第二話 白と黒の世界
……酷く冷たい。けど、やけに眩しい。
瞼の裏が赤く光っている。
(俺は時計台から飛び降りたはず……)
不意に目覚めた彼は、上半身を起こし、周りを見渡した。
そこは何もない世界。地の果てまで広がる地平線には、何一つない。見上げれば、明るい灰色の曇り空で埋まっていた。
ふと、視線を下に向けると、見渡すかぎりの宇宙が奥底まで広がっている。どうやら地面は透明な膜のようなものでできており、異質な世界に緊張感が走った。
「なんだ!?ここは……」
上は空、下は宇宙……。ゾッとするほど静かで、風の音も何も……聞こえない。
『ここは、臨界。黒と白の世界とも呼ばれている』
淡々として悠然な男性の声が響いているが、姿が見えない。
「君は誰だ?死神なのか、それとも神なのか?」
『いや、死神という者ではない。しいて言えば、この世界を調節する者だ。理どおりに動いているか流れを確認する者』
「では神なのか?」
『さあ、どうだろう』
言葉の端々に人間の常識を超えた何かを感じる。
「しかし、ここは何処だ?天国なのか、地獄なのか?」
『人間の概念でのそれではない。ただ、お前は世界の理から外れた人間。だから、お前は、ここに連れてこられた』
「理から外れただと?」
予想外の言葉にシリウスは動揺した。そして辺りを見渡したが、誰もいない。
(俺の何が外れているというんだ?)
『君の死んだ体は確かにシリウス・フォンド・パリストンだが、魂はジェイドという別人物だ。お前は12年前に悪党に誘拐され、殺された子供の魂なのだ』
シリウスは、思わず爪を腕に食い込ませた。なのに、感覚が全くない。頬を引っ張っても、つねっても、夢の中にでもいるかのような気持ち悪さがあった。
「あっ、これは……」
目の前に垂れ下がる前髪が、白銀から淡いモカ色に変わっているのに気がついた。
視線は両手、胴体、脚に移す。身長も筋肉の質感もまるで別の人間になっていた。
「どうなってるんだ!!こっ、この体は!?」
『つまりは、それが本来の姿だ。ジェイド』
「いや、俺には17年間の記憶が――」
『きっかけはシリウスの母親、ユリアの首吊り自殺。5歳だったシリウスは母親の元を離れずに、木の下で餓死状態になっていた。そこで父親のルドルフがシリウスを発見。保護した』
「そうだ、それが俺自身――」
『しかし、シリウスは町の宿場へ搬送中にすでに亡くなった。魂はすでに肉体から離れていた。だが、「死」の事実を認めなかった父親は、ある者を呼び寄せた』
「まさか……」
『ルドルフはシリウスを蘇らせるように無理な要求をした。その者は、町で見つけたお前を攫った。代わりの魂が必要だったのだ』
「そのジェイドは、攫われた子供だったのか?」
『そうだ。奴らは、禁忌を犯して、死んだシリウスの器にお前の魂を無理やり詰め込んだ。この世の理から外れた禁断の交換秘術を使ったのだよ。しかも、我が主、創世主ゼロニウス神の石像前でな』
「きっ……禁断の交換秘術だと?で、でも、俺の中には、生まれてから母さんと町から町へと旅してきた記憶がある。それにあの村で母さんが首吊り自殺をしたことも―――」
『それはシリウスの脳に刻み込まれた記憶だ、ジェイド。お前の本来の記憶は秘術により、ごっそり“忘却の深海”に捨てられたのだ。お前の体は、魂を抜き取られた状態で森に放置され、一日で狼どもに食われてしまった』
残酷な事実に、シリウス――ジェイドは、力なく膝から崩れ落ちた。
「あの親父は、死にそうになった俺を大神官に頼んで治してもらったと言っていた。蘇らせたとは言ってない……」
『シリウスの魂は抜け、先にこの世界へやってきた。しかし、肝心の肉体はお前に奪われ、肉体だけが17年間も生きてきた』
「そんなバカな!!」
『……そうか、まだ信じられないようだな。それなら、ここにシリウスの魂を連れてこよう』
一瞬、背後に気配を感じた。振り向くと、見た目4歳ぐらいの弱々しい男の子が立っていた。
白銀の髪、アイスブルーの瞳。
だが――痩せこけた顔と目の周りの窪みが酷く、腕や脚は小枝のように折れてしまいそうなほどだ。
その姿を見てジェイドは思わず、胸ぐらを掴んだ。
