55.黒の華
前編後編に分けました。特に意味はないです。←
緩やかに歩を進める二人。
「今日は夜どうしようか?」
「うーん、どうしよっか。今日は甘いもん食べたからしょっぱいものがいい気分」
「実は甘いもの関係ないでしょ」
「分かった?」
「分かるわよ」
下らない談笑ながらも愉楽に交わしながら家路を辿る。その穏やかな風景が変貌したのは実に突然だった。
始めにセイギの肩に手がかけられた。それに反応して振り向こうとしたセイギの視界が大きくぶれて世界が明滅する。殴られた――それに気が付いたのはドッと地面に倒れ臥し、駆け寄ろうとするリズの腕が捻り上げられているのを見た時だった。
思考の止まったセイギを責めるように頬がジンジンと痛みを発する。視界に飛び込む景色と状況の何一つが一致しない。
「イエーイ、一番乗りぃ」
「流石だわぁ。惚れるわー」
「次俺な」
「おい、順番守れよ」
「とか言ってビビってんだろ?」
ギャハハハハ、と野卑な笑い声が響く。セイギは未だにショックから立ち直れずにいたが、男の腕から逃れようと藻掻くリズの姿を視界に入れるや否や、立ち上がってその男に向かって突進をかける。
「リズを離せよ……!」
セイギの腕が男に伸びきる直前、セイギの体は後ろへと引き倒された。それに反応しきる前にセイギの腹に脚が踏み下ろされた。
「ボクたち無視しないでよー。つまんないじゃん」
まるで道端に転がる石を蹴飛ばすようにセイギを蹴り始める男。そうすることに何の違和感もないのか、その表情には後ろ暗さも躊躇いもない。
「そうだよぉ。俺たちと遊ぼうぜぇ?」
そして一同が笑いだす。
そこでセイギは男たちが二三十人はいることに気が付いた。そして同時に震える。数とは暴力で、個人とは無力なのだと実感する。状況は絶望的だ。何が素振りだ、何が筋トレだ。肝心なところで何一つ役に立っていないではないか。
繰り出される足数は減らず、逆に増えていく一方だ。初めは一人だったのが今では五人以上に増えていた。セイギはそれになす術もなく、顔や腹などの急所をガードするだけで精一杯だ。既に周囲を観察している余裕もない。
膝が、腿が、胸が、腕が、頭が、どこもかしこも足蹴にされない場所は存在しない。当然加減などは存在しない。既に肋骨や内臓にまでダメージが与えられていることは確定的だった。
「クッソよえーじゃん」
「マジつまんねーわ」
「そうか?ストレス解消にはいいじゃん」
「確かに」
再びの爆笑。セイギの視界は腫れ上がった目蓋によって半分以上が黒く塗り潰されている。もはや視覚は用を成していない。それ故か、耳に音がクリアに響く。
男たちの暴力の音。セイギの心臓の音。セイギの苦し紛れの息の音。そして――リズの泣き叫ぶ声が、聞こえた。
『セイギを蹴らないで』、『セイギを助けて』、『もう許して』。そんな声がセイギの耳に届く。肉体の苦痛は絶えない。今にも意識を失ってしまってもおかしくはない。腕の骨が折れた。足首がおかしな方向へ曲がった。擦り傷は絶えず青あざが増える。口内が切れて鉄の臭いが広がる。
痛くて痛くて痛くて、逃げ出したくて泣き叫びたくて、痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
思考がただそれ一色に染まる。
「セイギィッ!」
「うるせえぞ女!」
セイギの名を呼ぶ声と、何かを殴り付けたような鈍い音が同時にセイギの耳に届いた。僅かだがくぐもった悲鳴も聞こえていた。
「おい、顔殴んなよ。抱くとき不細工で見れねーじゃねーかよ」
「お前には不細工が丁度いいだろうが」
不快な雑音が響く。有象無象がノイズを撒き散らして世界を黒く染めている。
「本当に【死神】と【魔女】なのか?弱すぎてつまらないんだが」
「違ったら殺せば終わりだろ」
「それもそうか」
もはや雑音はセイギの耳を通りすぎるだけで、意味すらもない。聞こえるのはたった一つ、あの鈴のように通った声だけ。
