15.灰色の悪夢
道なき道からようやく獣道へと差し掛かった頃、セイギの青かった顔にも大分血色が戻り始めていた。
ここでセイギはリズの肩を借りることを辞め、自力で歩くことを決めた。リズは未だ不調を来しているセイギを引き止めようとしたが、男としてのプライドか、セイギはそれを固辞した。狩りで自身だけが血相を変えている以上、そのような矜持などもはや体を成してすらいなかったが。
セイギは情けなさ以上に恥ずかしさを感じていた。女の子が平然と狩りをしているのに自分がこの体たらく。如何に恵まれた環境でぬくぬくと育ってきたのかを実感していた。
リズの場合は後悔の念に負われていた。
セイギの精神が十分に落ち着いたように感じたせいでこのような無理な行動を行ってしまった。セイギが生き物の生死に敏感であることを感じ取っていたにも関わらず、だ。
リズは明らかに失敗したのだ。
こうして二人が意気消沈していたせいか、そのどちらもが気付くのに遅れた。
「止まって!」
リズが小さく、そして鋭くセイギを静止させる。素直に立ち止まるセイギ。
リズの鋭く見やる先には大きな獣がいた。体長は3メートルを超えるのか、四つ足でいるために正確な大きさは把握出来ない。しかしその重量感は既にトンに差し迫らんとするものだと感じさせる。そしてその双眸はセイギとリズを見つめている。それは既に獲物を見つめる目であった。
「なんであんなのが……」
この独白はリズの心象を如実に表していた。
この生き物は灰大熊といい、その名の通り灰色をしている。その体躯は最大で7メートルを記録し、体重も軽く位が繰り上がる。雑食で何でも食すが基本的に肉を好む性質をしている。
性格は獰猛で獲物を見ると何処までも執拗に追いかけ回す。嗅覚も敏感で1キロ先の血の臭いも嗅ぎ付けると言う。その巨体に似合わず敏捷で、時速60キロを維持することも可能だ。そして器用であり木に上ることも出来るが、その巨体ゆえに木の方が耐えられないことも多い。そして想像以上に狡猾で、自然をトラップとして利用することもあると言う。
まず一般の兵士が一対一で遭遇したら、確実に死が決定付けられる。どのような装備をしたところでそれは確定事項だ。二人でも危うい。これが四五人であれば生き残る者も出てくる。そう言った類のものだ。
この灰大熊は《山の悪魔》、《死の厄災》という二つ名を持ち、【猛き狩人】の称号を持つ。食物連鎖の頂上に君臨し、それ故に陸上最強の獣と呼ばれている。
得てしてこの生き物は山の深い場所に住処をもち、決して平原の森に出没するような生き物ではない。当然この森に生きているような代物ではない。
セイギは死んだ。既に逃げようとも、死にたくないとも感じられなかった。その獣の眼を認めた瞬間、死が確約されたのだと確信した。
既にその爪で、牙で引き裂かれるビジョンしか思い浮かばない。
隣のリズはまだ意識を手放さなかった。既に威圧され、足も大きく震えている。だが必死に生き残るための算段を立てようとしていた。しかし生き残れる道は全て潰えている。弓を射ようが走って逃げようが、囮を残そうが森を焼こうが、そのどれもがリズの死へと収束している。
それ故に一つだけ決心をすることが出来た。
「セイギ、私が囮になるからその間に逃げて」
たった一つ、セイギに提示された生き残るための手段。それは余りにも残酷な手であった。
「な、なに馬鹿なこと言ってんだ!二人で逃げんだよ!」
「逃げられると思う?」
余りにも唐突な提案に、出来ないと分かりながらも思わず否定したセイギであったが、冷静にそれを却下するリズ。
「この獣道真っ直ぐ抜けると森の外に出られるから。家から道が出てるの、覚えてる?あの道を真っ直ぐ行くと街があるから、そこから助けを呼んで来てくれない?」
「だったら囮は俺が……」
「セイギは狩りに慣れてないじゃない。瞬殺よ、瞬殺」
「瞬殺って……」
完全には否定できないセイギ。それでも男としてのプライドかなかなかそれを許そうとしない。
「だからって……」
「いいから行って!」
駄々を捏ねるセイギを叱咤し、その場を走り出すリズ。弓は既に灰大熊に引き絞られている。
有無を言わさずに言葉を続ける。
「私だって長持ちしないんだから、直ぐに人を呼んできてよね!」
張りつめた弦を一気に解放するとそのまま矢は真っ直ぐに疾る。木立にも中らずに灰大熊へと突き刺さる。それでも大きな効果を得ないのか、怯むことなく灰大熊はリズへと向けて走り出していた。近付く巨体はみるみる大きさを増し、それが5メートルを超える巨体であると確信できた。
それを見たセイギは既にどうしようもないことを感じ取っていた。既に賽は振られた。あとは助けを呼ぶしかないと。
リズを背に駆け出すセイギ。そのセイギの気配を感じたリズは安堵していた。
リズの家から街までは一直線である。ただし、リズは敢えて伏せていたが街までは一時間はかかる道のりだ。その頃にはきっとこの一方的な狩猟も終了していることだろう。
リズは既に死を覚悟していた。
リズが死んだとしても既にセイギは言葉を遺憾なく話すこともできる。心には未だに傷を負ってはいるが、きっと生きていける。街での生活も問題なく行える。別れは悲しいが、誰かのために死ぬのであればそれでもいい、そんな風にリズは考えていた。
だから不意に後ろから聞こえた叫び声にリズは注意を向けざるを得なかった。
「グッ、ギャアアアアアアアアァァァ!」
強く弾き飛ばされているセイギの姿。木立に叩き付けられながら腕を押さえている。そこにいたのは――
もう一頭の灰大熊だった。
「ウソ……」
そう愕然とするリズ。
しかしそれは致命的であった。
リズが本来対峙すべき相手を失念していたのだ。見逃してはいけないのに、油断してはならないのに。
巨大な灰大熊の牙が、リズの喉元へと突き刺さろうとしていた。
サブタイ『ある日森の中』にならなくて良かった……




