22.獣たちの宴
セイギの耳にそれが飛び込んできたのは唐突だった。
何かがセイギに駆け寄るような足音。だがそれは二足歩行ではあり得ない足数の多さだった。
勢いよく振り返ったセイギは、しかしその正体を見るには至らなかった。
激しい衝撃がセイギを吹き飛ばす。同時に腕に切れたような痛みが走る。
「つっ!」
土道に倒れ混むセイギ。しかし、視界に入った躍りかかる影に咄嗟に転がり、その場を逃げる。セイギの元いた場所に立つのはいつぞや見かけた兎耳の狐だった。
「よ、よお。久しぶりだな」
冷静なのか、恐怖の影響なのか、セイギが行ったのは拍子の抜けた挨拶だった。まだ言葉を発することが出来る程度には冷静であることは確かだ。
「グルルル、じゃなくて仲良くしない?」
そう話し掛けながら立ち上がるセイギの膝は震えている。冷静でありながらも恐怖がセイギを苛み続ける。
密かに周囲に視線を走らせ、武器になりそうなものを探す。しかし目ぼしいものは短い枝程度しか落ちていない。それも大した太さではなく、頼りようがない。それでも無いよりはマシだ。
ただしセイギから五メートルは離れている。無償で譲って貰える距離ではない。
じっと狐の動きを見張る。僅かな動きさえも見逃さないつもりでその筋肉の収縮から発散までの動作の一重を決して見逃さないように。
ピクリ、と獣の筋肉が収縮し始める。大きく力を溜め込み体を後ろに引いて--
(今!)
その瞬間にセイギは大きく転がり、届かなかった分を飛び込むことで木の棒を掴むことに成功する。だがそれに続く動作をさせまいとするかのように狐はセイギに追い討ちをかけようとする。
セイギはすべてをスローのように感じていた。飛び掛ろうとする狐の動作や筋肉の収縮や伸び、そしてその可動域。飛び掛かる狐の腕を掻い潜り、大きく開く口を躱し、その鼻面に正確に木の棒で突く。中学時代に剣道部で培った経験が、辞めた今でも予想もしないこのような結果をもたらした。決して鋭い武器とは言えないものであるが、その対象は動物の弱点である箇所だ。少なくとも視界がグラつく程度には鈍い痛みは与えられるだろう。
本来であればそのまま追い打ちで決めることが出来たであろうが、如何せん手元の武器が心本ないものであるため、距離を詰めることができなかった。
(このまま逃げてくれないか……?)
セイギが乞い願うのは殺生を避ける道だ。お互い有効打はない。簡単に狩れる獲物でないと分かればきっとこの兎耳狐も諦めるに違いない。そうセイギは思っていた。
獣はじっとセイギを見つめる。威嚇はしているが、直ぐには飛び掛れるほど調子は取り戻していないのは確実だ。
ふと、獣が上を見上げる。釣られて上を見るセイギ。しかしそこには何もない。獣の意図したものはもっと別のものだ。慌てて視線を戻すセイギの耳に届くもの。
『ヲヲーーーーーーン!』
遠くまで響き渡る遠吠え。それは一頭ではこの獲物を狩れないと判断した獣の抵抗であった。
「ざっけんな!」
この行動に焦ったセイギは冷静さを失い狐に飛び掛かるも、如何せんリーチの短い棒しかないため、距離を取って逃げ回る狐にはその攻撃は届かない。
即かず離れずの距離を取り続ける狐にセイギのストレスはピークに達する。けれども手の出し様がない。こいつが付いている以上、他の狐にも居場所が知られているのも同然。どうにかしなければいけないことも理解しているが、そのための方法がない。
無為に時間を潰し続けてしまった結果、セイギは七頭の兎耳狐に囲まれる事態へと追いやられていた。冷静に考えれば街なりリズの家なりに向けて走っていればまだ助けがあったかもしれない。だが冷静さを欠いていたセイギは目の前の獣に気を取られることでその選択肢を潰してしまったのだ。
狐達は徐々にその半径を狭め始め、いつでもセイギに飛び掛ろうとしている。一人に対して七頭。獣の計算では圧倒的な力量差だった。既に獣たちは獲物を獲得したものとでも考えているのか、セイギを前に垂涎している。
セイギが目の前の狐の視線から意識を逸したその瞬間、その狐がセイギに飛び掛った。
先ほどと同様に目の前の狐の鼻っ面に木の棒を叩き込もうとした瞬間、四方からの痛みで集中力が途切れた。
「痛ええええええぇぇぇ!!」
腕に、足に、肩に、腹に、牙が、爪が皮膚を突き破り食い込んでいる。
我武者羅に暴れるも強靭な顎や腕はそう簡単に離れない。むしろ更に食い込んでいくようにも錯覚する。
振り回す腕も的確に狙うことなど出来る筈もなく、狐達は容易に回避し掠ることすら出来ない。それどころかセイギの肉体を食いちぎるように顔を振り回す。
「ッ!!」
あまりの激痛に意識が白む。けれどもセイギの目を醒まさせるのもその激痛だった。痛みの無限地獄だ。
その動きの鈍った一瞬を狙いすまし、狐がセイギの喉に食いつこうと鋭い牙を剥いて飛び掛かり--
セイギは全てが止まったかのような錯覚に陥った。
目の前に迫ったのは牙を剥いた獣。手足も満足に動かせないセイギには避ける術もない。そして両手両足にすがりつく五頭の狐。爪や牙が食い込み、場所によっては既に肉が食いちぎられている。残りの一頭は始めにセイギが対峙した狐だろうか、少しふらついたようにセイギを見据えていた。
セイギの心はひどく冷静だった。
(そうだな、喉を食いちぎられたら死んじゃうな)
セイギに踊りかかっていた狐の首から肉が千切れ落ち、呼吸すら満足に出来ない状態になる。その一瞬では他の狐が気付ける間ではなかった。
(腕も足も背中も食われて、このままだと死ぬのかな……)
それと同時にセイギに群がっていた狐たちの四肢や背中の肉が食いちぎられたように削がれる。
突然襲った激痛に狐達は叫び声を上げて地面をのたうち回る。その光景に一頭だけセイギを監視していた狐が逃げ出そうと駆け出した。それを呆然とした様子で眺めていたセイギだったが、急に込み上げた怒りがセイギを急き立てた。
(逃げるのか!?俺を襲っておいて!)
既に人間の足では追いつけない距離まで逃げ出していたその獣は安堵という気持ちを覚えていた。理不尽とも言える阿鼻叫喚の地獄絵図という恐怖を脱することに成功したのだ。しかし、その肉体にも突如として変化が訪れた。狐の視界が急激に落ちたのだ。別に転倒をした訳でもない。頭を下げた訳でもない。それなのになぜ――そこでその生物の意識とも言えるものは途絶えた。
狐の首は綺麗さっぱりと切り落とされていた。まるで斬首台で断ち切られたように。
自身の死を認めたように感じていたセイギは、唐突に訪れた終焉に対応できずにいた。周囲に溢れかえる狐どもの悲鳴や血臭が現実感を剥離させていた。血を流し過ぎたのか、頭は夢見心地のようにぼーっとしている。そんなセイギの耳に届くものが一つ、あった。
駆けるような足音。それはあの気味の悪い四足歩行のものではない。人間の、二足歩行の足音だ。次第にそれは大きくなり、すぐそこに迫ったことが分かる。
「セイギッ!!」
悠然とセイギが振り返ると、息を切らした様子で青ざめた表情のリズがそこに佇んでいた。




