57.Reset
グレンダー・マオリが見た光景はまさに地獄絵図だった。
鮮血がこぼれ肉片が飛び散る。一面見渡せば黒の槍が視界を埋め、まるで何かのオブジェのような景観を醸し出している。生き物の気配はなく動くものは皆無。上空では雑食の野鳥が飛び交っているが近寄る気配もなく、それはまるで景観そのものを恐れているかのようだった。
苦悶の声が漏れていないことが幸いだったかもしれない。もしもそれがあった場合、その現場はまさに生き地獄でしかなかったであろうから。今のその光景はまるで作り物のようでどこか現実感がなかった。
グレンの後部で青い顔をした新人の兵士が胃の内容物を吐き出していた。
「おい、大丈夫か?」
心配になったグレンが声をかけるが、新兵は左右に首を振るだけ。再び腰を落として嘔吐する。使い物にならないな、とグレンは思いつつ、自身も同じ年齢だった頃を思えば同じようなものか、と苦笑した。今回の惨状を思えば精神に来すダメージも計り知れないだろう。現にグレンもこうした惨状を見るのも20年来なかったものだ。
――戦争
グレンが見た悲劇とは人が人を殺し血を血で洗う戦いのものだった。恨み辛み。その傷痕は未だに人の心を苛んでいる筈だ。
その記憶を彷彿とさせるこの光景は異常だ。到底戦の終結した国で見られる光景ではない。それも個人が起こしたとは信じられない。
――【哀願の魔女】と【死神】、【異号】持ちにして畏怖の対象。
人ならざる者の起こした行動は、より鋭い爪痕を残しながら世界を蹂躙する。どう足掻いたところで天変地異に逆らえないのと同様に、【異号】持ちの人間に逆らえはしない。それをまざまざと見せ付けられる光景だ。
【異号】持ちに対する"教育"を問題視する声も上がっているが、現在の光景を見れば誰しもがその口を閉ざすだろう。そう確信できる程にこの状況は凄惨であった。
「隊長!」
グレンを呼ぶ若い声。それは黒の槍の中心から放たれていた。その声にはやや焦りと緊張が籠っていたことに感付いた。
グレンは注意深く足元を回避しながらその場へと向かう。例え既に命がないと言えど、それは元はヒトであったものだ。その人間を踏みにじりは出来ないという思いが密かにグレンの中にはあった。
「どうした?」
訝しんだ様子でグレンが声をかけると、声をかけた兵士は視線でその原因を示唆した。
桃色のバレッタが飾るブロンドの髪に陶磁器のように白い顔。本来は純白である筈のワンピースが血に染まり、それが乾き始めたことでどす黒く変わり始めていた。決してこの光景が似合うことのない少女は胸を上下させることもなければ声を漏らすこともない。
その傍らに寄り添うようにしている少年は少し日に焼けたような褐色の肌をしていた。そして何よりも目を引くものが――黒い髪。まるで宵闇を思い起こさせるその色はグレンですら見たこともない稀有な色だった。【死神】だ――グレンはそう直感した。地方には黒髪の少数民族がいると聞き及んでいたが、吸い込まれるような神秘的なその色合いは人智を超えた何かを感じ取らせた。そうなると少年の傍らに眠っている少女が【哀願の魔女】なのだろう、そうグレンは見当を付けた。
二人ともに――幼い。未だに成人さえしていないと思わせる容貌はようやく思春期を終えようとしている様相で、グレンに子供がいたならばまさに同じくらいの年齢であった筈だ。寄り添う二人は今際の際にあっても離れようとはせず、少年の少女を庇うような姿勢は愛しい人間を守ろうとするようで、誰が見ても恋人同士であったことが見てとれた。
それはとても悲惨で、悲劇でしかない。
この二人がこの凄惨な現状を生み出したとは、グレンには俄に信じられなかった。
「どうしますか、隊長」
その言葉にグレンは少年の胸が上下していることに気が付いた。――生きている。グレンの胸に恐怖の感覚が去来した。普く者が死の眠りに就く中、たった一人が生き残った、まるで他の命を犠牲にしたように。幼い、あどけない。だからこそ、危うい。グレンはその均衡の危うさを恐れた。
