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私のSK-IIを足に塗った家政婦、今度は「うちのニート息子と結婚して」と言い出した

作者: 熾星
掲載日:2026/09/21

 


 月四十万円で、住み込みの家政婦を雇った。


 それでも給料が安いと不満をこぼしていた彼女は、私が買ったばかりの三万円近いSK-IIを、勝手に自分の足へ塗っていた。しかも現場を見つかっても、悪びれる様子すらなかった。


「化粧水一本くらいでしょ? 顔なんて一つしかないのに、そんな高いの使う必要ある?」


 娘のために買ってきた贈答用の佐藤錦も、気づけば半分以上なくなっていた。彼女は指についた果汁を舐め、そのまままた箱へ手を伸ばした。


「こんな高いさくらんぼ、今まで食べたことないんだから。何個か多く食べたっていいじゃない」


 高校三年生の娘・七海は、大学受験を控えた大事な時期だった。


 ところが高橋さんは、私に隠れて七海へLINEを送り、予備校を休んで早く帰ってこいと言っていた。床を拭かせ、トイレを掃除させ、自分は私のソファに寝転がって果物を食べていた。


 それでも私は、母の顔を立てて何度も目をつぶった。


 そんな彼女が、ある日、自分の息子を家へ連れてきた。


 高橋拓也。


 初対面だというのに、彼の目は私と部屋と窓の外の車を順番に眺めていた。人を見るというより、値踏みしているような目だった。


「沙耶さんくらいの条件なら、バツイチで子どもがいても、まあ俺は気にしないかな」


 それから何食わぬ顔でリビングを見回した。


「もし結婚するなら、この家は俺名義にしたほうがいいよね。お金の管理も俺がやったほうがいいし。そうだ、ポルシェ買ったんでしょ? あれ、俺が乗ればいいじゃん」


 この親子は、図々しいにもほどがある。


 その程度にしか思っていなかった。


 その夜までは。


 二人が私のダイニングで、私を抵抗できない状態にする方法を相談しているのを聞いた。


 証拠を握って黙らせること。


 預金や家の名義を調べること。


 そして、七海のことまで。


 ドアの向こうで話を聞きながら、握った指先が冷えていった。


 この二人が狙っていたのは、食べ物でも化粧品でも、月四十万円の仕事でもなかった。



 1



 給料日だったその日、仕事帰りに百貨店へ寄った。


 忙しさに追われているうちに、いつも使っている化粧水が切れかけていた。せっかくだからと、SK-IIの化粧水を一本買って帰った。


 玄関を開けると、住み込みの家政婦として働いている高橋さんが、ちょうどキッチンから出てきた。手にしていた紙袋を見るなり、興味津々といった様子で近寄ってくる。


「沙耶さん、何買ってきたの?」


「化粧水。今使ってるのがなくなりそうだから」


 袋から覗いたレシートに目を落とした瞬間、高橋さんの目が丸くなった。


「三万円近くするの? こんな小さい瓶が?」


 私は買ったものを寝室へ持っていった。


「ずっと使ってるものだから」


「でもねえ、沙耶さん。一人で子ども育ててるんだから、もう少しお金は大事にしたほうがいいんじゃない?」


 後ろからついてきた高橋さんが、ため息交じりに続ける。


「三万円なんて簡単に使って、急にお金が必要になったら困るでしょ?」


 手を止めて振り返った。


 会社は自分で経営している。贅沢三昧をするつもりはないが、娘と二人で暮らしながら、必要なものを買える程度の余裕は十分にあった。


「自分で稼いだお金なので、何に使うかは自分で決めます」


 笑っていた口元が、一瞬だけ固まった。


「心配して言ってるだけなのに」


 そう言って部屋を出ていく。


 廊下へ消える間際、何か小さく呟いていた気もしたが、聞き返すほどのことではないと思った。


 翌日の夜、風呂上がりに新しい化粧水を手に取った。


 その瞬間、違和感を覚えた。


 前日に開けたばかりなのに、明らかに量が減っている。半分近くなくなっていた。


 高橋さんを呼んだ。


「私の部屋に入りました?」


「え?」


「昨日買った化粧水。すごく減ってるんですけど」


 ほんの一瞬、表情が止まった。


 すぐに視線を逸らす。


「豆大福じゃない?」


「豆大福?」


「ほら、あの猫。いつも家の中を走り回ってるでしょ」


 豆大福は五年前から飼っている猫だ。


 好奇心旺盛で、テーブルの上にある軽いものを落とすことは確かにある。


 黙っていると、高橋さんはそれを肯定と受け取ったらしい。


「前から思ってたんだけど、猫って大変よ。毛も落ちるし、家中走り回るし。子ども一人育てながら猫まで飼うなんて、自分で仕事増やしてるようなものじゃない」


「豆大福はうちの家族です」


 声が少し低くなった。


「世話が負担なら言ってください。別の家政婦さんを探しますから」


 高橋さんの顔が何度か引きつった。


「ちょっと言っただけじゃない。そんな本気にしなくても」


 そう言って離れていった。


 ドアのそばには、当の豆大福が何も知らない顔で座っている。頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。


