56.散華
暗雲が立ち込めるように黒い槍が空を覆い尽くす。その異様な光景にすべてのものが硬直する中、ただ一人だけ奇声を上げていた。その声は耳障りで癪に障り、人の神経を逆撫でする。
「ヒヒッ、ヒヒヒヒッ、お、お前が悪いんだぞ?お前が先に殺したんだ」
笑っていた男が哄笑をやめて言う。それは言い訳のようで、その実命乞いでもあった。自身の正当性を主張し、行動の肯定を行う。尤も交渉における最重要な事項のであるところの理性が存在していない時点で、その思惑が叶うことなど決してなかったのだが。
「俺は悪くねえ!【魔女】が死んだのはお前のせ……ごぶぅっ!」
男の言葉は悲鳴と共に一本の槍に遮られた。男の腹部には禍々しい黒の槍が突き刺さり腸を露出させる。それにつられるように上空から幾本かの槍が男へと降り注ぐ。肩を、腰を、腕を、足を、頭蓋を、それは貫通して地面へと突き刺さる。それはまるではやにえであり、けれども決して食用などではないことが絶対の違いだった。それは玩具のように児戯のようにあらゆる箇所を槍に貫かれ、針山のように哀れな骸を晒すだけだ。
そんな元人間に見向きもせず、セイギは操られた人形のような足取りでリズの元へと歩いていた。今にも崩れ落ちそうなその姿は見るものに不安を抱かせる。
リズの元へと辿り着くと、膝から崩れるようにしてその場にへたり込む。まるで故意に揺らしているように大きく震わせた腕を仰向けに倒れているリズに向かって伸ばし、ゆっくりと上体を抱き起こす。震えは腕を通じてリズを細かく揺する。
リズの胸に生えた刃物は決してリズに似合っている筈もなく、意図的に不協和音を再現した美術品のように不気味な美を完成させていた。今もなお白の装束は鮮血に染められ、まるで初めからその色であったかのように深い紅に染色されていた。それはつまりリズの命の色で、今にもリズが生命を終えようとしている証に過ぎなかった。
止め処なく溢れる血を抑える術をセイギは知らず、ただただ無力にそれを眺めることしか出来ない。
「あ、あぁ……ああああ……」
意味のある言葉を発することも出来ない。この邪魔なナイフを取っ払ってしまいたい。でもそれをしてしまえばリズは確実に絶命する。けれどこのままでいてもリズは確実に冷たい骸になってしまう。
無為に過ごす時間にセイギはリズのワンピースを強く握りしめた。それは迷子にならないように服の裾を握る子供のように。
セイギの頬に、優しく手が添えられた。セイギが視線を上げると、そこには微笑んでセイギを見つめるリズの視線があった。いつもは温かい筈のその手も、今となってはひどく冷たく感じられた。
「セイギ……」
その声は今にも消えそうに掠れ、声を出すことさえ気怠げにも感じられる。
「リズ……リズ……」
まるで幼い子供のように名前を繰り返す。不安がそうさせるのか、消え入りそうな意識を呼び止めるためか、その名前を口に出さずにはいられない。セイギの目から涙が溢れ、不格好にも鼻水を垂らす。そんな様体を晒すセイギを笑う。何かを呟くように口を動かしているが、それはあまりにも小さく何も聞き取ることが出来ない。
「なに、リズ」
その口許へ耳を寄せる。その態度にリズは頬を緩ませた。今度は確実に伝えられるように。口に出来なかった言葉を、伝えるために。
「――愛してる」
最上級の愛の言葉。遠回りして、捻くれて、怒って泣いて、ようやく辿り着いたその答え。最上の笑みを込めてリズはそれを言い切った。
「お、俺も、俺も愛してる!」
リズに返されるのは同様の最上級の愛の言葉だ。それを聞いたリズは満足げに微笑んで目を瞑る。例え不幸だと言われる人生であっても、好きな人に出会い、互いの愛を認め合い、その人の腕の中で眠りに就く。不幸だからといってそれすべてを否定することは出来ないしするつもりもない。リズには一片の後悔もなかった。
リズのその態度にその時を感じ取ったのか、セイギはリズを揺さぶる。
「おい、リズ、リズ!」
それでもリズは目を開けることはしない。ただ口を開き。
「……ごめんね」
セイギ一人残してしまうことを悔いて。
無様に泣き出してしまうその人を置いて。
逝ってしまうことを、詫びる。
せめてその涙が乾くことを願って。
いつしかの笑顔が戻ることを望んで。
リズの意識は途絶えた。
急に重さを増したリズの身体に違和感を覚えるセイギ。先程にもまして揺さぶりを強める。
「おい、おい!嘘だよな!?起きてるよな!?返事をしろ!!」
その問いに答えるものはいない。いるのは出方を戸惑う男たちだけだ。
「嘘……だよな?はっ、早く起きろよ……寝てんなよ……リズ!!」
心のどこかで、セイギはそれを理解していた。けれど容易に認めることなど出来はしない。それは決して、あってはならないことだった。
「うぅぅぅ……ううううぅぅぅぅ……」
獣のような呻き声が地を這うように周囲へと広がる。セイギの心から溢れ出した感情が声となって溢れているようであった。
セイギはリズの頬を撫で上げる。リズの白い顔に紅の化粧が施される。それを気にすることなく血に染まった指先で何度も何度も頬をなぞる。その感触は柔らかく、そして今となっては冷たい。そのままブロンドを撫でる。枝毛や癖毛もないのか、指が引っ掛かることもなくするりと下へと抜ける。手櫛をするようにこれも何度も繰り返す。そのブロンドが染色に失敗したように疎らに紅く染められる。
