16.死の願い
また少し残酷描写チックなものがあります。苦手な方は飛ばしてお読み下さい。
全てが静止しているように見えた。
激しく揺れる梢も、肉の抉れた腕からの出血も、リズに差し迫る牙も、何もかもが静止しているように見えた。
灼熱のような痛みを腕に感じつつ、逆に頭が冴え思考がクリアになる。致命的な怪我によって脳内麻薬が多量に分泌されることで過度な痛みを感じ取れなくなっていた。
音も無い。無音、無音、無音。
心音が。呼吸が。思考が。
(死ぬ?死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!)
恐怖を呼び覚ます。
リズもセイギも、ここで命を散らす。それしか見えない。
(なんでなんでなんでなんでなんでなんで)
理不尽な死への呪詛。自らを殺す存在を祟る。
許しがたい。許されない。赦せない。
それはたった一瞬の思考。
それは一つの結論を結ぶ。
リズの柔らかな喉を食い千切ろうとする灰大熊の牙がその悲願を叶えることもなく。
灰大熊の顔が爆散していた。
それは純然たる事実だ。比喩でも例えでもない。
リズの顔に血飛沫が滝のようにかかる。気味の悪い具合のその熱に一瞬戸惑いを覚えるが、直ぐに圧倒的な重量が慣性に従ってリズを大きく弾き飛ばす。
「グッ」
木立の中ゆえにトップスピードとはいかなかったが、それなりの速さを持っていた巨体がぶつかったのだ、無傷とはそうそういかないだろう。それでも未だに命を保っている時点でかなりの幸運だということに変わりはない。
視界が一瞬ブラックアウトしかけるも、辛うじて現世に意識を留めることに成功する。
リズに迫っていた灰大熊の首から上は無惨にも形なく吹き飛び、リズの下半身を覆うようにしてのし掛っていた。流石の巨体だけあり、一人では脱出できないことを悟ったリズは顔を上げてセイギを探す。
セイギは10メートルほど離れた木立にぐったりと背中を預けていた。セイギのすぐ側の灰大熊も大きな傷は見えなかったが、倒れ伏して動こうともしないところを見るからに息絶えていた。
「セイギッ、大丈夫!?」
リズの呼び掛けにゆっくりと顔を上げるセイギ。その顔は驚きに満ち溢れているようであり、安堵や恐怖も混じったような顔をしている。
セイギは腕を挙げてリズに手を振る。
「おー、大丈夫」
そこでようやく現状を理解できたのか、セイギの表情は歓喜一色に染まる。
その様子を見ていたリズにも笑顔が戻る。しかし、身動きの取れない現状を思い出し、直ぐに険しい表情に戻る。
「セイギー、動けないの!手を貸して!」
呼び掛けられたセイギは立ち上がろうとして、そのままへたり込んだ。
「あ、あれ?……ごめん。腰抜けた」
険しい顔のリズは一転、大笑いした。
* * *
梃子の原理の要領で何とかリズにのし掛った灰大熊を退けることに成功したが、その際に足首を捻ったのか、リズは一人で歩くことが出来なかった。
血の臭いに釣られた獣が来る前にこの場を離れたいと言うことで、セイギはリズに肩を貸して獣道を歩いていた。
その道中、もちろん灰大熊の死についての会話が繰り広げられていた。
「あの死に方は絶対におかしい」
それも当然だ。野性動物が突然爆発することなど一切あり得ない。それも二体同時に、違う方法ではあるが命を失うというのは不自然だ。少なくとも第三者等の外的要因があることは間違いない。
「セイギ、聞いてるの?」
「へ?あ、ごめん」
セイギは自身の腕を見つめるばかりでリズの言葉の大半を聞き流していた。それ故にリズの言葉にまともに反応することが出来なかった。
「腕、どうかしたの?」
そんなセイギの態度に不信感を覚えたのか、リズがセイギに問う。
「いや……大したことじゃないよ」
リズのそんな疑問に対してまともに答えないセイギ。それを訝しみながらも、それ以上の追求は遠慮した。精神の麻痺を起こすような体験をしたのだ、少しばかり気も漫ろになるだろう、と。
実際には大したことがあった。セイギも理解の出来ない現象だ。
実はセイギに立ちはだかった灰大熊の一撃は、セイギの腕に直撃していた。咄嗟に庇った腕はその鋭い爪の餌食となり、肉を大幅に抉られたのだ。それこそ骨の見えるほどに、だ。
しかし事が終わってみればセイギには傷ひとつ残っていなかった。幻覚や錯覚ではない。確かな痛覚もあった。それでも事実は異なる。
セイギはそれをリズには伝えられなかった。伝えてしまえばきっと、今までとは同じように過ごせなくなる、そんな確信を抱いていた。
その上、セイギは隠している事があった。
灰大熊達の死だ。
リズに食い付こうとした灰大熊の顔は消し飛んだ。『灰大熊の頭がなければリズは死なない』からだ。そしてセイギを襲った灰大熊は、うつ伏せに倒れていたが恐らく複数の刺し傷があり、腹部を切開された上に、内臓を掻き乱されている。それは正に『セイギの体験した通り』の死だからだ。
それらは『セイギの望んだ通りの死の形』だった。
セイギの隣では未だに興奮した様子でリズが灰大熊の話をしている。今は『灰大熊の頭を弾き飛ばすにはどの程度の力が必要なのか』を熱心に検討していた。
セイギはそれにまともに答えることもできず、心に陰鬱な影を落としつつ歩き続けた。




