58.優しいセカイ
新章へ突入します。
――ゆらゆらと、揺れる。
そこは何ものも存在せず、ただ無限に闇が広がっているだけだった。
人も、獣も、花も、草も、大地も、空も、そして空気さえも存在していないその空間は、一切の刺激もなくただ無為に広がっている。
――ふわふわと、泳ぐ。
まるで深淵にも似たその闇は、なにもないことが分かっているのに、逆になにもかものあらゆるものを内包しているようであった。それは零であり壱。無であり全。とても優しい世界。何者も争うことなく、そして失われることのない世界。
――ゆらゆらと、揺れる。
誰もいない。けれどみんながいる。だから決して寂しくなどはない。全てのものが等しく愛され、恨みも嫉妬も存在することなどない世界。世界に愛される世界。例えるならば、それはそう――天国、だろうか。
――ふわふわと、泳ぐ。
世界はすべてを溶け込ませたように濃厚な黒と、重たい質量を以て重厚な存在を肯定していた。それは何よりも重く、そして何よりも軽い。確かにそこにあるのにまるで空気のように目には見えない不思議な存在。
――ゆらゆらと、揺れる。
そんな世界に波紋が広がった。それは小さな波だった。そんな小さな波であっても、一欠片の揺るぎもなかった世界にとっては大きな変化であり、周囲を巻き込んで波は伝播していく。
――『ねえ、どうして泣いているの』
世界が世界へと囁くように問いかけた。けれど世界はそれに対して何一つ答えない。答えられない。そもそも世界は自身が『涙』を流していたことにさえ気付いていなかった。どうして泣いているのか、世界は分からなかった。
けれど世界は涙を零し続ける。世界に一つ、二つ――幾重もの波を築いてはそれが世界を揺らめかせる。
――『どうして泣いているの』
世界が再び同じ言葉をかける。やはり世界はそれに答えない。分からない。どうして自身が泣いているのか、まるで分からない。これが『感情』なのかも定かではない。けれど世界は存在しない肩を抱くように小さく縮こまった。そうしなければ壊れてしまいそうな気がして、力一杯抱き締める。存在しない肩が震え、声にならない声が零れる。
それは終わってしまった世界に波及し、まるで駄々を捏ねる子供のように無言の抵抗を繰り返しているようであった。
壊れる。世界が、壊れる。
すべてを含んだ世界は優しい。それでも今の世界は正体不明の『それ』に耐えきることが出来ない。世界は優しすぎて、脆すぎるのだ。今にも壊れてしまいたいという想いは、世界にとってあまりにも荷が勝っていた。
張り詰めた糸に刃物がピタリと当てられているような感覚。もはや限界を超えた限界。
そんな世界に黄金に輝く一条の光が差し込んだ。ただの闇に覆われる世界にとって、それはあまりにも異質であり、そして逆に神々しくあった。それは確かに存在しているが、決して刺すような強い光を放っているわけではない。すべてを包み込むような柔らかな光で世界を満たし、慈しむかのように世界を見守っているようでもあった。
世界はそれに見惚れた。 それが欲しくて愛おしくてどうしようのないものだと気が付いた。無くしていたのはそれだった。
抑えきれない震え。それは先程のものとは全く違う意味を持っていた。それは『歓喜』。世界はどうしようもないほどにそれを望み、希い、祈ってきた。
なぜそれを忘れていたのか、世界には理解できなかった。
ただそれを、それだけを望んでいたというのに。
そんな世界を見つめていた光は、それを見て満足したとでも言いたげな様子で明滅すると、次第にその姿を闇へと同一化させていく。
その様子に世界が覚えたのは『焦り』だった。光を飲み込んでいくのは世界だというのに、世界はそれを望まない。ありもしない腕を伸ばし、何度も腕を伸ばす。それは幻覚でさっかくでしかなかったが、それでも世界はその動作を辞めない。何度も何度も、何度でも何度でも繰り返す。繰り返して繰り返して、やはり届かない。
届かない届かない届かない。
光が消える。消えてしまう。
手を伸ばしているのに消えてしまう。
『情けない』、『恐ろしい』、『悔しい』、『悲しい』――一挙に去来する感情に世界は大きく震える。
光はなおも小さくなり続けていた。光は玉のようなサイズへ変わり、拳程の大きさになり、針のようになり、そして消えた。
世界は叫んだ。声にならない声を漏らし、届かない腕を伸ばし、存在しない頭を振り回す。すべてを怨み、自身を恨み、存在の消失を願った。
世界が崩れる。
黒が大きく撓み、修復できない程に歪んで亀裂が走る。世界は大きく悲鳴をあげ、痛みに悶えるように震える。
そんな世界に一言だけ言葉が満ちた。
――『セイギ』
たったそれだけ。それだけで世界は破滅を逃れ、穏やかさを取り戻す。
どうして忘れていたのだろうか。どうして無くしてしまったのだろうか。どうしてどうしてどうして。
そして世界が呟いた。
――『リズ』、と。