 このときはまだ、自分が疑いすぎているのかもしれないと思っていた。



 2



 翌朝、会社へ着いてから重要な資料を家に忘れたことに気づいた。


 会議までは少し時間がある。取りに戻ったほうが早いと判断し、そのまま車を走らせた。


 寝室の前を通りかかったところで、室内からかすかな物音が聞こえた。


 この時間、高橋さんならキッチンにいるはずだ。


 足を止め、そっとドアを開けた。


 目に入った光景に、そのまま固まった。


 高橋さんが靴を脱ぎ、私の椅子に腰かけていた。


 横には、昨日買ったばかりのSK-II。


 手のひらへ惜しげもなく出すと、そのまま裸足に塗り広げている。


「三万円もして、何がそんなにいいんだか」


 片足が終わると、またボトルを傾けた。


「普通の化粧水と変わらないじゃない。もったいない」


 もう片方の足にも塗っていく。


 さらにぞっとしたのは、そのあとだった。


 足を触った手で、そのままボトルの口とキャップに触れた。


 昨夜、瓶のあたりから妙な匂いがする気がした理由が、そこでつながった。


 胃の奥が一気にむかついた。


「高橋さん、何してるんですか」


 勢いよくドアを開けた。


 高橋さんの肩が跳ねる。


「さ、沙耶さん? なんで帰ってきたの?」


「私が帰ってくる時間と関係あります?」


 足元に置かれたボトルを見た。


「勝手に部屋へ入って、私の化粧水を足に使って。それで昨日は、猫がこぼしたって言いましたよね?」


 狼狽したのはほんの数秒だった。


 すぐに気まずそうな笑みを浮かべる。


「そんな大げさに言わなくてもいいじゃない」


「大げさ?」


「だって、沙耶さん化粧品いっぱい持ってるでしょ。全部使いきれないじゃない」


 まるで私のほうが細かいことを気にしているような口ぶりだった。


「毎日ご飯作って、掃除して、こっちは腰も足も痛いのよ。少しくらい使ったっていいじゃない」


 言葉が出なかった。


 高橋さんはさらに、自分の足を見下ろす。


「最近乾燥してたから、ちょうどよかったの」


 スマホを取り出し、その月の分として支払うべき金額を送金した。


「もう結構です」


「え?」


「お給料は今振り込みました。荷物をまとめてください」


 さすがに表情が変わった。


「辞めろってこと?」


「そうです」


 私が本気だと分かった途端、さっきまでの態度が嘘のように消えた。


「沙耶さん、ちょっと待って。そんなつもりじゃなかったのよ」


 目まで潤ませる。


「化粧水代なら払うから。こんな高いもの、今まで見たこともなくて、どんなものか気になっただけなの」


 やがて話は、自分がどれだけ苦労してきたかという方向へ変わった。


 夫を亡くしてから一人で息子を育てたこと。貯金もほとんどないこと。やっと条件のいい住み込みの仕事が見つかったこと。


 最後には、その場で膝までついた。


「もう一度だけ、お願い」


「やめてください。立ってください」


 慌てて手を伸ばした。


 母と高橋さんは、昔同じスーパーでパートをしていた。


 口は悪いけれど働き者だからと母に何度も勧められ、紹介所を通さず雇ったという経緯もある。


 そこまで考えて、私は迷った。


「化粧水代は返してください」


「払う。もちろん払う」


「それから、今後は私の寝室に入らないでください。私物にも触らないで」


「分かった。絶対触らないから」


 返事だけは早かった。


 結局、その場では辞めさせなかった。


 後から思えば、あの時点ですでに十分すぎるほど境界線を越えられていた。



 3



 その週末、七海は珍しく学校の自習室へ行かなかった。


 大学受験を控え、普段は学校か予備校にいる時間のほうが長い。最近少し痩せたのも気になっていたので、高橋さんには魚や肉、海鮮を買ってきてほしいと頼んでおいた。


