62.贖罪
――昨日話していた人間が、既にいない。
その奇妙な違和感をセイギはひしひしと感じていた。昨日は服を巡っての必死の攻防を繰り返した。いつの間にか配膳されていたトイを食べた。メイドが奴隷だということを知った。
生きていた。喋っていた。動いていた。その筈だ。老齢とは言えど、しゃんと背を伸ばして胸を張っていた。決して病死するような様子ではなかったし、寿命と言われても納得など出来る筈がない。それならば事故なのだろうか。いや、誤魔化しも意味などはないだろう。彼女は殺された(・・・・)。セイギの本能がそれを告げている。その事実からは目を反らせない。反らしてはいけない。
――彼女はセイギのせいで殺された。
正しく言えば、セイギの持つ【死神】の力を怖れた人間のせいで殺された。しかし、そんなことはセイギには関係ない。自身の持つ力のせいで人が死んだ。それだけが事実だった。
昨日の侵入者は密かにこの部屋に忍び込んだ。そして目的通り、【死神】の殺害に成功。成功の証として髪を切り取り、部屋を出たところで不運にもメイドに出くわしてしまったのだと言う。口封じの意を込めてメイドはそのまま殺害された。
グレンからの口伝てではそういったシナリオだった。なんて命が軽いのだろうか、セイギは漠然と、しかし、確実にそう思った。
セイギはベッドに横たわって白亜の天井を見上げた。そこには一点の染みもなく、何の汚れもない姿をしていた。あまりにも白く、それ以外の存在を拒絶しているかのようでもあった。そんな天井にセイギは何度も記憶を描いていた。思い出すのは能面のように変化のない表情。淡々と仕事をこなし、一切の私情も挟まずに黙々と仕事に取り掛かる。表情の問題さえなければ、完璧なメイドとも言える振る舞いだっただろう。その姿を何度も、思い描く。それはまるで白亜に描くことで浄化するかのような行為だった。念仏も知らなければ祈るような神もいない。それはそんなセイギが唯一出来る贖罪であったのかもしれない。
そんな贖罪を続けることはや三日。セイギの元に来るのは中年のメイドの女性とグレンだけであり、まるで老女がいなかったかのような、すべてが夢であったかのようにその事を話題に挙げることも、悲しみに暮れるようなことさえなかった。グレンがセイギの体調を考えていることを除けば、本当に何もなかったかのように錯覚さえしてしまうほどだ。
『――奴隷ですから』
そう言った彼女の横顔さえ、既に曖昧になりつつある。何度も思い描いても、その像が事実であったのかどうかさえ記憶の彼方へと薄れゆく。
――人は忘れる生き物だ。その言葉の通り、セイギの記憶は都合のいいように記憶を消し始めている。それがセイギにとっては決して許されない行為に思えて仕方がなかった。忘れてしまうのなら、忘れないようにしよう。そんな細やかな抵抗を繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、それが無駄だと分かり絶望する。――忘れていく。
気力を失い人形のように脱力したセイギの元に、今日も今日とてグレンが姿を現した。見慣れたその光景に、セイギは一瞬視線をやるもののすぐに天井へと視線を戻す。そんなセイギの態度を意に介した様子もなくグレンはセイギを見やる。
十分に大人に近付いたと言える肢体。けれどその中には子供にも通じる若さを感じ取ることが出来る。そして幼さを残したような表情。童顔であることを差し引いても、未だに苦難や苦痛を乗り越えたような深さは見えない。こうしていると、如何にセイギの身に宿る力が異質なものか分かり、グレンはその不安定さに畏怖さえ覚える。そんな表情を一切出すことはなく、グレンはセイギの傍らに佇む。
これから告げなければならない言葉が、グレンの胸を無闇に引っ掻き回す。
「【死神】くん」
「……」
「そのままでいい。聞いて欲しいことがある」
「……」
「君にはこれから――」
「……なぁ」
語り始めた言葉をセイギが断ち切った。何かを意図したわけではない。ただ不意に、浮かんできた言葉を吐いただけの一人語りにも似たものだ。
グレンはそこで言葉を切り、セイギの次の言葉に耳を傾ける。
「あんたはなんで……」
それは問い掛けるようで、どこか咎めるような言葉でグレンへと投げ掛けられた。
「なんで?」
「……」
セイギの言葉を繰り返すように聞き返すグレンに、セイギは言葉を無くしていた。まるで迷子になったように不安な表情で、その続きの言葉を手探りで探すように必死で探している。
「……なんで……平気なんだ?」
結局それはうまく見つからず、なけなしの語彙を振り絞ってストレートに告げられる。
「平気?」
「……メイドの人は、死んだんだろ?」
「ああ、死んだな」
「だったら何か……こう、思うものが……」
「思う?何を?」
グレンはそれが何を意図しているのか全く理解できていないとでも言いたげな表情でセイギへと尋ねる。それに対して、セイギは密かに強い反発心を覚えていた。
「だから……悲しいとか、……憎いとか!」
「どうしてそんなことを思う?」
「あんたは……!」
「【奴隷】だから仕方ないだろ」
その言葉が、セイギの義憤を納めてしまう。
皆が口を揃えて言う。――奴隷だから。仕方がない。どうしようもない。そんな風に当の本人さえも諦めてしまっていた。それがどうしてもセイギには理解できない。納得できない。奴隷と言ってもそれ以前にヒトは人だ。人生を選択する術も道もあるはずだ。けれど元よりその選択肢がないかのように、誰もが諦めている。むしろ――呪われている。
「言いたいことはそれだけか?」
その言葉に責めるようなニュアンスを感じ取り、セイギは押し黙った。『自分が何をしたのか覚えているか』と問い掛けてきたように、言外にセイギを批難している。グレンは直接は語らない。必要なときに応じて言葉を変えては来るが、単純な言葉での力押しは少ない。
それはつまり暗にセイギのことを理性のある人間だと考えていることに他ならない。あるいはセイギ自身の力を恐れているのかもしれないが、そうした恐怖の色はセイギの目には写ったことはなかった。『化物』。そうセイギを呼んだグレンのことが、分からない。
思考の海に落ちて言葉の波に拐われ、言葉を失ったセイギに対し、グレンは何もなかったような様子で己が目的を達せようとしていた。
勿論セイギはそれに納得した訳ではない。しかし、現状を変えるための言葉を持たず、ただ黙すのみであった。
「それでは【死神】くん」
言葉を続けようとするグレンに迷いはなく、まるで淡々と答案を答えを述べる教師のように。
「君には"竜"を殺してもらう」




