73.Knock on
激しくドアを連打する音にセイギの意識は浮上した。
見上げるのは見慣れない天井。あまり柔らかくもないベッドから上体を起こすと大きく伸びを一つ。
「んっ、んっ、ん~!」
錆び付いた身体に潤滑油を注したように、凝り固まった肉体が解れる。そのまま腰をから上を左右へと回すと、パキパキと小気味のいい音が響いた。そのまま前屈、開脚、そして膝を抱えたりとストレッチを続けていたが腕を前に抱えた辺りでセイギは漸く現実逃避をやめる。
未だにドアをノックする物音は途切れない。
「誰ですか~」
流石に不用心にドアを開けるほど、セイギは平和ボケしてはいない。ベッドの上からまずは声をかける。相手が誰であるのか把握するのは第一歩目と言ったところだ。
しかし返答は一切ない。続けてドアを叩く音が部屋一面へと広がるばかりだ。何度も続けて繰り返されるそれは、途切れることないことを鑑みても十分に異常だった。
まるで息を吸うことさえ許されていないかのような空気。自然とセイギの身体は強張り、声に力が入る。そのままベッドから立ち上がりリズを抱き上げる。
「誰だ」
端的に鋭く。まるで敵を浮かび上がらせるように言葉を発する。ともすれば怯えてしまいそうな心に発破をかけて奮い起たせる。
けれど相変わらずに返答はなく、ノックは降りしきる雨のように鳴りやまず繰り返される。
「誰だっ!!」
怒鳴り付けるような強い声。語気は荒く威嚇のように敵を撥ね退けるが、恐怖に心が震えていた。それに呼応するようにその声は微かに震えていた。
その扉を叩く音はセイギの存在を確認したように更に強く打ち付けられる。セイギはついぞ、言葉を失う。
「あ……う……」
扉を叩きつける音は鳴りやまない。もしもそれが人の仕業であるというのならば、既にその拳は血に塗れていることは間違いない。それほどまでに強く長い。
姿が見えない恐怖。扉を開ければその姿は分かるだろう。それでこの不安は払拭される。それで終わり。けれどセイギにはそれをする気力は湧かない。目の前の扉を叩き続ける狂気に圧倒されていた。
返事をすることも逃げることも出来ない。膝がカクカクと震え、唇が乾燥して張り付く。背中を伝う汗の感覚が気持ち悪い。動こうにも身体はまともに言うことを聞かず、硬直は解けない。視線は扉に囚われ全ての感覚がそこにしか向かない。
セイギはただ黙して嵐が去るのを待つのみ。それを打ち破ることは容易であっても、セイギの精神はそれを易く執り行うことなど出来もしなかった。セイギが【死神】であっても、生物の原初的な感情である『恐怖』という感情はそう易易と乗り越えられるものではない。力がありこそすれ、その精神とは未だに一介の高校生に毛が生えた程度にしか過ぎない。
不意に音が鳴り止んだ。激しい雨が急に止むはずはなくそこにはなにかしらの意図が見え隠れする。
セイギは扉に近寄ることはなく、ただジッとして佇むだけ。
待つ。それだけを延々と続ける。既に完全に音は鳴り止んでいるが、それでもセイギは緊張を解かない。
悠久にも似た時間が過ぎ、ようやくセイギは全身の力を抜いた。
――ドン!
「ひっ」
それを見計らったように最後に一際大きく扉が殴りつけられ、セイギはヘナヘナとその場に座り込む。
部屋にはリズを腕に抱え、へたりこむセイギが取り残されていた。
* * *
――トントン
軽快なノックの音が響いた。
どれほどの時間茫然自失としていたのか、セイギはその音に正気を取り戻す。先程までの物音とは違い、それは比較的控えめで常識的なそれだ。冷静さを取り戻したセイギは、先程までの失態を誤魔化すように蛮勇を振るい翳して怒鳴りつける。
「誰だっ!」
そのセイギの叱責に、扉の向こうの人物が身動ぎする様子が伺えた。その様子にセイギは自身の行いが八つ当たりだということに気が付いて思わず自身の行動を省みた。
「あ、あの……ボクです」
「なんだ、お前か」
そう言って立ち上がり、扉へと歩みを進めようとしたところで不意にセイギの動きは停止した。
(本当に開けてもいいのか?)