一人沈黙してそれを繰り返すセイギの背中に、男が駆け寄った。その手に握られているのは大振りのバスターソード。それを思い切り降り下ろそうと力を込めたところで激痛が男を押し止めた。男の右鎖骨から肩甲骨へと抜けるように黒い槍が貫いていた。男が苦悶の声を上げるまもなく、黒の閃光が顔面を貫き男は絶命した。
攻撃の機会を伺っていた男たちもついにはその手段を見失い立ち尽くしていた。タイミングだけで言えば先程の男の仕掛けた攻撃は十分に不意を突いたものだった。それでも攻撃を仕掛ける以前に完封され、傷一つ負わすことが出来ていない。
不意にセイギが動いた。
「ごめん」
そう一言、物言わぬリズに告げるとその胸に刺さったククリナイフを引き抜く。大きな穴がリズの胸にポッカリと空き、そこから夥しい量のどす黒い血が流れ出してきた。その血液は未だに生暖かく、リズの命の最期の足掻きのようでもあった。
手についた血を一口舐め、余りの鉄臭さに咽せ返る。そのまま手に持ったククリナイフを大きく振り上げ、そのまま一直線に自身の首へと降り下ろした。
ブシュっと音を立て、セイギの首から鮮血が噴水のように噴き出した。その予想外の行動に男たちにざわめきが走った。
それは自らの命を自ら絶つ行為で、確認するまでもなくそれは致命傷であったからだ。
肉に食い込む刃物の苦痛と、急激に血液を失ったことでの寒気がセイギを襲っていた。けれどそれはセイギに後悔をもたらしはしない。あるのは命を終えることに対する恐怖と、世界から解放される薄暗い喜びだった。
次第に全身から脱力し、瞼さえも持ち上げることが億劫になっていた。そのまま視界は黒に塗りつぶされ。
そのまま永久に失われる予定であった筈の意識が不意にクリアになり、目を開くとセイギの目の前には先程と何一つ変わらない現実が去来していた。
「……ぅ……ぁ……」
目に入る情報が冷酷に現実を告げる。慌てて首を擦ってみるが、そこには一切の傷もなく、過去に傷を負ったような痕さえなかった。
自傷の行為さえ、なかったことになっていた。
死ぬことも許されず。
現実から目を背けることも許されず。
ただ世界がそうあるのなら。
――すべてを壊してしまおう
黒の槍が展開される。生き残った者がその顛末に怯え、恐怖に顔を引き攣らせる。ただ一人、リーダー格の男だけがその呪縛に囚われず、生き残るための手段に縋っていた。
「馬鹿が!【死神】をさっさと殺せぇっ!!」
その声に反応した男たちがようやくその動きを再開した。それぞれの獲物を持ちセイギに躍りかかる。けれどその悉くがその道中で槍の餌食となり消える。
リーダー本人も剣を抜き、果敢にセイギに飛び掛かる。降り注ぐ槍を躱し、弾き、いなし、少しずつではあるがセイギに接近する。けれど弾幕に阻まれ決定的な一撃を加えることが出来ない。ふと男は思い出したように懐に手を入れ、スルリと取り出したそれを投げつけた。非常に緩慢な動きで投げられたそれは躱そうと思えば躱せるものだったが、セイギは慌ててわざと自身の体で受けた。ナイフの軌道は、リズを貫く軌道であったからだ。睨み付けようとするセイギの首を、男がはねた。再び血が噴水のように噴き出し、赤い雨を降らせる。男はそれを意にも介した様子を見せず、セイギの胴体を頭上に翳す。黒い槍が雨ならば、セイギの胴体は傘だった。
範囲攻撃と言うのはその広範囲の攻撃の反面、緻密な攻撃には向いていない。術師が中にいた場合、それではただの自滅となってしまう。それ故、範囲攻撃は術師を自動的に判別し、避けるようになっている。これも一種の防衛本能のようなものだ。
男は蓄えた知識から此度の答えを導き出していた。だが、セイギは術師などではなく。その通例に当てはまることもなく。――ただ生き物を殺すだけの【死神】だった。
激痛が男を襲った。それは予想外の出来事であり、本来であればあり得ない筈だった。
黒い槍がセイギの腹部を貫通し、そのまま背を抜けて男の肩に突き刺さっていた。途中に生物を介したせいでその威力は収まっているものの、その事実は男にとって致命的であった。
幾本もの槍がセイギを貫通し、そのまま男を貫く。セイギの胴体を投げ捨てたが、それももはや手遅れであった。身体に刺さった槍のせいで先程のような動きを満足に取ることが出来ず、弾くことも出来なければいなすことさえ出来ずにその身に黒の華を咲かせる。ついに男は地に倒れ臥し、追い討ちをかけるようにそこに容赦なく黒が突き立てられる。
信頼していた集団の頭の死に、未だに生き残っていた男たちがようやく事態を把握し逃げ惑う。しかし、それはあまりにも遅く、あまりにも愚かであった。右往左往するその姿に、他の骸同様に雨が降り注ぎ、すべての生き物を殺戮する。
悲鳴が響き。
嗚咽が溢れ。
身体が崩れ。
その場のすべての生き物が命を終えた。
そして再び意識を覚醒させたセイギは、周囲を伺い生きているものがいないことを確認すると、空に咲いた黒の華をすべて自身へ向けて撃ち込んだのだった。




