104.歓喜の輪
三部開始です
右へ。左へ。右へ。左へ行くと見せかけて右へ。セイギはまるで獲物を追い詰めるかのようにフェイントさえも混じえて動いていた。だがその表情は下ばかりを向いて表情は深刻なままだ。
「鬱陶しいから座ってろ」
同室、もう一人からの叱責。あまり大きくはない小屋の一室、椅子に腰掛けているグレンだ。だがそれに耳を貸すこともなく右往左往は続く。数えること二十二回、我慢の限界に達したグレンは素早く立ち上がりツカツカとセイギに歩み寄ると頭を叩く。
「なっ、なにすんだよ!」
「見てて鬱陶しいから、座ってろ!」
指差す先はグレンと座っていた椅子とはまた別のものだ。着席を促されたセイギはバツが悪そうにしながらも渋々と言った体で椅子に座る。
その直後、大人しく座ったかと思えば、足を左右パタパタと鳴らし始める。
――パタパタパタパタ
「だからうるせえって言ってるだろ!」
「いや、だって……」
「だってじゃねえよ。お前は一体幾つになったんだよ」
「別にそれは関係ねえだろ……」
話しながらもセイギは未だにソワソワソワソワ。上の空と言い換えてもいい。挙動不審な行動を延々と続ける男に苛立ちながらもグレンはそれを堪える。セイギの気持ちは分からなくはない。だから我慢の限界を超えるまではなるべく口を挟まないようにはしている。
「そんな一瞬で終わるもんでもねえし」
「だからってのんびりとはしていられないだろ!」
宥める言葉も意味がない。冷静さを欠いている、のいい見本だ。
「お前が焦っても何も出来ないだろうが」
「ぐっ!」
グレンの言に言葉を詰まらせる。どうにか口を開こうとはするが、結局言い返す言葉もなく沈黙する。
視線をあっちへやってはこっちへ。手を握っては開く。無駄に深呼吸をする。グレンは地蔵になってその行動を見逃そうと誓う。
「やっぱり見て来よう!」
「いいから座れって」
グレンの決心は数秒も持たなかった。此度の目的はこの【死神】を足止めすることだ。ここで見逃したらその目的を破棄することになる。それは本意ではない。
何度も言葉を重ねてようやくセイギを椅子へと座らせることに成功した。しかしそれがいつまで続くのか。まるで落ち着きのない子供のようだ。きちんと見張り続けなければなるまい、とグレンは新たな誓いを立てる。
椅子に座したセイギが左右の足を鳴らし始めたのはその数秒後であった。
「だからうるせえって」
幾度も繰り返されたそれらの行動が終わったのは、隣の部屋から甲高い絶叫が聞こえた瞬間であった。目にも止まらぬ速さで立ち上がり、飛ぶようにして隣の部屋へ。グレンはそれを止めようとはしない。その必要も既になくなったからだ。
「大丈夫かっ!?」
「こりゃ!まずは消毒せんか!」
「は、はいっ!」
飛び込んだセイギを静止したのは一人の老婆。それなりに老齢の筈なのだが背筋はピンと伸び覚束なさは感じられない。その手元では布で何かを拭っているように見える。
老婆に叱られた通り、部屋から飛び出て可能な限り高速で手を洗って顔を拭うセイギ。そんなに急いでやったとしても十分に消毒なんて出来ないだろうに、慌ただしいセイギの姿を眺めながらそう思いつつノンビリとグレンも立ち上がる。
「大丈夫かっ!?」
セイギは再び飛び込んだ。
「やかましいわい」
老婆がセイギの尻をピシャリと叩いた。痛みと押された勢いで前へと軽くつんのめる。
「焦らんでも二人は逃げんよ。娘っ子は体力は消費しちょるが元気じゃ」
「は、はいっ!」
ワタワタとセイギが駆け寄る寝台は今回のために色々と調整したものだ。慌てて駆け寄るセイギに老婆から叱責が飛んだが馬耳東風。聞くつもりがないというよりは聞く余裕もないと言ったところか。老婆は嘆息し、グレンもそれに同調する。
そのベッドの上では、幼さは微塵も残っておらずセイギと同年齢に見える――赤毛に翡翠の目をした【奴隷】の少女――アリスが疲労困憊とした様子で寝込んでいる。