目の前にいる子供は、もじもじと指先を動かしながら、こちらを窺っている。
「……君は」
「そう、僕がシリウスだよ」
「……なぁ、君の目から見て、俺の目の色は何色に映っている?」
「う〜ん、綺麗な森の泉みたいな色をしているよ」
(あの声、その仕草。幼い頃の俺そのものだ)
目の前のシリウスを見ただけで、自分の存在自体がぐらりと歪んでいく。
「……済まない。俺は……まだ信じられない」
「いいよ、気にしないで。それが普通の反応だよ」
気丈に振る舞うシリウスを見て、自分が情けなくなってきた。
「……済まない。俺は自殺してしまった。もしも君が本物のシリウスなら、君の体を殺してしまったんだ」
すると、小さな指先がジェイドの手の甲にそっと触れた。
「大丈夫だよ。そもそも、僕は死んでいるし。ただ、お兄ちゃんのおかげで、思ったより早く天界へ行けるとは思わなかったけど……」
「どういうことだ?」
『肉体と魂は本来、常に対なんだ。結ばれていた肉体が死んで、ようやく魂は天界へと行ける』
「お兄ちゃんの生き方、いつも見ていたよ。いろんな体験をしたんだね。悔しさ、憎しみ、怒り、喜びも悲しみも……。ずっと応援してきたから、もっと生きてほしかったけど、お兄ちゃんが自殺してくれたおかげで、僕はやっと天界へ行けるという気持ちで……結構複雑なんだ」
幼いシリウスは、年の割に物わかりがよく、ジェイドはますます複雑な気持ちになった。
『そこでだ、神々は君にチャンスを与えようと思う』
調整の神は、荘厳な声で言い放った。
「チャンス?」
その言葉にぎゅっと胃が痛くなった。
『時空の神に頼んで、時間を12年前に巻き戻してもらえることになった。この魂を元のお前の体に戻し、ジェイドとして5歳から生き直すのだ』
「だったらシリウスは?シリウスも生き返るのか?」
『シリウスはもう生き返らない。彼は母親の後を追い、死ぬ運命にあったんだ。だが、お前は、本来あるべき運命を無理やり人の手で書き換えられてしまった。全ては本来の時の流れに戻すだけ。元あるところへ戻すだけ。それだけだ』
シリウスは小さく微笑んだが、そのアイスブルーの瞳は僅かに潤っていた。
「僕はもう、いいんだ……お兄ちゃん」
「……いや、……でも、あの頃に戻ったとしても、また同じ悲劇が繰り返されるのでは?だったら、回帰する必要はないんじゃ――」
『そんなことがないように、こっちで調整しておいた。あとは、お前がどう生きるかは、お前次第だ。ジェイドとしてちゃんと生きろ。そして、ちゃんと死ぬんだ。それはシリウスの願いでもある』
シリウスの魂はモジモジしていたが、握り拳を震わせ、ジェイドに向かって言葉を放った。
「お兄ちゃん、今度は絶対に自殺なんかしないで、もっと長生きしてよ。ねっ!」
「お前……」
『ただし、お前自身は2度目の人生だ。同じ愚行を繰り返さぬように、罰として、シリウスの頃の記憶をそのまま残しておくことにした』
「それは、なぜだ?」
『本来自殺したものは、無情の森で永遠に彷徨い続けるが、お前の体はとっくに死んでいる。だが、お前がシリウスを殺した。愚かな自殺行為には変わりない。お前には【記憶を残す】という罰が下った』
「俺はシリウスの記憶を抱えたまま、生き直すということなのか?」
『そうだ。常に神々はお前を静観していることを忘れるな』
呆然としている間に、目の前にいたシリウスの魂がいつの間にかいなくなっていた。
「シリウス?おい、何処にいるんだ?」
《……お兄ちゃん。バイバイ》
突然、足元がぐらつき、透明な膜が溶解し始めた。果てのない暗黒の宇宙に、じわじわと膝までのめり込んでいく。足が無感覚なのが余計に気味が悪く、慌てて足を上げようとするが、体が思うように動かない。
「なんなんだ、これは!!!」
周りを見渡しても、しがみつくものは何もない。体を捻ろうとすればするほど、深みにはまり沈んでいく。得体の知れないものに飲み込まれる。身体の芯から震えはじめた。
「くそっ、溺れる、うわあああーーー!!」
必死に抗ううちに、腰、胸、肩、やがては頭が呑み込まれ、やがてその身は無限の星が輝く宇宙へと消えていった。
『ジェイド……道のりは険しいが、生き残れ』
――それが、最後に聞こえた声だった。