不気味なノックの正体がその獣人の仕業である可能性。その獣人に化けている可能性。獣人を脅して喋らせている可能性。そのどれもが考えられる。
セイギは一瞬躊躇したあと、扉越しに対応することを決めた。リズには少なからず叱られる応対ではあるものの、それは已むを得ない行動なのだから納得してくれるだろうと当たりを付けた。
「それで、何の用だ?」
警戒が篭ったせいか、予想よりも冷たい声が発せられた。向こうの人物にとってはそれは予想した通りのものだったらしく、一切怯んだ様子も見せない。
「あ、その。……昨日は、ごめんなさい」
予想外に素直な言葉に驚くセイギ。姿は見えずとも、扉の向こうでは頭を深く下げているのが即座に想像できた。
セイギは拍子抜けしたのと同時に安堵し、素直に扉を開ける。
そこには予想したのと寸分の狂いもなく、深く頭を下げる獣人の姿があった。
「別にこれからは気を付けてくれればいいけど」
そしてそれを言い放ちつつ腕の中のリズの頭を撫でる。慈しむように撫で上げるセイギの姿を見る獣人の表情が引き攣る。セイギはあえてそれに気付かないフリをした。
「だっ、大事なんだね……」
「ああ。大事な"人"だ。本当に大事だ。だから傷付ける奴は絶対に赦さない。俺が守ると誓ったんだ。今度は間違えない。絶対に」
その言葉には一切の嘘は含まれない。その意思を見せ付けるように深くリズを抱き抱える。
セイギの目の前の獣人の表情が青く染まる。セイギはそれを意に介した様子も見せず、何かを堪えるように強く抱擁を交わしていた。
本来であれば情熱的でロマンチックにもなり得たはずのその情景をまざまざと見せ付けられ、獣人は硬直していた。
しかし不意にその本意を思い出したのか、その異様な空気に逃げ出すこともせず、空気を切り裂くように口火を切る。
「そ、そう言えば昨日は名乗っていなかったね。ボクの名前はアンジェリカ・エフトスキーだ。よろしく頼む」
「女じゃねーか」
その名前を聞いたセイギが思わず突っ込みを返す。その言葉に敏感に猫耳が反応した。
「ボクは男だ。……もう二度とそう言わないでほしい」
先程まで怯えていた人物とは思えないような強い言葉。その目には強い意思が見え、逆らう空気を許さない。思わずセイギは頷いていた。
「ありがとう」
そう言いながら微笑むアンジェリカの表情は、しかし確実に少女のそれであった。
それにセイギは一瞬視界を奪われた。
だがすぐに冷静さを取り戻すと極力表情を隠し何でもなかったかのように取り繕う。そして同時に何故目の前の人物が再びこうして姿を現したのかを訝しむ。セイギに恐れを抱いたのならば、もう姿を現さないのが最適なはずだ。そうすれば死の危険などを冒すことなどないだろう。
「アンジェリカはどうしてここに来た?」
それは純粋な疑問。しかしその言葉のなかに気に入らないものがあったらしく、アンジェリカの表情が歪む。そして苦々しくもその言葉を声に出した。
「ボクのことはリックと呼んでほしい」
「あ、すまん。分かった」
アンジェリカ、もとい、リックは自身の性別に不穏な感情を抱いているのか、その話題に触れることすら嫌悪している様子だった。
それはセイギも自身の名前について憎んでいた頃もあり、その感情が分からないでもなかった。
その憂慮を孕んだ表情を打ち消し、リックはセイギに問われた疑問への回答を答えようとする。
「ボクがここへ来た理由……」
わずかばかり躊躇する様子を見せる。だがそれも数瞬。ジッとセイギの目を見つめ、リックはその言葉を舌へと乗せる。
「ボクを竜殺しに連れて行ってほしい」
呼称の設定はアン→リックに変更しました。
そっちの方が男の子っぽいしね