 七海はダイニングでお茶を飲みながら、最近学校であったことを話していた。


 模試の話になったとき、ようやく少し笑った。


 しばらくして、高橋さんに食事ができたと呼ばれた。


 ダイニングへ行き、思わず足が止まった。


 皿はいくつも並んでいる。


 ところが、全部野菜だった。


 魚も肉も見当たらない。


「高橋さん。肉と魚、お願いしてましたよね?」


「ああ、そうだった」


 額に手を当てる。


「行くのが遅くなっちゃって、いいのが残ってなかったのよ」


 そこで七海に目をやった。


「それに女の子なんだから、お肉ばかり食べると太るでしょ。若いうちは野菜を食べたほうが肌にもいいのよ」


 七海が気まずそうにこちらを見る。


 言い合う気にもならなかった。


 スマホを出し、近くの高級スーパーから海鮮と肉を配達してもらった。


 一時間ほどで届くと、七海に好きなものを選ばせる。


 それから、最初から並んでいた皿を高橋さんのほうへ寄せた。


「野菜がお好きみたいなので、こちらは高橋さんがどうぞ」


 笑顔が目に見えて引きつった。



 4



 日曜の朝、廊下から聞こえる話し声で目が覚めた。


 上着を羽織って出ると、高橋さんが七海の部屋の前で腰に手を当てていた。七海はベッドに座ったまま、まだ眠そうにしている。


「もう何時だと思ってるの? 女の子がいつまでも寝てちゃだめよ。起きたら自分の部屋を片づけて、ついでに少し掃除もしたら?」


「高橋さん」


 声をかけると振り返った。


「昨日言いましたよね。今週は久しぶりに休めるから、朝は起こさなくていいって」


「でも七海ちゃんのためよ」


 納得していない顔をする。


「今の子って何でも親にやってもらうでしょ。家事もできないまま大人になったら困るじゃない」


「そのことは私が考えます。今日は休ませます」


 こちらの声が冷たくなったのを察したのか、それ以上は言わなかった。


 その日は会社から急な連絡が入り、昼前には家を出た。


 夕方戻ると、玄関まで高橋さんの声が聞こえてきた。


「テーブルの下もちゃんと拭いて。見えないからって手を抜いちゃだめよ。ソファの隙間も、もう少し奥まで」


 すぐには声をかけず、リビングを覗いた。


 高橋さんはソファに寝そべり、足をオットマンへ乗せていた。


 手には、前日に買ってきた贈答用の佐藤錦。


 箱の半分以上が空いている。


 そのすぐそばで、七海が雑巾を持ってローテーブルの下へ体を入れていた。奥まで拭こうとして、額を角へぶつける。


「七海」


 びくっと顔を上げた。


 高橋さんも慌てて起き上がる。


「沙耶さん、帰ってたの?」


 七海のそばへ行き、立たせた。


「これは何ですか?」


「今日は腰が痛くてね。少しだけ七海ちゃんに手伝ってもらってたの」


 さっきまで寝そべってさくらんぼを食べていた人には見えない。


 空になりかけた箱へ目を向けた。


「それ、七海に買ったものですよね?」


「七海ちゃん、いらないって言ったのよ」


 平然と笑う。


「こんな高いさくらんぼ、私食べたことなかったから。せっかく勧めてくれたのに断るのも悪いじゃない?」


 七海を見る。


 唇を結んだまま何も言わなかった。


 高橋さんを困らせたくなくて黙っているのだろう。


 そのときは、そう受け取った。


「腰が痛いなら休んでください」


 七海を自分のそばへ引き寄せた。


「ただし、家の仕事を七海にさせないでください。受験生なんです」


 高橋さんは不満そうな顔をしたものの、渋々頷いた。


 そのまま七海を部屋へ連れていき、そこで話を終わらせた。



 5



 それから数日、仕事が立て込んだ。


 帰宅が遅くなる日が続いたが、高橋さんは急におとなしくなったように見えた。


 夕食を残しておいてくれたり、温かい汁物を用意してくれたりする。


