1.始まりの森
何故か消えたので改稿しました。
一時的に話が繋がらず、読めなかった方にはご迷惑をお掛け致しました。
2013/12/11 改稿
田中正義は立ち尽くしていた。
眼前に広がるのは樹、樹、樹――
決して文明の香りなどはしない。そこにあるのは濃厚な原生林と、そこに蔓延る獣たちの臭気のみだった。
何らかの行動の果てにその結果が得られていたのだとしたら、セイギはその場に立ち尽くしなどしてはいなかっただろう。
意図してこのような場所に来たわけでもないし、連れられてきたわけでもない。気が付いたらここに"いた"。それがだけがすべてだった。
それを証明するようにだらしなく前の開いたブレザー、第2ボタンまで開いたワイシャツ。ワイシャツの下から覗くのは黒のインナーだ。ネクタイはしていない。そして腰に引っ掛かる程ずり下げられた位置にある紺色のスラックス。
到底森に入るような格好ではない。
聞こえるのはどこかで獣が縄張りを主張するような遠吠えと、時折樹が揺れる物音。
鬱蒼とした森には日の光は殆ど射さず、ひどく薄暗い。射す光から察するにまだ昼間のはずであるが、周囲は既に夜の様態であった。
セイギは思い出そうとしていた。ここに来る直前の記憶を。
* * *
――そうだ。
それはテスト初日の出来事。
その日はテストの初日。いつもであれば放課後すぐさま部活へと馳せ参じるのだが、生憎テスト期間と言うこともあり部活動は禁止されていた。
サッカー部の仲間の大半は勉強のために学校で居残ると言っていたが、折角の早期帰宅が可能なのだ、わざわざ学校に引き込もって勉強にうつつを抜かすなど愚の骨頂。であれば遊ぶに越したことにはない。
さて、セイギのこの行動からも予測できるとは思うが、非常に残念なことにセイギの成績はさして良くはない。むしろ下から数えた方が圧倒的に早い。
そんな事実も本人が気にしていない以上、さした意味合いも持ってはいなかった。ここで問題となるとすれば、当然周囲の目というやつになるのかもしれない。それは追々、触れることになるであろうが。
ファーストフードで軽く食事を済ませ、帰宅する。
ようやく午後にかかろうという時刻。流石に両親はまだ勤務している時間だ。共働きである両親は少なくとも17時を過ぎるまでは帰ってこないだろう。それまでは自宅で寛ぎ、そこからはゲームセンターにでも寄ってゲームをしようと画策していた。
勿論両親の口煩さを回避するための策だ。大半の人間は分かると思うが、一高校生が自宅で怠惰に過ごしていれば、当然勉強しろだの家事を手伝えだのと言われることは間違いがない。それを避けるための浅はかな考えだ。
一般の高校生であり小遣い制のセイギにとっては、ゲームセンターに居座っていられるような金銭はあまり持ち歩いていない。そのため、本当に時間を潰したい時に限り身銭を切るようにしていた。
普段は部活で時間が潰れているものの、部活が行えないとどうしても時間が有り余ってしまう。本来はそれを勉学に当てるべきなのだろうが、セイギはそれさえも面倒だと切り捨てる。
帰宅したセイギはまず始めにその肩の負担になっている鞄を自室に放り込んだ。次いで緩く結んでいたネクタイも投げ捨てる。ボタンを順に緩めだらしない格好をあえてする。
そのまま居間へ向かうとテレビの画面をつけ、慣れた手付きで録画しておいた昨日のサッカーの試合を再生した。
既に部の仲間の話でサッカーの結果は知っている。1-2でセイギの贔屓にしているチームが敗北したことも知っていた。
しかし、結果だけが全てではない。
チームがどのように動き、どのようなテクニックを駆使したのか。そして何が原因で敗北したのか。相手方のチームのよかった点とは何か。いくらでも参考にできる点はある。
……と、自身を納得させていたが正直なところ、ネタバレをした仲間に腹を立てていたセイギだった。
(よし、今度殴っておこう)
ファーストフードで軽く食事を取ったものの、如何せんこの年頃の男子高校生である。軽食で満腹になるはずもなく、セイギも一般の男子高校生の例に漏れず空腹であった。
セイギは調理とまでは行かないが軽い料理程度ならば作れる。とは言ってもチャーハンだとか、インスタントラーメンだとか、そのような簡単なものに限られていたが。
食材を漁ろうと冷蔵庫に向かうセイギ。
果たしてその前に、見知らぬ男が突っ立っていた。
何を言うでもするでもなく、ただそこに突っ立っていた男にその瞬間までセイギは気付いていなかった。
だから突然視界に入ったその男を見て硬直した。
男はセイギを視認すると、下卑た笑みを浮かべ、大きく腕を振り上げ――
* * *
セイギのすぐ傍の茂みがガサリ、と大きな音をたてた。