今回裏で糸を引いていたのはアーヴィン・ベルヌーイ・カスケット。賢しく保身と売名には目を見張るものがある貴族である。決して優秀とは言い切れないが、それでも無視できるほどの存在ではない。常に虎視眈々と上を狙い続けるハイエナのような存在であった。そしてそのアーヴィンの配下である隊を率いていた筈のウェヌカムイ・ボアット。異国の風体をした肌黒く屈強な肉体を持ち、戦闘となればトップクラスとも言える判断、策略で幾つもの戦場を生き延びてきた名のある男だ。腕っぷしも十分あり、一部ではあるがカリスマ性も兼ね備えていた。問題はその性格にあった。自己中心的な考え方に残虐な嗜好性。奪えるものは奪い犯せるものは犯す。それさえなければ、彼は英雄と呼ばれても可笑しくはなかっただろう。山賊、あるいは海賊のようであるが彼はその実績を以てして辛うじての均衡を保っていた。すべては計算づくの行動である。沈着にして狡猾。獣のようでいて狩人のような彼は【狡智の将】の【称号】を戴いていた。
グレンはその条件を思い浮かべただけで事の顛末を思い描く。それはつまりどう言うことなのか――【死神】と【哀願の魔女】の話を聞き付けたアーヴィンが【異号】持ちを獲得することを企んだ筈だ。【異号】持ちを確保し、国へと納めることともなれば彼の評価は大きく上昇するだろう。【異号】持ちとは即ち他国への牽制となりえるからだ。優秀な【異号】持ちを囲っていることこそ国の力と言い換えても過言ではない。そこで彼の持ちうる最高の持ち駒、ウェヌカムイへとお鉢が回る。『【死神】と【魔女】を捕らえよ』とでも指示を出したのだろう。そしてウェヌカムイは【死神】と【魔女】に接触を図る。――当然、無償で捉えるつもりなどはない。男は殴り蹴り、刺し切り落とし、女は絶望に落として犯す。そう目論んだ筈だ。
その結果がグレンの目の前に転がる光景だ。なぜ危機察知に優れたウェヌカムイともあろう者がこうした愚直な行動に出たのかは分からないが、これが現実だ。ウェヌカムイとその部下は悉くが死亡し、【哀願の魔女】も死んだ。生き残ったのは【死神】だけ。もしかするとさしものウェヌカムイでもこの現状さえ予期できなかったのかもしれない。現にグレンもこの光景を予想し得たかと言えば、それは断じてないと言い切れてしまうからだ。
――【死神】。その力は危険だ。想像さえ出来ない力を持ち一個小隊さえ一人で殲滅してしまう。最悪一国に相当するのではないか、と考えたグレンであったがまさかとその考えを否定した。
この幼い少年に秘められた可能性を鑑みて、グレンはたった一つの答えへとたどり着いた。
「隊長?」
「お前は何も見なかった」
「へ?」
唐突のグレンの言葉に兵士は間の抜けた言葉を漏らした。そんな部下に構わずグレンは腰に携えた剣をスルリと抜き出す。
「隊長!」
咎める部下の声を一切無視してグレンはそのまま腕を降り下ろした。心の中ではずっと謝罪をしながら。二人の命を奪うことを背負うことにして。
鮮血が飛び散り【死神】の体が痙攣する。舌が飛び出て苦悶の表情を浮かべる。視線は何処かへと飛び白目を剥いた。その凄惨な光景にグレンの部下は顔を引き攣らせたが、それ以上にグレンの表情は苦悶に満ち大きく歪んでいた。好きで命を奪うわけではない。子供を殺したい訳ではない。人を不幸にしたいわけではない。けれどここで【死神】を生かすこと、それはこれ以上の悲劇が大口を開けて待ち構えていることと道義だ。だからグレンは【異号】持ちを連れて帰るという命令に背いた。
けれどそれはなんの意味もない決意でしかなかった。
「隊長……」
俯き懺悔の心を表するグレンの耳に困惑する部下の声が届いた。どうしたのだと訝るような視線をやると、彼の部下は恐怖にも似た引き攣った表情を【死神】へと向けていた。どうしたものかと同じように視線をやったグレンの目が大きく見開かれた。
「生き返った……」
グレンは愕然とした言葉を零す。
それは既に常識の範疇を軽々と飛び越え、異次元と言っても差し支えがないほどに不気味な現象であった。
――不死。それはお伽噺で夢物語だ。それは確実に理から外れてしまった異端でしかない。死という終焉がない。もしそれに対峙するものはただただ絶望するしかない。どんなに時間をかけようと、最後には必ず負けることを運命付けられているのだから。
これはヒトなんかじゃない。
この時、何故かグレンは世界が破滅する未来を確信したのだった。
これが【死神】"誕生"の第一節である。
これにて『セイギノミカタ』第一部完結です。
次から二部へと突入します。