 五十代なら腰が痛むこともある。


 こちらが厳しすぎたのかもしれない。


 そんなことまで考え、買い物のついでにマッサージクッションを選んだ。


「この前、腰が痛いって言ってましたよね。部屋で使ってください」


 高橋さんは箱を抱え、目を細めた。


「いいの? 悪いわねえ」


 それから急に上機嫌になる。


「沙耶さん、最近帰り遅いでしょ。今日は何時くらい? 晩ご飯用意しておくから」


「六時くらいだと思います」


「分かった」


 ところがその日の打ち合わせは、予想よりずっと早くまとまった。


 四時過ぎには会社を出られたので、そのまま帰宅した。


 玄関を開けると、七海がリビングでモップを持っていた。


「七海? 今日、予備校じゃなかった?」


 向こうも驚いた顔をした。


「高橋さんが、お母さんから今日は行かなくていいって言われたって」


「私が?」


「家のことが大変だから、しばらく学校のあと早く帰って手伝ってって」


 持っていたバッグの取っ手を強く握った。


「高橋さんは?」


「あっち」


 七海が家政婦用の部屋を指す。


「寝てる。床が終わったら起こしてって」


 そこで、前日に予備校の先生から届いたメッセージを思い出した。


 最近、七海の欠席が続いているが、家庭で何かあったのか。


 そんな内容だった。


 受験疲れで、自分から何日か休んだのだと思っていた。


 そのとき、部屋のドアが開いた。


 高橋さんが出てきて、私を見るなり目を見開く。


「沙耶さん? 六時って言ってなかった?」


 七海からモップを受け取った。


「どうして予備校を休ませたんですか」


「休ませたっていうほどじゃないでしょ。ちょっと手伝ってもらっただけ」


 悪びれる様子もない。


「七海ちゃんももう大きいんだから、勉強しかできないのは困るじゃない。女の子なら、家事くらい早いうちから覚えたほうがいいわよ」


「自分は寝ていて、受験生を呼び戻して掃除させたんですか?」


「そんな言い方しなくてもいいじゃない」


 今度は向こうも不機嫌になった。


「家事を少ししたくらいで、勉強が全部だめになるわけじゃないでしょ。女の子なんだから、いつか家を出たり結婚したりするでしょう?」


 七海の顔が真っ赤になっていた。


 一歩前に出て、娘を背中側へ隠す。


「七海が結婚するかどうかも、誰と暮らすかも、家事をどこまでやるかも、高橋さんが決めることじゃありません」


「私はこの子のためを思って――」


「必要ありません」


 スマホを取り出した。


「今日で終わりにしてください」


 顔色が変わる。


「私を辞めるの?」


「はい」


 数秒、こちらを見つめていた。


 やがて顎を上げる。


「月四十万ぽっちで、何でもやらせようってほうがおかしいのよ。住み込みの家政婦は使用人じゃないんだから」


「分かりました。では、ここまでで」


「いいわよ」


 鼻で笑った。


「あとで困っても知らないから」


 そのまま部屋へ戻り、強くドアを閉めた。


 隣で七海は何も言わなかった。


 閉まったドアを見ていると、数日前に買ったマッサージクッションが急に馬鹿らしく思えた。



 6



 その日の夜、七海が好きなカニを買うため近くのスーパーへ出かけた。


 帰り道、休憩スペースのそばに何人かの女性が集まっているのが見えた。近所で家事代行や家政婦をしている人たちだった。


 真ん中にいたのは高橋さんだった。


「絶対、もう後悔してるって」


 一人が呆れたように聞く。


「でも、辞めろって言われたんでしょ?」


「脅してるだけよ」


 高橋さんは鼻で笑った。


「今どき、ちゃんと住み込みで働ける人なんてなかなか見つからないんだから。あの人、仕事ばっかりで忙しいし、娘は受験でしょ? 私がいなくなったら困るに決まってるわよ」


