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 九条はずっと眉をきつくしかめたままだった。


 和彦の腕の中でぐったりしているサハロフ博士を見たとたんに顔色を変え、身振りで診療所に運び込むよう指示をした。

 和彦がベッドに博士を横たえる間に、その両側で九条と氷浦が素早く視線をかわす。

 九条がわずかに首を傾け、氷浦が小さく頷いた。


「和彦! 外に、本日休診の札かけとけ!」


 無造作にサハロフ博士の服をはぎ取って傷口が見えるようにしながら、九条が怒鳴った。


「フォウ、てめえもだ。二人でしばらく外に出てろ。珊瑚が学校から帰ってきても、ここへは入れるなよ。急患だと言っとけ。それから、疲れた父親にうまい夕飯を用意しろとな」


 氷浦教授は手術の助手に使うつもりのようだ。退出を求められないどころか、ボケッとすんな湯をわかせとガミガミ怒鳴られて、慌てて洗面器を掴んで水道へ走っていた。


 和彦はドアを閉めて、ほっと息をついた。


 フォウも気持ちは同じようだった。空に向かってやたらに拳を振り回し、ああちくしょう、と唸る。

 救えなかった命のことを思い、やるせないのだろう。

 虚しさを怒りで表現するところがフォウらしいともいえた。


「なあ、和彦さん。あれがウィニーの本当の姿だとしたら、その動機付けがサハロフ博士の命だったってことかな」


「まさか」


 和彦は軽く首を振ってみせた。


「それではウィニーが兵器として起動した後、制御できる者がいなくなってしまう。あれはあくまでも想定外の事態だったと考えるべきじゃないか」


「主人の危機を目にして、勝手に怪物になっちゃった、というわけか」


 それも主人のために何かしたいという思いの発露だとすれば、ますますウィニーのことが哀れになってくる和彦だった。

 サハロフ博士はウィニーがあんなふうになってしまうことを恐れ、日本の森の奥で普通の熊として生き、死んでいくことを期待していたというのに。


 二人で肩を並べで、どれだけ空を見上げていただろう。


 気がつけば日は西に傾き、下手くそな画家がキャンバスに絵具をぶちまけたような夕焼けが空を満たしていた。

 そろそろ珊瑚の乗ったバスが停留所に着く頃だ。


 迎えに行こうか、と提案しかけたとき、診療所のドアが薄く開いて中から氷浦教授が現れた。

 疲れた顔をしていた。


 すでにもう何度も使われてびしょぬれになっているハンカチで、やたらに手を拭いている。

 銃創の手当てを手伝ったのだ、さぞかし中は血なまぐさい状態になっているのだろう。


「サハロフ博士は?」


 問うたフォウをちらりと見て、氷浦教授は首も振らない代わり、頷きもしなかった。

 沈痛な面持ちのまま、長い息を吐いただけだ。


「当面のところ、銃弾は取り出して手当てはした。だが、逃避行でかなり体力を消耗したところへ、このありさまだ。今すぐ設備のいい病院に移さなければ命の保証はできない、と九条は言っている」