「あ、ご主人様」
セイギに手を包まれたことでようやくその存在に気が付き、アリスは顔を傾けてセイギを見る。そしてセイギとは反対を見やる――そこには誕生したばかりの、泣き叫ぶ赤ん坊がいた。
全身でいきんでいるせいかぽってりとした頬も全て真っ赤にした顔。くしゃくしゃの皮膚に線のような目。申し訳程度に生えた黒い髪。一概に可愛いとは言い切れない容貌だ。
しかしセイギには――この新しく父親となった者には――その姿が何よりも尊いものに見えて仕方なかった。
「ああ、アリス――」
「……なんですか?」
「――ありがとう」
アリスは返事をすることも出来ずただ微笑む。
体調は大丈夫か、苦労かけてごめん、よく頑張ったな、言いたい事はいくらでもあった。しかし口を出るのはただただ単純な感謝の言葉。一緒にいてくれてありがとう、俺の子供を産んでくれてありがとう、生きていてくれてありがとう。きっと無限の『ありがとう』が一つの『ありがとう』の形になったものだ。それはきっとアリスも分かっていたのだろう。
アリスはその存在を確かめるように赤ん坊の頬へと手を伸ばす。触れる。それは幻などではなく確かにそこに実在している。自らが育んだ、産んだ命。
赤ん坊は無意識だろうが、頬を撫でるアリスの手を必死に掴んだ。
「見てください、私達の赤ちゃん。元気な、男の子です」
「ああ、可愛いな……本当にっ、可愛いなぁ……!」
セイギも人差し指を赤ん坊の手元に持っていく。先程のアリスと同じように、セイギの指もしっかりと握られる。大した力はない。それが逆に必死に生きようとする意識にも思えて尚更セイギの心に響く。とても小さい命だ。自分一人では生み出すことさえ出来やしないモノ。
「……もしかして、ご主人様、泣いてます?」
「うっ、なっ、泣いてないっ……!」
「そうですか……ふふっ」
袖で乱暴に顔を拭うセイギの姿にアリスは微笑みかける。
赤ん坊は両手に握った温かさに満足したのか、一頻り泣いて疲れ果てたのか、すぐさま大人しく眠りに落ちていった。
「眠っちゃったか」
「この子も、頑張りましたから」
泣いては眠り、なんと忙しいことだろうか。微笑ましい、それ以上に愛おしい。いつまでも、見つめていたい。
その顔を見つめていたセイギは一つ、重要なことを思い出す。アリスと話し合って決めていたことの一つだ。
「名前、名前だ。そうだ、この子の名前は――」
「ユウキ、ですよね」
セイギの言葉を継いでアリスがその名前を呼ぶ。
「辛いことからも逃げ出さない、"勇気"を持って欲しい、ですよね?」
「……そうだ」
先んじて名前を呼ぼうとしていたセイギは出鼻を挫かれて遣る瀬ない気持ちで困惑する。アリスにすっかりと主導権を握られている様子で、まるで形無しだ。セイギとアリスの姿を見て、その関係性を当てられる者はまずいないだろう。
「俺の言葉を取ってくれるなよ」
「耳にタコが出来るくらい、聞かされましたから」
頬を掻くセイギと笑ってそれを見つめるアリス。
「……まったくアリスも、言うようになったな」
「母は強し、ですから」
セイギが自らの顔を近付けてアリスに軽く口付ける。ゆっくりと顔を遠ざけて二人は互いを見つめ合う。どちらともなく、二人同時に笑い合う。その笑顔のまま優しげな視線で新しく誕生した命を見守る。「……ユウキ」小さくその名前を呼びながらセイギはアリスの残った手を取り、三人で小さな円を作る。三人で形作る一つ。命の繋がり。縁。
――この子に幸福な未来がありますように
セイギとアリスの願いは、ただそれだけだった。
三人の世界の傍らで、二人が取り残されていた。言うまでもなくグレンと老婆である。
「それよりもアンタ、他人の心配ばっかしてないでさっさと結婚でもして子供でも拵えるんだね」
「うっせーよババア」
老婆に悪態をつきながらも、それもいいかもな、グレンは心の中で少しばかりそう思った。