「でも月四十万以上もらって、食事も住むところも出してもらってるんでしょ?」


 別の女性が首を傾げる。


「本当に仕事なくしたら困らない?」


「大丈夫よ。家政婦なんて今は仕事いくらでもあるんだから」


 高橋さんは楽しそうに笑った。


「向こうが本気で私に残ってほしいなら、まず謝ってもらわないと。給料も上げてもらう」


「美智子、やりすぎると本当に切られるよ」


「できるものならやってみればいいのよ。あの母娘のところで、誰が長く続くか見ものだわ」


 そこまで聞いて、足を止めた。


 スマホを出し、今日までの給料をまとめて振り込む。


 数秒後、高橋さんのスマホが鳴った。


「ほら!」


 嬉しそうに画面を掲げる。


「お金きた。やっぱり引き留めるつもりなのよ」


 音声メッセージを送った。


「今日までの分は全部振り込みました。明日までに荷物をまとめて、鍵を返してください」


 少し離れた場所からでも、高橋さんの笑顔が消えたのが分かった。



 7



 夜は七海と二人でカニを食べた。


 高橋さんはまだ荷造りが終わっていなかったため、翌朝まで部屋を使わせることにしていた。


 しばらくするとリビングへ出てきて、テーブルの上を見た。


「もう食べてるの?」


 返事はしなかった。


 七海も黙ってカニの脚を割っている。


 高橋さんはしばらく立っていたが、そのうち当然のように皿へ手を伸ばした。


 皿の縁を押さえる。


「これは私と七海の夕食です」


「長いこと働いたのに、カニ一杯も食べちゃだめなの?」


「もう辞めてもらったんですから」


「さっき振り込んできたの、辞めてもらう分のお金じゃないの?」


「今日までのお給料です。明日、荷物をお願いします」


 数秒こちらを睨み、口元を歪めた。


「分かったわよ。こっちだって、いつまでもいたくないし」


 それから吐き捨てるように言った。


「私くらいできる人なら、外でいくらでも声かかるから」


 翌朝、車を手配して大半の荷物を運び出した。


 帰り際、私が預けていた鍵も玄関の棚へ置いていった。


 ただ、大きな段ボールが二箱だけ残った。


「今日は車に乗らなかったから、また取りに来る」


 その程度なら、と何も言わなかった。


 その日のうちに家政婦紹介所へ連絡し、ほどなくして藤田直子さんと会った。


 四十代半ばで、落ち着いた話し方をする人だった。


 最初に聞かれたのは、七海の帰宅時間。


 次に豆大福の世話で気をつけること。


 そのあと、どの部屋まで入ってよいかを一つずつ確認した。


 私の収入については、一度も聞かれなかった。


 三日後、直子さんと買い物へ出かけた。


 食品売り場を出たところで、後ろから聞き覚えのある声がした。


「あら、沙耶さんじゃない」


 高橋さんが早足で近づいてくる。


「私がいなくなったら、自分で買い物までしなきゃいけなくなったの?」


 返事をする前に、直子さんがカートを押して戻ってきた。


「小野寺さん、七海ちゃんが好きなカニ、今日は入ってましたよ」


 高橋さんの顔が止まった。


「誰、その人」


「新しくお願いしている家政婦さんです」


 直子さんから荷物を受け取る。


「仕事も丁寧ですし、とても助かっています」


「本当に他の人雇ったの?」


「はい」


「今までずっと私がやってたのに、そんな簡単に変える?」


 思わず笑いそうになった。


「お給料も全部お支払いしました。今後誰にお願いするかは、私が決めます」


 突然、手首をつかまれた。


「ほんと恩知らずね!」


 その手を見る。


「離してください」


 力は緩まない。


「離さないなら、警察を呼びます」


 周囲から視線が集まり始めた。


 高橋さんは歯を食いしばり、ようやく手を放した。


 何も言わず、そのまま足早に去っていった。



 8



 その日の夜、家に帰ると母がリビングにいた。


 隣には高橋さんまで座っている。


 玄関で数秒立ち止まった。


「お母さん、どういうこと?」


 母が困ったように笑う。


「美智子が来てね。ちょっと行き違いがあったって言うから」


 高橋さんはすぐに目を潤ませた。


「沙耶さん、私も悪かったと思ってるの」


 視線を落とす。


「こういう裕福な家で住み込みなんて初めてだったから、分からないことも多くて。もう一度だけ考えてもらえない?」


 母も控えめに続けた。


「美智子とは昔、一緒に働いてたからね。言い方はきついところもあるけど、昔から知ってる人だし。話くらいは――」


「仕事に戻ってもらうつもりはないよ」


 はっきり答えた。


 高橋さんの表情が変わる。


「沙耶さん、ちょっと冷たすぎない?」


 だんだん声が大きくなった。


「私のほうがずっと年上なのよ? 自分のお母さんの話まで聞かないの?」


 母が眉を寄せる。


 それでも止まらなかった。


「だから結婚生活もうまくいかなかったんじゃない? 女がそんな気の強い性格してたら、男だって嫌になるわよ」


 ちょうど部屋から出てきた七海を見る。


「それに、女の子一人をそんな大事に育てて。あれだけお金かけて学校行かせたって、どうせ――」


「美智子」


 母の声が低くなった。


 高橋さんが黙る。