「病院といっても……」


「そうだ。銃で撃たれた密入国者をすんなり受け入れてくれる病院はないよ」


 ちっ、とフォウが舌打ちをする。


「日本には無免許医とかはいないのかな。くそう、ここが香港だったら、モグリの医者の心当たりは山ほどあるのによ」


「山ほどというのもすごいな……」


 もしかしたら日本にもそういうネットワークがあるのかもしれないが、氷浦も九条も、少なくともこの国ではそういった類の人々とは縁がない。

 もとい、九条自身が無免許医といえなくもないが、足りないのは医者でなく医療設備なのだ。


 九条はまだ診療所から出てこない。


 三人で手持無沙汰なままで他にどうしようもなく、牧場の柵に腰掛けて夕焼けを眺めた。


「父さんは知っていますか」


 ふと思い出して、和彦は言った。


「あの男たちが最後に叫んでいた言葉。あれは日本語ではないですよね。確か、タフ……なんとか、とか」


「タフムーラス」


 ぽつりと氷浦教授は言った。


「古代、ペルシアと呼ばれていた地方に伝わる詩の中にだけ登場する、偉大な王の名前だよ」


「なぜそんな名前を、あいつらが?」


「フヌムーラス王は野生の動物を従える力を持ち、動物たちで編成した自らの軍隊を持っていた……という伝説があるから、じゃないかな」


「うわ」


 フォウが思わずといったふうに声を漏らした。


「それってまんま、サハロフ博士……」


「ああ。だから彼らはイリーナのことを、伝説の王の名で呼んでいたのだろう。だがね」


 と言って、氷浦教授は深い溜息をついた。


「タフムーラスの伝説にはいろいろなパターンがある。写本の時代に成立した詩集だから、書き写した者が勝手に物語を付け加えたり、改変したりしたのだろう。その中の一つでは、タフムーラスは『悪魔の束縛者』と呼ばれる。彼が支配していたのは本物の動物ではなく、動物に姿を変えた悪魔たちだったというのだ」


「悪魔……」


 覚醒したウィニーの姿を、和彦は思い浮かべた。

 確かにあの巨体と異様な毛や牙を見れば、特別に大きな熊というよりは、悪魔と呼んだほうがふさわしい。


「タフムーラスは自分の騎乗する馬でさえ、悪魔に命じて馬の姿に変化させていた。しかしある日、さすがのタフムーラスも油断してしまい、悪魔を制御する力を緩める失敗を犯した」


「それで、どうなったんですか」


「王は悪魔に食い殺され、自由になった悪魔は世界中を暴れまわり、人々を苦しめるようになった。強力な王の力に期待し従っていた民衆たちは、王を恨むあまり、死骸に向かって呪いの言葉を吐きかけた……と、伝説は語っている」


「勝手な話だなあ」


 フォウが呆れた。


「勝手に期待しておいて、勝手に恨むのかよ」


「それが人間の業だ、ということなのだろうね」


 氷浦教授とフォウの会話を聞きながら、和彦は黙って考えていた。

 つまりあの男たちも、動物兵器を制御できなくなったサハロフ博士を勝手に恨み、罵りの言葉を上げていたということか。

 愚かなことだ。

 そのサハロフ博士を銃撃し、瀕死の重傷を負わせたのは自分たちだというのに。


 だが、と和彦は思い直す。


 彼らはその代償をすでに自分の命で払った。

 残されたのは、生み出された悪魔そのものだ。


 サハロフ博士の思いもかけない形で生み出されてしまった動物兵器。

 それを制御する方法を知っているのは、創造主である博士だけ。全てのデータは処分したと、博士は自分で言っていた。

 このまま博士が回復しなければ、あの悪魔は、野に放たれたままになってしまう。


 いや。野で生きていけるのか。あの異形の生き物が。


 サハロフ博士もそのことを気にしていたではないか。

 大事なのは、ウィニーをこの姿のままで自然に帰すことだと。その後は、決して自分と再会してはならないのだと。

 あれは、ウィニーの覚醒を恐れてのことではなかったか。


「おう、てめえら。まだいたのか」


 九条が診療所から出てきた。

 厳しい表情をしていた。


「イリーナはどうだね」


「よくねえな」


 氷浦教授の問いに、九条はぶっきらぼうに答えた。


「とりあえず目は覚ましたから、話はできるぜ。けど、できればあんまり話させないほうがいい。とにかく体力がねえ。生きようという気力もねえ。あれじゃあ、いくら手術が成功したってどうにもしようがねえよ。強制的に栄養を点滴でぶっこむとか集中治療室に縛り付けるとか、そういう方法を使わない限りはな。だが、そいつは嫌だと本人がおっしゃる」


