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セイギノミカタ  作者: 柏木大翔
斯くも優しく厳しい世界
68/104

68.月が綺麗ですね

夏目漱石の有名な翻訳ですね。

 空は生憎の曇天。立ち込めた暗雲は重く、何故空に浮かんでいられるのか疑問を抱かせるほどだ。それは完全に射光を断ち切り、世界には大きな黒の影が落ちている。その影は同時に人の心にも落ち、気分を鬱陶とさせる。降水の益を直に感じられない者にとっては、恵みの雨とは言えど暗鬱なもの以外の何者でもない。今にも落雷を発生させそうな雲は人々の足を速め、屋内へと追いやる。

 それはある意味、セイギの旅立ちには見合った天候だったのかもしれない。


「おはよう。準備はいいかい?」


 不機嫌そうな表情で自身を見詰めてくるセイギの視線を気にした様子もなく、不釣り合いなほどあっさりと爽やかに挨拶をするグレン。


「……まあな」


 対するセイギは不機嫌極まりないと言った表情で、その声にも不満が込められているのがありありと分かった。

 不本意の強制であればそれもまた仕方のないことではあるが。


「それでは行くとしよう」


 グレンがセイギを促す。既に準備は出来ている。あとはこの身一つで成果をあげるだけ。


「じゃあリズ、少し行ってくるよ」


 セイギは机の上のリズに声をかけた。何が起こるか分からない、それは決して安全ではない旅路だろう。セイギはリズを守れなかった。だからセイギは一時の別れを選んだのだ。

 そして当然髑髏(しゃれこうべ)は何も語らない。セイギは寂寥感を抱きながらリズに背を向け、決意と共に扉を閉じようとした。


 ――カタ


 セイギの耳に確かに声が届いた。慌ててセイギが振り向くと、そこには横倒しになったリズの姿があった。それは決して見間違いでもなければ勘違いでもない。それは確実にリズの意思だった。


 セイギは思い出す。一人が怖いと泣いていたリズを。孤独は嫌だと叫んでいたその声を。一緒にいると誓ったその時を。


「俺は……リズを守れなかった」


 どんなに後悔しても悔やみきれない事実。その独白はまるで懺悔のようであった。


「リズを連れていけば、また同じことを繰り返すかもしれない。そんなのはもう……嫌なんだ」


 リズは何も語らない。


「絶対に戻ってくるから」


 セイギがリズを諭す。けれどリズは頷きも返事もしない。


「頼むよ……」


 セイギの懇願は一切の意味をなさず、沈黙が広がる。


「……」


 セイギは無言でリズを見つめ、リズはその空虚な眼窩でセイギを射抜く。そこには不変にも似た暗闇が広がっており、セイギはそこに何故か翡翠を思い出した。

 その中にセイギはリズの強い意志を感じ取った。確かにリズは頑固で意固地で負けず嫌いだ。その癖怖がりで泣き虫だ。


「リズ……」


 ため息と共にその名前を呼ぶ。けれどその言葉には確かに諦観と喜色が含まれていた。


「……そうだな。一人ぼっちは寂しいもんな」


 そう言いつつ肩を竦め、抱き締めるようにリズを抱えあげるとセイギはそこに確かにリズの声を聞いた。


「ごめん。俺が間違ってた。ずっと、一緒にいよう。約束、したもんな」


 セイギは深く深くリズを抱き締める。壊れるほどに強く、撫でるように優しく。そしてそのまま額へと唇を落とした。


「ずっと愛してる」


 優しく愛を囁きその頭部を愛撫する。少しざらついた感触がセイギの手のひらをチクチクと苛むが、セイギはそれを微塵も気にした様子はない。


「今度は絶対に俺が守るから」


 それは固い意志。誓い。――呪い。


「もうどこにも行かないでくれ……」


 それはパンドラの箱。それはセイギの見た絶望の先に残る希望。唯一の望み。淡い願い。歪な願望。

 あの時の喪失感を二度と味わいたくはない。セイギの腕は微かに震えていた。


 そんなセイギの意識を遮る声があった。


「……準備はいいかい?」


 たった一人の傍観者は、些か呆れたような表情を浮かべていた。セイギとリズの世界に立ち入ってきたグレンのことを憎々しげに思うが、今しがたのやり取りを阻害することなく傍観していたことを鑑みれば、十分に空気を読んだ行動だったのは間違いない。

