102.リックとの別れ
楽しい時間というのは皆の願いとは真逆に一瞬にして終わってしまう性根の捻くれた不思議な時間だ。その例に漏れず、飛行船での時間もまたリックたちの願いとは裏腹に瞬く間に過ぎ去った。
不満を隠そうともせず、リックは溜息を漏らす。
「あーあ、もっと乗ってたかったなぁ」
「意外と楽しめたようで」
「そーだねー。でもなんか足下がゆらゆらしてるような……?」
少しからかう調子のセイギに対して、リックの対応は素っ気ない。乗船前にからかわれ過ぎた影響からか、既にこの手のからかいには抵抗が出来た様子だ。言い換えると開き直ったと言ってもいい。
まったくつまらないとでも言いたげな様子でセイギは首を左右に振る。
「リックは船に乗ったこと、ないのか?」
「ん?ないよ?なんで?」
「船とか揺れるものに暫く乗ったあと地面に立つと揺れてる感覚が残ってるせいで変に感じるんだよ」
「へー」
これおもしろいねー、と言いながらリックはその感覚を十全に体感するためか、片足立ちなどしている。フラフラとしているのは平衡感覚がおかしくなっているせいなのか元のバランス感覚のせいなのかは分からない。いずれにせよ、直後にリックの胴体に抱き付いた少女のせいで二人の少女が倒れ込んだという事実は変わらない。
「いたっ!」
いたた、と打ち付けた腰を摩るリック。
「……フラフラします」
「アリスちゃん!?」
リックは突然の襲撃者の正体を見やると驚いた表情でその名前を呼んだ。どう転んだのかは不明だが、二人の少女は複雑に絡み合っていた。リックは一つ一つ丁寧にそれを外してゆき、最後にはそのままアリスを抱き起こそうとする。しかしリックの腕力ではその試みに失敗し、結局肩だけ貸して二人同時に立ち上がる。
「……申し訳ありません」
「別に気にしなくていいよ」
大変申し訳ない、を全身で表現したアリスの様子を哀れに見たのか、小動物のように縮こまっているアリスにリックは微笑みで許容する。リックのこうした寛容・朗らかなところはきっと人に好かれるだろう。裏表のない笑みというのは問答無用で人を穏やかな心持ちにして惹き付ける。
アリスは何度も謝罪を繰り返すがその度にリックは笑って許し続ける。最後にはリックが背中を摩りながらアリスに話しかける。リックの話と態度にアリスは釣られるようにして笑った。その様子はまるで仲の良い姉妹のようでもあった。
馬車を飛行船から降ろす。初めは馬車馬たちも慣れない飛行船の旅にやや興奮した様子であったが、グレンが少しばかり宥めるとすぐに落ち着きを取り戻す。調教の行き届いた馬であるということもあるが、セイギがこれを行なえばそう易々とはいかなかったであろう。宥めるにもコツがあるのだろうか、セイギはそんなことを思った。
――馬車のチェック、問題なし。
――馬のチェック、問題なし。
――道程のチェック、問題なし。
四人は馬車へと乗り込む。アリスの調子はまだ回復しない。リックがアリスに膝を貸そうと提案する。
「はい、どうぞ」
「え?」
「膝枕」
「い、いえ大丈夫です」
固辞するアリス。それを分かっていたリックは問答無用でアリスを自分の方へと横たえる。無理に逆らうのを躊躇ってか、気持ち抵抗しながらもアリスはリックの膝に大人しく収まった。リックはアリスの頭を優しく撫で付ける。初めは照れ臭そうにしていたアリスも、その優しい手つきにリラックスしたのか、やがて穏やかな表情になる。
そんなリックにアリスは一つの思いを口にすることにした。
「リックさん――」
「何かな?」
「おねえちゃんって、呼んでもいいですか?」
「ボクは――」
「ダメですか?」
いつものセリフを遮るようにアリスは追い打ちをかける。唐突なアリスのお願いにリックは困惑している。いつものセリフで断ることも封じられた。リックの膝の上から見上げるアリスの顔。純粋なその表情にノーを言えるような性格をリックはしてはいなかった。「あー」と頭を掻きながらそれ以降の言葉を言い淀む。
「ダメ、ですか?」
