擦り寄ろうという気概もなく、不干渉を心掛けるのであった。セイギは無関心、リックは警戒心、抱く思いは違えど、描く結果はどちらも同じ。


 本来であれば気まずい空気になるところであるのだが、襲い来る強烈な眠気は如何せん抗いがたい。場の空気など考えている程の余裕は一ミリも存在しない。


「ふぁあぁあふ」

「はふ」


 再び大きく欠伸が繰り返される。世界は斯くも穏やかで、無頓着だ。


 そのまま世界が沈黙に浸ろうとしていた最中、そんな退屈を極めたような空間に変化が起きたのは唐突だった。それは眠気のせいであったのかもしれないし、退屈に抗いがたい心意気のせいであったのかもしれない。そこには決して深い意味などはなかったし、取り立てた意思など介在しなかった。

 ただ分かるのは、その空気にリックが蛮勇にも一石を投じたということだった。


「……ねぇ、セイギ」

「あぁー?」


 うつらうつらと船を漕いでいたセイギの視線がリックへと収束する。返事が間延びしているのは判断力が著しく低下している証左である。まるで惚けたような表情は正しく子供そのものである。完全に眠りに落ちる直前であったせいか、その表情は締まりがなく、緩んで素の表情であった。そうしてみればセイギの相貌とは年相応であり、悲壮にも憤怒にも染め上げられていないそれは至って何処にでもありそうな、凡庸とした顔である。あえて言うなれば、油断しきった表情は限りなく間抜けとも言い切れてしまう類いのものであった。

 幸運なことにか、それを見ているのも眠気で判断力が低下していたリックだけ。実際、互いに間の抜けた表情を晒し合う姿は端から見たら如何にも滑稽な様子である。そしてそこには仲介の人間は一切おらず、二人は間の抜けた調子で会話を始めるのであった。


「なんでボクのこと聞かないの?」

「んー?知らん。どうでもいい」

「どうでもいいって……」

「どうでもいい。眠い……」

「確かに眠いけど……ふぁふ」


 リックは常に見られてきた。どんな些細な動作だとて、監視され、憧憬され、嫉妬されてきた。何か起こる度に称賛され、諫言され、警告された。それがリックとしての当然の世界であった。だから初めて見せられる"無関心"がとても不安で、そして何故か心地好かった。


 リックの警戒心も薄れ、緊張感の欠片すら存在しない空気。あまりにも無垢で無防備。だからだろうか、本来であれば警戒して決して聞かなかったはずの言葉を、リックは無防備にも素の表情を晒しているセイギへと投げ掛けたのであった。


「それは、だれなの?」


 眠気のせいか、些かあどけなさの残った声。それがはっきりとは聞こえていなかったのかのようにセイギは意思の点らない瞳をリックへと向ける。


「だれ……?」

「うん」


 答えが分からない子供のようにセイギはリックへと聞き返す。そしてリックは優しげにそれを肯定した。それがセイギの何に響いたのか、セイギは静かに目を閉じた。


「ーー……」

「え?」


 セイギは掠れるようにその名を呟いた。空気に溶けるようにして囁かれた声はリックの耳には届かず、聞き返すリックの声に応えるものはない。何かを堪えたように顰めたその表情は、まるで何かの責め苦に耐えるようで、痛ましい何かを痛感させる。

 当然リックはそれを推測できるほどにセイギとの付き合いがあるわけでもなく、苦痛を伴った想いを推し量ることは出来ない。それでも悲壮感にも満ちたそれは、何故かリックにも心を痛ませた。


 リズの(こうべ)を撫でるセイギの指先に力が籠った。その行動はリックには、掴めない何かを掴もうとしているかのように見えた。


 ――掴めないナニカ

 ――失ったナニカ

 ――無くしてしまったナニカ


「リズ……」


 意識が混濁し夢へと旅立つ間際、セイギは同じ名前を繰り返し一筋の涙を溢す。そのままセイギの首がカクリと項垂れるように落ち、完全に意識を失ったことが分かる。


 そして今度はリックはその名前を聞き逃すことはなかった。ただの名前であるに過ぎないのだが、そこには万感の思いが込められていることが分かった。一言では言い表せないような、複雑に絡み合った想い。【死神】であるはずなのに、人間以上に人間らしい。その事に気付いてしまったリックは、セイギを何処かで妬ましく感じていた自身が居ることに気が付いてしまった。慌てて首を左右に振り、無理矢理にその意識を遠ざけた。


(大丈夫。ボクは大丈夫。間違えない。常に正しくあるんだ)


 微かに震えを感じさせる息を何度も吸っては吐き、昂ってしまった感情を再び底へと沈める。厳重に慎重に、まるで封じ込めるようにリックはその感情を覆い隠す。覆い隠してもなお、その影に常に怯えながら、それでも見てみないフリをする。

 ――大丈夫、間違えない。

 そしてリックは、その黒い感情にしっかりと蓋をした。


 落ち着きを取り戻したリックの顔に生気が戻る。青みがかった相貌も元の血色を取り戻し、溢れんばかりの陽気さを携えた表情が花開く。そんな故意にも似た笑顔はそのままに遷移し、素直に感情を示しているその顔が目に留まる。


 ――なんて情けない。なんて……羨ましい。


 まるでただの人であるようなセイギの感情に触れ、リックの心の中には大きな一つのしこりが出来ていた。。ただ一人の男の子にしか見えない【死神】。人間以上に人間らしい【死神】。逃れられない悲しみに捕らえられた【死神】。少しだけセイギのことが分かったような気がしつつ、深い闇へと誘われリックも夢の中へと落ちていくのであった。




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