 そうであってもセイギは納得しなければ理解も示さない。


「チッ」


 セイギはグレンに聞こえるか聞こえないか微妙な大きさで舌打ちをしたのだった。グレンはそれが聞こえなかったのか、何の反応も示さなかった。



 * * *



 アールニール王国からリカールまでは四つの国を間に挟む。その間には一つの渓谷と山脈が横たわっており、そこまでの道のりは容易ではない。

 通過する国は農業の国<ノータルタッド>、獣人の国<ゲルト>、学徒の国<シュティング>、隠蔽主義の社会主義の国<ドゥラキア>である。ゲルトとシュティングの間には渓谷が走り、シュティングとドゥラキアの間には山脈が横たわっている。となれば当然馬車が走れるのもゲルトまでである。


 セイギの乗る馬車は不釣り合いにも豪奢だ。流石に金銀財宝とはいかないが、細かな意匠と緻密な構成で見るものが見ればそれが如何に高価なものかは知れる。しかし最高級品とはいかず、些かランクの下がった様相からは相応の人物像が思い描かれるだろう。

 六人は腰掛けられそうな馬車はたった二人の男二人が黙して座していた。言うまでもなく、セイギとグレンだ。

 交わす会話もなく、ただ後ろへと流れていく風景を延々と眺め続ける。それでもセイギにとってはそれはとても新鮮なものであった。膝元に抱えたリズも、喜んでいるように見え、セイギの心は比較的落ち着いていた。隣にグレンさえいなければ更に安定したのには違いないが。

 しかし、その安寧も少しの間だけであった。舗装されていない道は荒く、石を弾き飛ばす度に大きく揺れる。セイギは乗り物には強く、それで気色を悪くするということはなかった。しかし乗り物に強いとは言っても肉体的な疲労は蓄積するばかりで、特に腰への負担はより大きなものだった。慣れない行軍に張り詰めた空気。その疲労をグレンは鋭敏に感じ取った。


「大丈夫かい?」

「別に」

「疲れたんだったら早めに言ってくれるといい」

「疲れてない」


 気を遣うグレンの一切を無下にするセイギ。そんなセイギの心理を見抜いた上でグレンは努めて冷静にセイギへと忠告を促す。


「明日に影響が出かねないから、問題があるならすぐに言え」


 それは忠告というよりは警告。私的な感情で行軍に支障を(きた)すわけにはいかない。そんな意志の表れだった。


「まあ私と君の二人だけだからね」


 最後におどけたように付け加えたのは険悪なムードを払拭するためだったのか、今しがたの言葉が嘘であるかのように剽軽に語った。

 実際にセイギは反発する気が削がれ、素直に疲れた、と告げたのであった。


 行軍はセイギとグレン、そして御者のたったの三人で行われていた。本来であればもう少し多人数で行われるものであるのだが、セイギは国の非公式の戦力であり、そしてそれとは別に戦力が動いていた。当然セイギの側に兵力を割き辛くなれば、【死神】という得体の知れない者に力を貸したがる好事家もいない。そもそもグレンと御者がいるだけで万々歳といったところなのだ。


 次の町まではやや距離があるというと言うことで今日は早々に野営の陣を張ることとなった。当初の目的であった行程のおよそ半分しか進んでいない計算になる。それでもグレンは焦らない。予定の大半は想定通りに行かないものだ。大事なのはそこでどうやって予定を組み直せるかなのだ。これがグレンが人生経験で学んだことの一つである。

 茂みや川から小動物や魚を捕まえ、天日干しで乾燥させた野菜を使用して料理を作る。グレンの手付きは非常に手慣れたもので、十数分もすればすぐに食事が完成した。流石に美味とはいかないものの、十分に満足のいく味付け・風味であり、満腹とはいかないながらも十分な充足感は得られた。

 食事が終わるとグレンは余分に捕った獲物を捌き、保存食へと仕立てていく。それはセイギにとって見慣れたものであったが、手伝う気は起きず、ただそれを眺めるだけだった。


 そうこうしているととっぷりと日は暮れ、グレンはいそいそと(こさ)えたテントへと潜り込む。


「今日の不寝番は私とケイルで行おう。君には私の番の時にやり方を教える」


 焼いた肉の匂いを消す独特の香草の香りが辺りに溢れる中、グレンはセイギにそう言うとすぐに横になった。


「君も寝ておくといい」


 グレンがそう言い、ややもすればすぐに規則的な寝息が続く。

 セイギはそんなグレンを尻目にテントの外で腰を落とした。ザワザワと揺れる木の音。さらさらと流れる川の音。そして溶け込むようにセイギの隣にはリズがいる。


「……綺麗だな」


 セイギが空を見上げれば鈍重な雲は姿を消し、月が煌々と輝いていた。

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