「沙耶とあなたのことは、二人で話せばいいでしょう。でも、七海まで巻き込むのは違うんじゃない?」


 母自身、男ばかり優先される家庭で育った。


 だからこそ七海を特別かわいがってきた。


 そのことは高橋さんも知っている。


「いや、今のはちょっと腹が立って……」


「もういい」


 母はバッグを持って立ち上がった。


「仕事のことは二人で決めて。私は口を出さないから」


 母が立ち上がると、高橋さんの顔からすっと血の気が引いた。


 しばらく黙ったあと、今度は急に声を落とした。


「分かった。もう行くから」


 残していた段ボールへ目を向ける。


「でも今日は車で来てないのよ。明日の朝まで置いてもらえない? 朝になったら車を呼んで、全部持っていくから」


 これ以上、母を巻き込みたくなかった。


 私が預けていた鍵も、もう返してもらっている。


 残っているのは段ボール二箱だけだ。


「明日の十時までにお願いします」


「分かった」


 すぐに頷いた。


 そのときは、高橋さんが別に合鍵を作っているとは考えていなかった。



 9



 翌日の午後、会社から戻って玄関を開けると、知らない男がリビングのソファに座っていた。


 思わず一歩後ずさりして、部屋番号を確認した。


 間違いなく、私の家だった。


「どなたですか?」


 キッチンから高橋さんが出てくる。


「私の息子。拓也」


 男を見る。


 三十代半ばくらい。


 髪は脂っぽく額に張りつき、私が入ってきた瞬間から、遠慮のない視線をこちらへ這わせていた。


「どうして知らない人を勝手に家へ入れたんですか」


「だから息子だって言ってるじゃない」


「私にとっては初対面です」


「荷物を運ぶのを手伝いに来ただけよ」


 一応、理由としては分からなくもない。


 ところが次の瞬間、高橋さんは息子を再びソファへ座らせた。


「拓也、休んでて。何か作ってあげるから」


 そのままキッチンへ入っていく。


 荷物を運びに来た人には見えなかった。


 そのときスマホが鳴った。


 先日契約したポルシェの正規ディーラーからだった。


 車が入庫したので、手続きが整えば引き渡せるという連絡だった。


 電話を切る。


 さっきまで以上に、拓也の視線がべたついている。


「沙耶さん」


 初対面なのに、いきなり名前で呼ばれた。


「母ちゃんから聞いたけど、ずっと前に離婚したんだって?」


「あなたには関係ありません」


「そんな警戒しなくてもいいじゃん」


 笑いながらソファにもたれる。


「女一人で娘育てるのも大変だったでしょ。俺、子持ちのバツイチって本当はあんまり好みじゃないけど、沙耶さんくらいなら全然ありだよ」


 ぞわっと腕に鳥肌が立った。


 本人はまるで気づいていない。


「この部屋、けっこう広いよね」


 リビングを見回す。


「もし一緒になるなら、家の名義は俺に変えたほうがいいかな。お金も俺が管理したほうがよさそう」


 何を言っているのか分からなかった。


「沙耶さん、けっこう使っちゃうタイプでしょ?」


 さらに思い出したように笑う。


「あ、さっきの電話、ポルシェ?」


 急に目が輝いた。


「俺ちょうど車欲しかったんだよね。あれ俺が乗ればいいじゃん。どうせ買ったなら、グレード低いやつじゃないよね?」


「高橋さん」


「ん?」


「会ってまだ数分ですよね」


 拓也が瞬きをした。


「もう家とお金と車の話ですか?」


「は?」


「初対面の女性に、いつもこういう話をするんですか」


 顔が一気に赤くなった。


「何だよ、その言い方!」


 これ以上相手をする気になれず、部屋へ戻った。


 しばらくして七海と直子さんが一緒に帰ってきた。


 下で偶然会ったらしく、重そうな参考書を直子さんがいくつか持ってくれている。


 予備校帰りの七海は腹が減っていたのだろう。


 テーブルの揚げ物へ手を伸ばした。


 その手を、高橋さんがぱしっと払った。


「だめ。それは拓也の分」


 七海が固まる。


「もう高校生でしょ? ちょっとくらい我慢できないの?」


「高橋さん」


 声をかけると振り向いた。


「ここは私の家です。七海の家でもあります」


 娘の横へ立った。


「食事が終わったら、今日中に全部持って出てください」


 七海を連れて外へ出ようとする。


「待って」


 後ろから呼び止められた。


 振り返ると、テーブルの上を指している。


「今日の買い物、一万五千円くらいかかったから。あとで払って」


「拓也さんのために買ったんですよね?」


「でもここで作ったご飯じゃない」


 拓也まで口を挟んだ。


「沙耶さん金あるんだから、一万くらい別にいいじゃん」


 小さく笑った。


「それなら、お二人で払ってください」


 そのまま七海を連れて家を出た。



 10



 エレベーターの前まで来たところで、翌日会社へ持っていく資料をダイニングに置いたままだったことを思い出した。


 七海と直子さんには先に下へ行ってもらい、一人で戻る。


 ドアを開けようとした瞬間、中から拓也の声が聞こえた。


「母ちゃんが言ってたより金持ってるじゃん、この女」


 手が止まった。