それが最後のダメ押しとなったのか、何かを諦めたような表情。
「――いいよ」
「……!」
アリスは一瞬の驚きの表情の後、歓喜に満ち溢れた表情となる。
「リック、おねえちゃん」
「はーい」
呼ぶアリスと呼ばれるリック。二人の表情は明るい。アリスはリックの腹部に顔をうずめる。「くすぐったいよ」と言いながらもリックは嫌がる様子はない。じゃれあう二人は独自に仲を深めている。セイギが間を取り持つこともなく、だ。セイギがここで二人の間に入ることは当然無粋だろう。もちろんそのつもりもない。セイギは御者台へと周る。
「お、逃げてきたのかい【死神】くん」
「うるせ」
後ろの様子にこっそりと耳を澄ませていたのか、ククッと笑いを噛み殺すグレン。からかわれてやるつもりもないセイギは短い言葉で断ち切った。その乱暴な言葉にグレンは全く気にした様子もない。セイギはそのままグレンの御する馬車を引き継ぎ操縦を変わる。グレンも感謝を告げることもなくその座をセイギに明け渡す。――グレンにばかり負担を強いるわけにはいかない。そう言い訳をしながらセイギは後ろの空間から意識を引きはがした。
* * *
「ここで止まって」
グレンの御する馬車をそう言ってリックは止めた。セイギが外を見れば立派な壁がそびえ立っている。セイギはその壁が何なのかは知らない。しかし、これまでの会話からおおよその予想はついていた。獣人の国<ゲルト>だ。
リックは自らの荷物を手早くまとめ上げている。その行動からリックが何を企図しているのか、すぐに理解できた。セイギはそんなリックの姿になんと言葉をかけていいのかわからずに戸惑う。別れを惜しむべきなのか、無事に帰れることを祝すべきか。セイギは何かをしてやれるほど、リックのことを知らなかった。アリスはそのただならぬ様子に不安を感じてか縋るようにセイギの裾を掴む。
リックはそれに意識を払うこともなく荷物を抱えてすっくと直立。
「ボクはここでお別れだね」
リックは素っ気なくそう言って馬車から飛び降りた。バランスを崩すことなく着地。それなりに運動神経が良かったことをセイギは今更になって初めて知った。
着地してから数歩歩き、リックは背後の馬車に振り返って微笑んだ。いつの間にか御者台から降りたグレンもその様子を見守っていた。リックの視線がグレン、セイギへと移る。最後にその視線がアリスへと向く。アリスは何故かその視線から逃れるようにセイギの陰に隠れた。リックはそれを見てさらに笑みを深める。
その笑みを急に引っ込めとリックは表情を引き締める。何か重要なことを告げるように口元を噛み締め、しばしの逡巡の後に覚悟を決めて口を開いた。
「実はボク――じゃなくてワタシ、か。ワタシ――女の子だったんだ」
「「知ってた」」
「……もうっ!」
重大な告白。しかしそれは秘密とも言えない言葉だった。一種の緊張感を保っていたセイギとグレンは意表を突かれたとばかりに少々呆れたような表情をしていた。
リック自身、本気で性別を隠せていたつもりでもないだろう。それでもこうしてしっかりと宣言したのは何かのけじめだったのか。それはきっとどうでもよいことなのだろう。リックは歯を顕にして笑っていたからだ。それは微笑でも、作り笑いでも、苦笑でもない。きっとリックの心からの笑みであったのだと、疑うこともせずにそう思える。
リックは再度視線をアリスへと合わせる。小さく手を挙げて「バイバイ」と言いながら手を振る。アリスもセイギの陰から少し姿を現し、同じようにして手を振る。「ばいばい、おねえちゃん」とアリスも小さな声で返す。何故かその声はとても小さく傍らのセイギにはどうにか聞こえたが、リックに届いたのかどうかも明らかではない。ただ分かるのは、リックはそれに微笑んだということだ。
リックは前を向いて駆け出した。今度は振り返らず、ひたすらに真っ直ぐに。
何かを振り払うように。何かから逃げるかのように。
――結局リックは最後まで、胸中のその質問をすることは出来なかった。




