45.常の定義
投稿随分遅くなりました。申し訳がございません。
普段の光景を取り戻したリズの家には幾ばくかの平穏が舞い戻っていた。
《竜の墓場》の一行が街を発ってから三日後のことである。
当時激昂していたリズであったが、今はそれがまるで嘘であったかのように穏やかな表情を見せていた。
リズの気性とは本来笑っている事が中心で、時にはその感受性の強さから涙を零すことや怒りを顕にすることもある。ただそれも瞬間的なものであり、持続してその感情を持ち続けるということは少ない。
それ故にリズは日常を取り戻したのだが、未だに時折見せる表情は憂いであった。
《竜の墓場》の発した言葉にどれ程の意味があるのか、セイギは露とも知らず、かけべきる言葉も選べずにただ隣で作ったような笑顔を浮かべることしか出来なかった。
彼の一行が来る前とは変わらない漫然とした日々が繰り返される。それを無為に無垢に無情に信じることなどは到底出来ない。それは致命的なまでに決定的な出来事であったのだ。
セイギは考える。
――【魔女】
元の世界でもそれは異端であった頃を持つ。今となっては普遍的で一般的とも言われているが、その経歴の持つ深淵にも似た闇は深い。人が人のために人を殺し、我が物顔で自らの正義を主張する。正義の名の元に凶刃を振るい、力無き存在を淘汰してきた。
人とはそうして生きてきた。大義名分を元に線引きをして、切り捨てては不幸を廃棄するかのように無理強いに押し付ける。
この世界でも、それはきっと同じなのだろう。
どこへ行こうとも人は所詮人でしかない。ならば同じ本質が同じ結果を導くのもまた道理。欠伸が出るほどにつまらない事実。
セイギは自身の名や父親にコンプレックスを抱いていた。
――人と同じがいい
常々セイギが胸に抱えてきたものだ。名で、親でレッテルを貼られることもなく、等身大としての自分を受け入れて欲しい。愛して欲しい。
けれど人は恐い。悪意を叩きつけるような人間がいる。作った笑顔の下で嘲笑う人間がいる。セイギはその事実を知っていた。
だからセイギは息を殺したように生きてきた。初めはちょっとした苦笑からだった。やがて声を出して笑えるようになった。次第に言葉も騙れるようになった。いつしか真実と嘘の境界が曖昧になった。
見せる表情も、語る言葉も全ては作り物。創作物。フィクション。
無難に、無難に。
嫌われたくない。
セイギはもはや、自分の本意がどこにあるのかすら分からなくなっていた。
つとセイギがリズに視線をやる。談笑を続けるリズの表情は花の開いたように柔く温い。何かを強要する表情ではなく、何かを与える表情だ。その表情に陰は見えない。
彼女は違う。彼女だけは別だ。
嘘は吐けない。嘘を吐くことは許されない。
自身以上の偏見の目に晒されただろうという事実が――
セイギに安堵を与え――
等身大の自分を見てくれる。受け入れてくれる。
それでもセイギの想像だにしない過去を思えば胸にはち切れんばかりの何かが去来する。その正体をセイギは理解できない、言葉に出来ない。ただ分かることと言えばそれがリズに対する感情であることとリズの手を取りたいと願うその思いだった。
だからリズがその胸の内を語ってくれるまで、セイギは待とうと誓った。
* * *
まるで縁日のあとのように静けさを取り戻したリズの家では、二人が日々を勤勉ながらも怠惰に過ごしていた。
セイギは常識を学ぶ傍らリズの手伝いをし、リズは日々を生活する中で講師となる。ほぼ歩みを止めた水の流れの滞ったような停滞の日々は、穏やかでありながらもその喩えの如く腐敗の臭いがしていた。
セイギはそれを理解した上で良しとしていた。
甘く、甘く、しかしそれは毒だ。心を蕩かせる一方で心の奥を蝕み、気付けばその毒に心から犯されている。鋭く尖った鏃のように、心を穿って放さない。それはひどく心地よく、波間に漂うように悠然としていることさえも出来る。甘受すればそのすべてが許され受け入れられる。
それを受け入れることは出来る。けれどもそれをしてしまえばただ堕ちていく道しかない。
リズは理性でそれを堪えていた。
甘美なそのぬるま湯に浸ってしまいたい気持ちは堪えきれない。けれど全てを語ってはいないままにセイギに依存することはリズが許してはいなかった。セイギの甘さに甘えてはいるが、それは超えてはいけない一線だと割り切っていた。
あえて普段通りに振る舞おうとするも、どことなく引いた姿勢が見てとれる。けれどセイギは何一つ聞きはしない。
「今日は俺が料理するよ」
「それじゃあ狩りに行ってくる」
「畑仕事はやっておくから」
セイギの態度は少しばかり優しく、けれど確かに違和感を感じるほどには違う。
セイギにそのつもりはない。そのつもりはなくとも、無意識のうちにそう振る舞っていた。傷付いたリズの表情を見て、少しでも負担を減らそうと、障害を取り除こうと、その心が行為をなしていた。
セイギは否定しない。
セイギは問い詰めない。
セイギは望まない。
優しくて優しくて、痛みを伴うほどに優しい。
どことなく歪な日常が帰ってきていた。
それを咎めるものはなく、諌めるものもない。
心を苛むのはリズの良心。呵責の念は重く、カリカリと、表面を撫でるように精神を削っていた。
なにも言わないセイギの笑顔が、重い。
50話辺りには一次ピークを迎えそうです。




