第一話 自殺
一部自殺の描写があります。ご了承ください。
春寒の夜。上弦の月明かりが照らす人影と、コツコツと鳴り響く靴の音。
それは、冷たく乾いた無機質な音。
白銀の髪を夜風に遊ばせながら、シリウス・フォンド・パリストンは、亡霊のような足取りで、暗闇にそびえ立つサージス魔法学園の時計台へと向かった。
卒業式も終え、もう明日からこの学園にはいられない。ここの鐘も聞くことはない……。
最近になってシリウスには、ヘドロのような噂がつきまとっていた。
それは、シリウスがカンタルス辺境大公の庶子で、母親が侍女から娼婦に成り下がって、シリウスを育てていたという噂だ。下賤の子だと聞いた生徒がシリウスの事を陰で馬鹿にした。
噂の出処は分かっている。ゼフィロス王子だ。
奴は、メリッサを狙い、王子という立場を利用して、自分の過去を調べ上げたのだろう。尾ひれをつけて噂を垂れ流し、陥れるつもりでいたようだ。
それは社交界へ飛び火し、王宮魔導士の内定が取り消しになった。当然、その噂はカンタルス領にも届いており、ほぼ確実に婚約破棄されるだろう。これで忌わしい父親の企みも崩れ去った。
貴族の世界から追い出されることなど、シリウスにはどうでもよかった。シリウスが本当に心を痛めていることは別にあった。
シリウスは、四年間、隣の席のメリッサを冷たい言葉であしらっていた。それは、貴族令嬢たちからのやっかみや妬みから守るためだった。
それしか彼女を守る方法がないと、勝手に思い込んでいた。
本心を隠し、わざと冷たくあしらうことは、シリウスにとっても嫌な作業だった。
卒業最後の夜。メリッサに今までの身勝手さと非礼を謝りたかった。もしも叶うなら胸の内も明かしたかった。しかし、彼女に強く拒否された。
当然だ。彼女こそ、シリウスの言葉で深く傷ついていたのだから。
『このドレスは今までの慰謝料としてもらっておくわ。だからこの部屋から出ていって、二度と私の前に現れないで!!』
シリウスは、時計台の入り口のドアの取っ手を握りしめた。
(全て……全て、俺が間違っていた)
錆びた鉄の取っ手をゆっくりと引いた。
そこは、心の内に似た暗黒の世界。砂埃の匂いが鼻につく。
先の見えない階段。
冷たくざらついたレンガの壁。
深淵のような底冷えする重い空気。
乾いた革靴の音だけが辺りに響き渡る。
「あぁ、覚えている……。この闇……。お母さんが自殺した時のあの感覚に似ている」
『お前さえ……生まれて来なければ、……私は……まだ、あの方の……侍女で……いられた……のに…』
――それは、体に絡みついた呪いの言葉
シリウスの母親は夏の夕暮れ、村の外れにある森で首吊り自殺をした。まだ小さかった彼と生きる人生を捨てた。
「そもそも俺が生まれてこなければ、メリッサも少しはましな学園生活が過ごせていたのかもしれない」
それがシリウスの答えだった。
シリウスは最後の階段を登り終えると、時計台の最上階に着いた。見上げれば大きな時計が、カチンと分を刻んだ。
この時計台は、かつて『シリウス親衛隊』のリーダーをしていたクリスティーナ令嬢に教えてもらった場所だった。
メリッサのことで苦しんでいた時、『シリウス親衛隊』のクリスティーナ令嬢は、気晴らしにここへ連れてきてくれた。
『これが最初で最後のデートですわね!』
クリスティーナ令嬢は最後まで彼に優しかった。彼女なら俺の行動を必死で止めるだろう。
「……」
冷たい夜風が、シリウスの体温を奪っていく。視線の先には、パーティー会場の明かりがついていて、幸せな空気があの建物に閉じ込められていた。
今、シリウスは外側からそれを眺めている。手の届かない幸せ。
シリウスは上弦の月を見上げた。
「こんな惨めな俺を、月の神様は憐れんでくれるだろうか」
上弦の月は寂しそうにひんやりと光っている。やがて雲が月を隠して、辺りは更に暗くなった。
「ははっ、俺は月の神にも嫌われているようだ」
ガックリと胸ぐらをぎゅっと掴むと、夜の世界が全て滲んで見えた。
シリウスは手すりに足をかけ、縁のうえに立った。足の下は鬱蒼とした木と草で覆われている。それは大きな口を開けた死の入り口。
足元が震えるが、それよりも心の痛みが上回っていた。
「全て……さよならだ」
シリウスは胸に手を当て、高い時計台からその身を投げた。
ほんの数秒の落下時間。
走馬灯のようによみがえる。
母さんが揺れていた楓の木。
無骨な手に引かれた、見知らぬ屋敷。
泣き明かした夜の、冷たいシーツの感触。
魔法学園。風に踊る美しい若草色の髪。
カモミールの香りに、彼女の蜂蜜色の瞳。
無慈悲な地面に激しくこの身を打ち付け、体は人形のようにグニャリと弾け飛んだ。全身が爆発するほどの激痛が生じた後、彼の意識はぐらりと暗黒の大波に呑み込まれるように、儚く消えていった。