「おら、脱げよ!」
「い、いやぁ……!」
その声が、恐怖に震え、涙を堪えて悲鳴を上げていた。
その声は助けを求めているようで、折れかけたセイギを再び奮い立たせる。
蹲って泣いているだけでは、いられない。
「……な……、……ょ」
「うんー?【死神】君が、なんか言ってるよー?『僕にも裸見せて欲しー』って?」
男が奇妙な裏声で周囲の笑い声を誘う。しかしそれはセイギを止め得ない。
「……リズを、離せよ……」
「うん?なんだって?」
恍けた格好で耳をセイギに近付け、セイギの動作を嘲笑う。周囲もそれにつられて笑う。
その一瞬後、それはその滑稽な格好のままでドロリと地面に溶けた。
一瞬の静寂。理解出来ないことへの恐怖。重たい空気の中、たった一言だけ。
「リズを、離せ」
恐怖は瞬時に伝播した。困惑が、怒声が響き渡る。
「イアスン!ヴァイツ!ライドー!【死神】の意識を奪え!」
「うす」
「はいよ」
「お、おぉ」
素早い指示が飛ぶ。状況に戸惑うことなく、最善とはいかないが冷静に判断した上でのものだった。
その思考の切り換えの速さは、決して素人のものではない。培ってきた経験でどんな状態にも対応してきた。今回もその通りこなすだけで十分の筈だ。
ただし、相手が普通であれば、の話だった。
まず手始めに飛び掛かってきた邪魔な三人は口や耳から血を噴き出してその場に崩れ落ちた。生まれたての小鹿のようにゆっくりと立ち上がろうとするセイギの背中に、二人が襲い掛かる。
男たちの腹部に剣が生えた。それは生命に必要な内臓をごちゃ混ぜにかき混ぜ、人間としての体裁を崩し、人でなくなった二人はドサリとその場に倒れる。
異常だった。到底一人の人間が持ちうる力ではなかった。物理法則も、魔法も何かもかも超越したところにそれはあった。もはや人間の領域を超えていることを悟ったリーダー格の男がスッと腕を挙げた。それを合図にセイギの周囲から男たちが飛びすさるように離れる。
違和感を覚えたのも一瞬、矢という矢がセイギの全身を貫いた。その場に膝から崩れ落ちるように倒れ込む。そのセイギの顔を爆炎が吹き飛ばした。
タンパク質が燃える鼻につく臭いが立ち込める。
「ぃ、いやぁ、セイギィ……」
「やったか?」
リズは既に嗚咽を零さない。静かに滔々と涙を流すだけ。絶望的なその状況を理解して既に心を支えるものが壊れてしまったのだ。
そして燻った煙幕が晴れ、視界がクリアに通る。その中に見えたのは、何事もなかったかのように立ち上がるセイギの姿だった。
「え?」
「は?」
誰しもから困惑の声が聞こえた。その中でただ一人、リーダー格の男が平静を崩すことなく再び腕を掲げた。攻撃の合図。しかし何も変化は起きない。
それは当然だった。行動を起こすのはいつだって生きている人間。矢を放った人間は同様に矢に貫かれ、魔法を撃った人間は首から上を吹き飛ばされて絶命していた。生者はいないのだから何も起こらない。
不意に訪れた静寂の中、セイギが一言。
「リズを返せ」
生き残っている男たちは全身に鳥肌を立たせた。殺意の対象ではないリズでさえ、言葉を失っていた。
今セイギの前にいるのは等しく虫のように軽く捻り潰せる小さな命だった。
「ぅ、ぅぅぅぅうううわあああああぁぁぁ!」
それは悲鳴だったのか、自らを鼓舞する声だったのか、絶望を悟った男の口から零れた叫びだった。
男は手に持ったククリナイフを我武者羅に投げつけた。それは背中を向けていたセイギに向かうどころか、てんで見当違いの方向へと宙を滑る。
セイギが自身の脅威ですらないその刃物の行方を何気なく目で追っていると。
冗談のように真っ直ぐに。
まるで吸い込まれるように。
リズの胸へと。
突き刺さった。
「え……」
リズの驚きに見開いた目が。
「ヒヒッ!」
それを嘲笑う男の声が。
「――――――――――――っ!!」
セイギの声にならない叫びが。
世界に影が落ちた。
天上に一輪の黒い槍の華が、咲いた。