「家も広いし、ポルシェまで買ってるし。これ全部俺のものになったら、もう働かなくていいよな」


 続いて、高橋さんの声。


「だから今日連れてきたんでしょ」


 胸の奥が冷たくなる。


「今夜は失敗しないでよ。リビングの防犯カメラ、もう電源抜いてあるから」


 拓也が低く笑った。


「でも本人が嫌がったら?」


「嫌がるから何とかするんじゃない」


 少し声が小さくなる。


「まず抵抗できないようにして、あとで困るようなものを残しておけばいいのよ」


 スマホを取り出し、録音を始めた。


「会社やってる女なんて、こういう話が外に出るの嫌がるに決まってるんだから。黙ってさえいれば、そのうちあんたの言うこと聞くようになるわよ」


「じゃあ一緒に住めるようになったら?」


「口座のことも、この部屋の名義も、そのあと調べればいいでしょ」


 一拍置く。


「ただ、あの娘は邪魔ね」


 拓也が何か尋ねた。


 少し間があった。


「それは後で考えればいいわよ。人間、この先いつ何が起きるか分からないんだから」


 それ以上は聞けなかった。


 いったん二人がダイニングを離れるのを待ち、何も知らない顔でドアを開ける。


 資料はテーブルの端に置いたままだった。


 私を見た高橋さんの表情がわずかに固まる。


「また戻ってきたの?」


「忘れ物です」


 資料だけ持って出た。


 エレベーターの扉が閉まった途端、膝から力が抜けそうになった。


 駐車場へ着くと、すぐ直子さんへ頼んだ。


「七海を母のところまで連れていってもらえますか」


 七海がこちらを見る。


「お母さん、何かあった?」


「ちょっと片づけなきゃいけないことがあるの」


 髪を撫でた。


「今日はおばあちゃんの家にいて。着いたら連絡して」


 七海はしばらく私を見ていたが、やがて頷いた。


 二人を見送ったあと、録音をすぐにバックアップし、顧問弁護士にも送った。


 母にも連絡を入れ、今夜は七海を絶対に帰さないでほしいと伝えた。


 そこまで済ませてから、一人で部屋へ戻った。



 11



 夜九時を回ったころ、寝室のドアがノックされた。


 高橋さんが温かい飲み物を持って立っていた。


「沙耶さん、最近ずっと忙しいでしょ。これ飲んで少し休んだら?」


 いつもより声が柔らかい。


 カップへ目を落とした。


「そこに置いてください」


「冷めたらおいしくないわよ」


 部屋から出ようとしない。


「今、少し飲んだら?」


 その様子だけで、警戒するには十分だった。


 それでもその場では追及せず、カップを手に取った。


 口をつけたふりをする。


 それを見届けた途端、高橋さんの肩から力が抜けた。


「じゃあ、早く休んでね」


 ドアが閉まる。


 すぐにカップを手の届かないところへ置いた。


 中身は捨てず、そのまま残す。


 スマホの録音も止めなかった。


 十数分後。


 廊下から足音がした。


 スマホを手に取り、110番へ電話をかける。


 声を潜めながら、家の中にいる人物が飲み物へ何かを入れた可能性があること、家にいる男性が寝室へ入ろうとしていることを伝えた。


 通話は切らず、手元へ置く。


 やがてドアノブが動いた。


 鍵はかけてある。


 それなのに、外から鍵が回った。


 私が預けていた鍵は、確かに返してもらっている。


 拓也が入ってきた瞬間、高橋さんがそれとは別に合鍵を作っていたことが分かった。


「まだ起きてたんだ」


 後ろ手にドアを閉める。


「出てください」


 一歩下がった。


「もう出ていってもらう話になってます」


「何すましてんの」


 ゆっくり近づいてくる。


「母ちゃんから全部聞いてるから。ずっと男いなかったんだろ? 俺が相手してやるよ」


「出て」


 声を強くした。


 その後ろに高橋さんまで現れた。


「沙耶さん、いい加減にしなさいよ」


 腕を組み、呆れたように言う。


「うちの息子のどこが不満なの? 離婚歴もあって子どもまでいるのに、拓也は気にしないって言ってるのよ」


 次の瞬間、拓也が飛びかかってきた。


 ベッドの端へ押され、服をつかまれる。


 必死に体を捻り、膝を思い切り下腹へ叩き込んだ。


「ぐっ……!」


 拓也が声を上げ、その場へ崩れ落ちる。


「拓也!」


 高橋さんがこちらへ突進してきた。


 頬を強く叩かれ、そのまま髪をつかまれる。


「よくもうちの息子を!」


 引っ張られた拍子に、額が机の角へぶつかった。


 鋭い痛みが走る。


 手を当てると、指に血がついた。


 それでも高橋さんは手を止めない。


 拓也も少しずつ体を起こし、ベッドにつかまりながらこちらへ来ようとした。


 近くにあった椅子を両手で持ち、間へ入れる。


 そのまま距離を取った。


 やがて廊下から激しい足音が聞こえた。


 高橋さんの手が止まる。


 すぐに、警察官の声が響いた。



 12



 警察が寝室へ入ってきたとき、服は乱れ、額からはまだ血が流れていた。


 拓也は床にうずくまっている。


 それでも真っ先に声を上げたのは高橋さんだった。


「この人が息子を殴ったんです!」


 私を指さす。


「自分で部屋に呼んでおいて、こんな怪我させたんですよ!」


