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セイギノミカタ  作者: 柏木大翔
生まれ出る命
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6.救済

 絵本を読むだけで既に昼を回っていた。

 実際に見て取れる変化は特にないが、空腹がそれを訴えかけていた。



 一度リズが朗読したお陰で発音や意味を理解したため、セイギは一人自習を行っていた。文字を追い、ボソボソと口のなかでリズの発音を真似る。

 授業ですら語学をまともに学んだことすらなかったセイギであるが、今は必要に迫られて必死に学ぼうと言う姿勢で言語の習得に励んでいた。


 セイギはまだ現状を全く知らない。

 意思の疎通さえも満足に行かない今の様子では思案に暮れていることも出来なかった。

 他のものを一切(・・)忘れるようにして一心不乱に語学に取り組んでいく姿は敬虔な学徒のようであった。


 そんな優秀な人物であるかのようにあったセイギであったが、そんな時でさえ欲求とは自由なものである。

 平たく言えば腹の虫がひどく大きな自己主張をしたのだ。

 同じ卓で見馴れぬ草相手に作業を繰り返していたリズであったが、流石にこれには目を丸くしてセイギを見つめていた。バツが悪くなったセイギは慌ててリズから視線を反らした。そんな様子のセイギを見ていたリズはクスクスと笑いながらも台所へと立ち上がった。


 テーブルから遠ざかるリズの背中を見つめながらセイギは感じていた。


(なんか……新婚みてぇ)


 ひどく馬鹿馬鹿しい話ではあるが、エプロンをした美少女が自分のために料理を作ろうとしてくれているのだ。男であれば一度は夢見る光景ではないだろうか。

 セイギは密かに感悦に浸っていた。

 ともすればひどい勘違い野郎であろうが、事実、善意は完全にセイギ向けられている。これで勘違いするなと言う方が酷であろう。


(でも、なんでリズはここまでしてくれるんだ?)


 しかしそれと同時に湧き上がるのは疑念だ。

 親切大国日本生まれのセイギにとっても、リズの行動は決して常識の範疇ではない。言ってしまえば親切の度が過ぎているのだ。

 セイギは自身がそこまで女性受けする顔だとは思ってもいない。精々が十人並みだと冷静に判断していた。

 この判断は至って全うなものだった。実際女性十人に聞いたところで、『普通』と言う総評価が下されるであろう。


 恩人を疑うことはしたくない。だが信用しても良いものかも判別できない。

 大抵の人間は損得を勘定して行動するものだ。見たところ独り暮らしの女の子ではそれは特に顕著であるべきだろう。

 だが、リズにはそう言った打算が伺えない。純粋に人助けを行っているようにさえ見える。


(本当に親切心なのか?)


 そんなセイギの内心を知ってか知らずか、リズは裏のない表情で振り返りセイギに尋ねる。


「セイギ、"肉"、"好き"?」

「あ、あぁ…」


 自身の思考に浸っていたセイギに唐突に投げ掛けられた言葉に若干慌てた様子で吃りながらも返す。

 そんなセイギの様子を訝りながら、リズは調理へとその手を戻そうとした。


「はっ、はっ……」


 だがその手は突然の呼吸音によって遮られた。

 リズが振り返るとそこには苦悶の表情を浮かべ膝を床につけるセイギの姿があった。

 それはひどく息苦しそうで、見ている側ですら息をすることが辛く感じるような光景であった。

 本来であれば慌てて適切な対処法を取れないものだが、幸か不幸かリズはこの症状を知っていた。小さな巾着のような袋を取り出すとそれをセイギの口に当てる。

 息苦しそうにしている人間には到底取りづらい行為であるが、逆にこれが適切な処置であった。



 ――過換気症候群

 一般的には過呼吸として扱われることも多いが、厳密には二つは異なる。

 前者は精神的な、後者は肉体的な原因で発症する。

 過度の呼吸のため、血液中の酸素が過剰となり呼吸のバランスを崩してしまう。酸素の濃度と二酸化炭素の濃度のバランスを取るため呼吸が減るが、呼吸の減少を異常と捉え、呼吸を増やそうと肉体が信号を出すため適切な呼吸をすることができなくなる。

 基本的に死に至ることはないが"息の出来ない"恐怖は人の精神をごっそりと削り落とす。



(なん、だよ……これは!……苦しい。俺、死ぬのか?)


 未知の体験に恐怖のどん底に突き落とされるセイギ。

 リズの取った行動を拒絶しようと試みたのだが、パニック状態のセイギにはまともにリズを振り払うことも出来なかった。下腹が痛む。灼熱のような感覚がセイギを苛む。

 気付けばセイギは滂沱の様相を呈していた。


 そんなセイギを宥めるかのように背中に手を添え、ゆっくりと撫でる、軽く叩く。

 セイギに見せつけるようにゆっくりと息を吸い、大きく吐き出す。それに倣うようにしてセイギも少しずつ、少しずつ息を整えていく。

 ようやく袋もなく息が出来るようになったセイギの上体を、リズが優しく抱き抱えた。それは本来ならば羞恥を覚えていただろう行為であったが、今だけは、母親の無償の愛情のように受け入れられていた。セイギはリズの体を抱きしめ、未だに嗚咽の止まらない顔を隠すように(うず)めた。



 セイギははっきりと思い出した。

 あの銀色が、ナイフが、自身の体に吸い込まれていくのを。腕や腿に突き立てられ、下腹に突き刺され、弄ぶように捻り掻き回され、何度も降り下ろされるのを。


 ゆっくりと暗黒に包まれていく絶望。

 来ない助け。


 哄笑。


 血。


 血。


 血。



 確かにセイギは一度、嬲られ殺されていた。

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