 九条も溜息をついた。


 それは、つまり。

 サハロフ博士は自らの死を求めているのか。


「……いけない!」


 和彦はハッとした。

 九条を押しのけるようにして、診療所へ強引に押し入る。

 後ろで何やら九条ががなりたてていたが、耳にも入らなかった。


 中は想像したようりもひどいありさまで、サハロフ博士が診療台に横たわっていた。

 顔色は紙よりも白い。

 それでもドアの開く音に気付き、和彦のほうへ大儀そうに目を向けた。


「博士! あなたは!」


 その容体の悪さにかまわず、叱るようにして和彦は言った。


「あなたにはウィニーを制御する責任がある! 死んではいけません!」


 ふ、と口の端だけで博士は微笑んだ。


「だめ……な、の」


「何がだめなんですか!」


「あんな、ふうに……覚醒する、とは……想定外だった……私には……もう、ウィニーを止められない……元に戻す、ことも、できない」


「そんな……」


「お、ねが、い……」


 苦しい息の下から、サハロフ博士は片手をなんとか持ちあげて、和彦のほうへ差し伸べようとした。

 力なく落ちかけたその白い手を、和彦は両手で掴んだ。


 弱々しい博士の手が、和彦の手をかろうじて握り返した。


「ウィニーを……楽にしてやって。もう、私には……その力が、ないの……」


「博士!」


「本当は、私がこの手で、やるべきだった……でも、私にはできなかった……情けをかけた、つもりで……かえって、あの子に悪いことを、してしまった」


 サハロフ博士は両目を閉じた。

 長いまつ毛に絡まりながら、涙の粒が次々とこぼれ落ちて彼女の頬を濡らした。


「ごめん、なさい……ごめんなさい……」


 最後に和彦へ、囁くように謝罪の言葉を投げかけると。


 サハロフ博士は、奥歯で何かを噛んだ。

 ぎょくん、と身を震わせる。


「博士!? サハロフ博士! いったい、何を……」


 和彦は博士の体を抱えて揺さぶった。

 だが、すでに遅かった。


 固く引き結んだサハロフ博士の唇の端には不気味な色をした泡が浮かび、全身はぐにゃりとなって、垂れれ下がった手足はされるままにぶらぶらと揺れた。

 頬をきつく叩き、唇を無理やりこじあけてみたが、もうどうしようもなかった。


 恐らく彼女は、最初からそうするつもりだったのだ。

 自分があの連中に掴まったときだけでなく、ウィニーが無事に日本の山奥へ隠されたとしても、それを確認したら死ぬつもりでいたのだ。

 そうでなければ、自分の奥歯へ即効性の毒が入ったカプセルを隠すような細工をするものか。

 無謀な密入国も、その先の人生がないと思えば、少しも怖くなかったに違いない。


 和彦は、サハロフ博士の亡骸を静かにベッドへ横たえた。

 再び、外に出る。


「九条先生。熊の急所はどこですか」


 急な問いに、九条は驚かなかった。


「理想をいうなら、脳か、そこからつながる首の後ろ。そこに中枢真剣が通っている」


 いつものようにぐだぐだと前置きをすることなく、打てば響くように答えてくれた。


「だが、熊の額は前にせりだしているんで、脳はその後ろで頭蓋骨に守られている。熊の頭蓋骨はとびきり固いんだ。だから、普通は熊が側面を剥き出しにするチャンスを待って、胸を撃つ。よしんば心臓を撃ち抜けなかったとしても、その付近には大きな血管が通っているから、あわよくば出血死を期待することができる」


「出血死は……長い間、苦しみますよね」


「それはまあ、そうだ」


「背後から首か脳を撃ちぬけば即死しますか」


「即死する」


 九条は断言した。


「動物のことだから、死んだ後に多少、動いたりはするかもしれんがな。死ぬか死なないかといえば、間違いなくその瞬間に死ぬ。弾が当たって、あいたっと思ったとたんに意識は途切れるだろう。苦しんだりはしねえ」


「わかりました」


 感謝の印にひとつ頭を下げ、和彦はくるりと一同に背中を向けた。


 さきほど、死に物狂いで駆け戻ってきた道を、元のところへ向けて歩き出す。


「ちょ、ちょっと和彦さん、待ってくれよ!」


 フォウが慌てて追ってきた。


「何をしようっていうんだい。サハロフ博士は? ウィニーのことを博士に頼まれたのか? 俺も手伝うよ」


 一度は、帰るようにと説得しようかと和彦は考えた。

 しかしすぐ、その考えを改めた。

 どちらにしろ、言って聞く相手ではない。それに。


 一人では、辛すぎる任務だから。


 同じ辛さを味わわせてしまうことを承知の上で、それでもなお、和彦はフォウに、そばにいてほしかったのだった。


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