 言い返さなかった。


「録音があります」


 その一言で、高橋さんの声が止まった。


「それと、さっき渡された飲み物も残っています」


 警察は私たちを別々にした。


 昼間に録った会話。


 寝室での録音。


 合鍵のこと。


 残っていた飲み物。


 すべて渡した。


 拓也は怪我のため先に病院へ運ばれ、私も額や体の傷を診てもらうことになった。


 その後は、警察と弁護士に任せた。


 しばらくして、飲み物から鎮静作用のある薬物成分が検出されたと聞いた。


 高橋さんのスマホには、同じ薬を調べた履歴が残っていて、購入した形跡も見つかったらしい。


 事前に私をどう黙らせるか話していた録音も残っていた。


 拓也はあの夜の怪我で手術を受け、重い後遺症が残った。


 すると高橋さん側から、今度は三百万円の賠償を求める連絡が弁護士を通して届いた。


 書類を最後まで読む気にもなれなかった。


 そのままこちらの弁護士へ渡した。


「こちらで対応します」


 それだけだった。


 以後、私はあの親子と直接話していない。


 捜査や裁判の経過も、必要なことだけ弁護士から聞いた。


 後日、弁護士から、二人とも起訴され、実刑判決になったと聞いた。


 私は家中の鍵を交換した。


 以前の鍵はすべて使えないようにし、防犯設備も点検し直した。


 古い合鍵で入られる心配がなくなってから、七海を家へ戻した。



 13



 数年後。


 七海は大学生になっていた。


 週末に帰ってきた娘と買い物へ出かけ、桐葉台の住宅街を歩いていたときだった。


 見覚えのある後ろ姿が目に入った。


 高橋さんだった。


 刑務所を出て、しばらく経っていたころだ。


 そばには七、八歳くらいの女の子がいる。


 高橋さんは食べ終わったアイスの棒を手にしていたが、女の子は何も持っていなかった。


「高橋さん、私も食べたい……」


 女の子が小さな声で言った。


 眉がすぐにつり上がる。


「何言ってるの。あなたのお母さんからもらってるお金なんて大した額じゃないんだから」


 女の子が肩を縮める。


「家に帰ってから、余計なこと言わないでよ。分かった?」


 足を止めた。


 その子には見覚えがあった。


 近所に住んでいて、以前七海と同じ地域の行事に参加したことがある子だった。母親とはそのとき連絡先を交換している。


 母の話では、高橋さんは出所してから長く続けられる仕事が見つからず、知人づてに家事の仕事を受けているらしい。


 私は直接声をかけなかった。


 さっきの様子を撮った動画を、その子の母親へ送った。


 今見たことも簡単に伝える。


 数分もしないうちに、一人の女性が建物から飛び出してきた。


「高橋さん!」


 振り返る。


「うちの娘に、何してるんですか?」


 高橋さんの顔から血の気が引いた。


「違うの、ちょっと聞いて――」


「もう結構です」


 母親が娘を自分のほうへ引き寄せた。


「今日で終わりにしてください」


 高橋さんは何か言い返そうとした。


 その途中で、少し離れた場所にいる私に気づいた。


 顔が大きく歪む。


「またあんた!」


 こちらへ向かってくる。


「私も拓也も、あんたのせいでどれだけひどい目に遭ったと思ってるの! まだ足りないの?」


 その場から動かなかった。


「私は今見たことを、この子のお母さんに伝えただけです」


 足が止まる。


「あの件であなたたちを裁いたのは、私じゃありません」


 なおも近づこうとしたところで、建物の警備員が間へ入った。


 それ以上、話すことはなかった。


 その後も、あの親子の話は何度か耳に入った。


 拓也は出所後も定職につかなかったらしい。


 後遺症も残り、生活は荒れていった。


 やがてギャンブルやオンラインカジノにのめり込み、借金を増やしていったと聞いた。


 高橋さんも安定した住み込みの仕事には戻れず、清掃や厨房の手伝いなど、短期の仕事をいくつも掛け持ちしていた。


 その一方で、拓也から金を求められるたび、また渡していたらしい。


 数年後。


 母から、高橋さんが亡くなったと聞いた。


 体調を崩しても無理をして働き続けていたという。


 拓也の生活も変わらなかった。


 借金はさらに膨らみ、別の事件を起こして、再び警察に逮捕されたらしい。


「そう」


 母の話を聞いて、それ以上は尋ねなかった。


 その日の夜、家へ戻ると、藤田直子さんがキッチンで夕食を作っていた。


 今では毎日来てもらっているわけではない。


 それでも必要なときには家事を手伝ってくれて、七海や豆大福のこともよく知っている。


 週末で帰省していた七海は、ダイニングで野菜の下ごしらえを手伝いながら、大学であったことを楽しそうに話していた。


 豆大福はすっかり年を取り、椅子の下で丸くなっている。


 七海が何か言った。


 直子さんが吹き出す。


 靴を脱いで部屋へ上がった。


 豆大福が一度だけ顔を上げ、尻尾をゆっくり二度振った。


 それからまた、何事もなかったように目を閉じた。




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