59.白亜の部屋で
トイ:お粥に似た食べ物
ディー:角兎
目を覚まして初めに飛び込んできたのは白亜の天井であった。見慣れないそれは驚きを隠し得ない程にまっさらで、行き過ぎて逆に禍々しくも見え、セイギは思わず緩慢な動作で視線を反らした。
まるで長い眠りに就いていたかのように気怠い感覚がセイギの全身を覆っていた。それは全ての感覚が薄いフィルター越しに感じられているようで、どこか現実味がなかった。
――夢。確かに夢を見ていた気がする。それはとても暖かく、優しく、それでいてとても悲しい夢。セイギは頬を伝う一条の水滴に気が付いた。――泣いていた?薄ぼんやりとそんなことを思う。何かが足りない。まるで手足を失ったような喪失感。何だ?何が足りない?セイギは自問自答を繰り返すが、結局は答えが返ってくることはなかった。
代わりにセイギはその視界の中に、一人の人物を見かけた。その人物は冷徹にセイギのことを見下し、何かを探るような目付きでいた。その視線にセイギは危機感を覚えるものの、鈍った感覚は身体に正直な信号を伝えてはくれなかった。
「……誰だ、お前は」
まるで声を出すことがなかったかのように、セイギの声は掠れていた。その事自体、セイギを驚愕させるのには十分だった。
セイギのその問いかけに、傍らに立っていた男は相好を崩した。
「やあ、【死神】君」
セイギの質問には一切答えず、男はそう告げた。まるで旧知の仲であるかのように、男はにこやかに笑いかける。けれどセイギはその顔に見覚えはなかった。当然訝しむのは当然のことであり、それはセイギの表情にも表れていた。その表情は些か引き攣った様子で、思い描いた通りのものではない。だがその意図を汲み取った男はそんなセイギを宥めるかのように落ち着いた様子で語りかける。
「君が訝るのも無理はない。私はグレンダー・マオリ。ただの一私人だ」
『グレンダー・マオリ』。その名前に一切聞き覚えはない。そして正体を『一私人』だと言ってしまうことも引っ掛かる。セイギはますます眉を潜めて反応を返す。
「そう睨まないでくれ。私は君を知っているが、君は私を知らないだろう。それは当然のことだ」
そこでグレンは言葉を切った。まるで次の言葉に特別な意味があるかのように。そしてそれはセイギに計り知れない打撃を与えることになった。
「君は五年も眠り続けていたのだから」
* * *
グレンからその事実を告げられたセイギは軽く意識を飛ばした。それ以降の言葉もどんな意味をも持ちはしなかった。――五年。決して短くはない時間だ。既にセイギは二十代に突入していることになる。自分の腕を伺ってみれば、最後に見たときよりもいくらか長くなった手足が確認できた。今はまだ分からなかったが、恐らく相貌もそれなりに変化していることだろう。これは自分の身体であり、そして他人の身体でもあった。
痩せ細った腕。棒のような足。見てくれは確実に病人のそれに違いない。触れた頬は痩せこけ、伸びた髭の感触に違和感を覚える。そんな中何故か綺麗に切り揃えられた髪の毛だけが不自然だった。
セイギは何も覚えていなかった。グレンが『あの事を覚えているか?』と言っていた気がするが、それが何を意図するものか一切分からなかった。衝撃的な事実に打ちのめされていたセイギは、その問いに答えることもなく呆然とグレンの言葉を頭の中でリフレインさせることしか出来なかった。
重要な事実を知っていそうな当のグレンも、『疲れているようだな。体力が戻り次第話をしよう』と言い残し、正気を失っているセイギを置いて出ていった。
セイギは四角い純白の部屋を眺めた。今セイギが横たわっているのは白いベッドの上。そのシーツは清潔に保たれ、少なくとも人の手間が掛かっていることを感じさせる。
『トイレはどうしたのだろうか』。ふと、現実逃避のように思考が巡る。しかしそれは重要なことであった。そんなセイギの思考を読み取ったかのように、白の部屋にノックの音が広がった。
「失礼いたします」
そう言葉を告げ、一人の女性が部屋へと入り込んできた。それは所謂メイド服というものであり、足元まであるロングスカートはプリーツがふんだんにあしらわれ、下半身のシルエットを完全に隠している。袖は短く、動きやすく工夫されていることがわかる。頭にはホワイトブリムを冠し、全身が白に包まれていた。その格好はセイギに、小学生の給食の白衣を思い出させるのであった。
「失礼いたします」
そう言うと、能面のような顔でメイドはセイギの布団を剥ぎ、力任せに服を掴んで脱がせた。念のため言っておくが、セイギは抵抗したのだ。その抵抗が微塵も通じなかったせいでそのような顛末になっただけなのだ。更には、セイギの着ていた服が脱がせやすかったというのも理由のうちの一つだ。もう一度言おう。セイギは戦った。
無惨に敗北し、息子を晒してしまっただけなのだ。
* * *
人間の尊厳とも言えるものを奪われ、セイギは何もする気が起きなくなっていた。
あの後はメイドに服をかっさらわれ、濡れた布で全身を拭かれた。初めは抵抗していたセイギだが、無言を貫き通すメイドの視線に心を折られたセイギは最後は抵抗する気力を失っていた。幸いだったことと言えば、メイドが老齢の女性で全くストライクゾーンとは外れていたことだった。もしも近い年齢の女性であったならば、セイギはこれ以上の羞恥を味わっていただろう。
いつの間にか配膳されていたトイを眺め、何か懐かしいものを感じていた。
何故、あそこまでの対応をしていながら食事は自力で取らせるのであろうか。セイギはおかしなものを感じながら、力の入らない腕を伸ばして木製のスプーンを掴む。そのままトイを口に運ぶが、何か違和感があった。行儀が悪いことではあるが、スプーンでトイをぐちゃぐちゃとかき混ぜる。
――ない。
ないのだ。ディーの肉が。
何故かセイギはその料理を知っていた。全然覚えていないはずなのに、何故かありありとその味が思い浮かぶ。これは違う。本能とも言える感覚がそれを告げている。どうしてそんなに心が叫ぶのか、セイギには分からなかった。
セイギはたった一人の部屋の中、不明な感情を抱いて慟哭した。