深い回想は現実の境目を曖昧にした。側に寄る現実と記憶が混同し、同時に激しい不安と恐怖が襲い掛かる。
「うわああああああぁぁぁ!」
気が付けばセイギは大きな叫び声を上げて走り出していた。
"いつもの癖"で履いていたサッカー用の厚手の靴下のお陰か、靴を履いていない割りにはしっかりと走れていた。しかし、比較するまでもなく機能性は靴に大きく劣るため、時折滑り、鋭利な木の枝を踏んだ痛みは防げない。
それでもセイギは走り続けていた。立ち止まれば立ちどころに殺されるのではないかという恐怖の錯綜。
だが、少なくとも襲われることは間違いがなかった。それを示すように走るセイギに並走し追跡する獣の姿があった。セイギの上げた叫び、木などに引っ掻けて付けた傷や、足から流れ出る血の臭いに誘われて寄ってきた肉食の動物たちだ。
今は動物同士で牽制しあっているためか、セイギに飛びかかる動物はいない。だがそれも一石を投じるような変化があれば話は別だろう。現に若い狐のような獣は我慢の限界に至っていた。
その生き物は狐のような容貌をしながらも兎のような愛らしい耳と目をしていた。腕は太く発達し、獲物を殴り付け、押さえ付けるには十分な臂力を有していた。到底生身の人間では太刀打ちなど出来はしないだろう。
セイギは体力の限界に達していた。
効率も考えない我武者羅な走りのせいで体力はもはや尽きかけようとしていた。足を地面につける度に走る激痛もセイギの気力を削いでいた。
もう走るのをやめようか、そう思ったセイギの背中に躍りかかる影があった。
とっさの判断で横に転がるセイギ。
セイギが元いた場所に獣が飛びかかっていた。見慣れない生き物。
見た目からして圧倒的な力を持つそれにセイギの緊張の糸が切れた。
(逃げられる訳がない……)
絶望したセイギの様子を理解したのか、獣は先程とは打って変わって緩慢な動きでセイギに歩み寄る。それでも周囲への警戒は怠らない。それが功を奏したのか、獣はその場を跳び退った。
獣に飛びかかった影。意表を突いた奇襲であったものの、完全に失敗に終わった。
それはチンパンジーにも似た生き物だった。チンパンジーと決定的に異なるのは太い巌のような腕。それを軽々と獣に降り下ろす。ズシンと本来あってはならないような振動が響く。しかしそれを悠々と躱す獣。
決してセイギを助けるためではなく、眼前の餌の取り合いを行なっているに過ぎない。
そしてチンパンジーにも似た、と表現したがそれは決して間違いではない。
この生き物はチンパンジーそれと同様にして狩りを行う。つまり、コイツ"ら"は群れなのであった。
いつの間にか周囲を囲うようにして視線がセイギに突き刺さっていた。囲まれる恐怖に包まれながらセイギの足は再び駆け出した。
時折槍のように降り下ろされる腕を必死に回避しながらただ闇雲に走る。時には何匹もの猿が飛びかかり、罠を張り、セイギを追い詰めていた。
それでもどうにか掻い潜り、打ち払い、ただひたすらに逃げた。
何度も捕まりそうになり、その腕に引っ掛かっては叩き払った。その感触はまさに岩を殴り付けているような感覚だった。それは肌に感じる死の感覚であった。その感覚にセイギの背筋は何度も震えた。それでも走ることを止めなかった。
ガツンと頭部を襲う衝撃。明滅する視界。失われる方向感覚。天地が混然とする。自身が走っているのか、倒れ伏しているのか、それとももう既に食われているのかも分からない。
ただ死にたくない、死にたくないと願い続けた。
いつしかセイギの背中を追っていたのはあの醜悪な男に変わっていた。それがいつまでもいつまでも追いかけてくる。
「ぜはぁ……ぜはぁ……」
セイギはそれから逃れるように有るかも分からない足を駆り続けた。地面を踏み締める感覚もない。走る幻覚は消えない。永遠にも思える逃避行。もはやなぜ自身が走っているのかも分からなくなる。ただ死にたくないと、逃げ続けるだけの本能。その幻覚も唐突に終わりを迎える――
顔を照らし出す眩しい陽光。セイギは文字通りに現実の光を取り戻す。暗さに慣れきった視界が元に戻るまでは些かの時間を要したが、それも逃亡の時間を鑑みればわずかな時間。
「え?」
眼前には明らかに人の手が入った舗装のされた道路。草も生い茂っていないとなると人の出入りもあるのだろう。
ここでようやくセイギは森を振り返った。
あれだけ執拗にセイギを追い回していた生き物たちの姿はない。その事実を目の当たりにした瞬間、安堵が全身に染み渡るような感覚を覚えた。疲労した筋肉から一気に力がこぼれ落ち、大量に分泌されていたアドレナリンが減っていく。
ドッドッと早鐘のように打ち続ける心臓の音が聴覚全てを占める。
生も根も尽き果てたセイギは、そのままその場にうち倒れた。