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和彦がそちらへ眼をやったときには、もうサハロフ博士は地面に仰向けに倒れていた。
半分に折れたように見える華奢な体を氷浦教授が抱き起こす、その動きが和彦にはスローモーションのように見える。
ゆっくりと、胸に赤い染みが広がった。
「こんのっ、野郎!」
フォウが和彦の腕を振り払い、飛び出した。
怒りに眼を吊り上げて走っていく先には、機関銃を構えた男がいる。サバイバル用の迷彩服を着ている。
それも一人ではない。
二人、三人。
いや、もっと大勢。
いっせいに岩陰から飛び出し、こちらに向けて銃を乱射する。
「フォウくん、気をつけろ!」
咄嗟に和彦は谷底の川筋から水を呼んだ。
別の形に作り直している暇はない。噴き上がってくる水をそのままの形で氷浦とサハロフ博士に投げかけ、凍らせる。
網の目状になった細かい氷が二人を包み込み、銃弾をかわりに受け止めた。
その間にもフォウは一直線に突っ走り、手近の男へ飛び掛かっている。
「遅いぜ!」
自分に向けられた銃口を蹴り飛ばし、その勢いのままに殴り倒した。
振り返りざま、二人目の後頭部に回し蹴りを叩き込む。
和彦の知らない言語で男たちが互いに呼び交わした。
これが、サハロフ博士に資金を提供した謎の組織というやつだろうか。
全員がゴーグルをかけていて、顔だちもはっきりとはわからない。肌の色もある者は白人風、別の者は浅黒い。
国籍とは関係なく構成されているところを見るに、過激派思想集団か、ハルマゲドンを期待するあまり自分たちでそれを起こそうとする新興宗教、といったところか。
どちらにしろ、危険なことに変わりはない。
さすがのフォウも全員を一度に相手することはできない。
フォウと闘っている者以外は、氷の網で覆われた氷浦教授とサハロフ博士のところへ殺到する。
もっと正確にいうなら、彼らの狙いはサハロフ博士だけだ。
「父さん! そのまま動かないでいてください!」
銃撃を受けたサハロフ博士をむやみに動かせば、下手をすれば命にかかわる。
危険を犯して逃げ出すよりも、氷の下にいてもらったほうが安心だ。
「貴様らの思い通りにはさせん!」
和彦は手近な一人から機関銃を奪い、逆手に持ちかえるなりその台尻で殴りつけた。
ぐえっと妙な声を出して男が昏倒する。
その襟首をつかんで引きずり起こし、自らの盾とした。
さすがに味方を撃つことはためらわれるのだろう。和彦を囲んだ男たちがぎょっとして動きを止める。
その背後から、自分の担当分を難なく片づけたフォウが襲い掛かった。
「面倒くせえ! てめえらみんなカバ焼きだ!」
素早くマッチを取り出し、地面の岩へこすりつける。
パッと灯った炎をあっという間に横凪に広げて、男たちの足もとを薙ぎ払った。
悲鳴を上げて、男たちが右へ左へと転がりまわった。
自分の足を叩いて火を消そうとする。そこへさらに、フォウの新たな炎が叩きつけられる。
「和彦さん、ここは俺に任せとけ!」
炎を絡ませた拳で何人かをまとめて殴りつけながら、フォウが陽気に叫んだ。
「氷浦教授とサハロフ博士を、早く!」
その言葉に甘えて、和彦は教授と博士のところへ駆けつけた。
氷の網越しに氷浦が和彦を見上げる。
強張った顔で、サハロフ博士の胸元を指し示した。
「ここを凍らせてくれ」
「えっ。凍らせる?」
「止血がわりだ。できれば血液は凍らない程度で、体温も下げてやってほしい。そうすれば、多少は動かしてもショック症状には陥らないだろう」
「それで、どうするんですか?」
「イリーナは密入国してきている。普通の病院にかつぎこむわけにはいかん。ましてや銃創だ。九条のところへかつぎこむしかない」
九条先生は、口も態度も悪いが腕は確かだ。
獣医の免許ひとつで、無医村集落の医療行為を一手に引き受けている。
さらにいえば元刑事。銃創にも慣れていよう。
「わかりました」
和彦は慎重に、サハロフ博士へ手のひらを向けた。
加減しつつ、傷口の組織を凍らせる。
人間の体の大半は水分なので、こういった芸当もできなくはない。だが、こんな切迫した状況で細かく冷気の調節をするのは初めてだ。
そのせいで和彦は忘れていた。
いや、その場の全ての人々が忘れていた。
崖の対岸のことを。
だしぬけに。
天が裂けたかというほどの咆哮が響き渡った。
それはもう、暴れまわっていたフォウでさえ仰天して、振り上げた拳の行き場を見失うほどの、すさまじい声だった。
最初の一声が山にこだましている間にも、咆哮は次々に発せられた。
地面が揺れ、崖からは小石が幾つも剥がれて転がり落ちた。
全員の視線が崖の上へ向けられた。
そこにいたのは。
「…………ウィニー!?」
「う、ウソだろ? あれがあ!?」
あまりの驚きを表して、フォウの炎が線香花火のように弾けて消えた。
しかしフォウばかりか、その炎に追いまわされていた男たちもまた、あんぐりと口を開いて崖の向こうを見つめるばかりだった。
なぜなら、そこには。
あの愛らしい子熊の姿はどこにもなく。
代わりに、真っ赤な眼を怒りにきらめかせた、小山のような大きさの怪物が雄叫びを上げていたのである。
ヒグマだったとしても大きすぎる。まさに巨体というしかない。
しかもそれはすでに、熊と言っていいのかどうか。
全身の毛は鋭い針のようにとがり、陽光を受けてギラギラと輝いている。
大きく開かれた口から伸びた牙は長剣のよう。もしくは、歴史の中に消えたサーベルタイガーを思わせた。
遺伝子操作によって生み出された、動物兵器。
その名にふさわしい威容で、軽々とウィニーは崖を飛び越えた。
どすん、と地面を揺らして着地する。
もう一声、鳴いた。
それは、闘いの開始を告げる咆哮だった。
「う、ウィニー! やめろ!」
フォウが叫んだが、止められるものではなかった。
怪物はうおううおうとわめきながら突進してきた。
フォウに向かってではない。
大事な主人を傷つけたのが誰かを、怪物は完全に理解していた。
「ぎゃあっ!」
「ああああ!」
普通の熊が相手でも、正面からその腕で殴られれば人間の頭などは簡単に吹っ飛ぶのだ。それが、体格だけとっても二倍以上の大きさである。
慌てて機関銃を向けた者もいたが、発射された銃弾は逆立った毛に難なく弾かれてしまった。
「やめろって、このぉ!」
大暴れといいつつも、普通の人間を相手にしているということで、さっきまでのフォウは殺さぬよう手加減しながら闘っていた。
だが、その人間たちが目の前で簡単に肉塊に変えられ、無残な姿で絶命していく。
フォウが両手で二本のマッチを擦った。
素早く呪文を唱え、それぞれを急成長させる。巨大な火の玉と変じたそれを、矢継ぎ早にウィニーへ投げ付けた。
野獣は本来、火を恐れるはずだ。
しかしフィニーはびくともしなかった。
一瞬、ウィニーの巨体が炎に包まれる。
それもただの炎ではなく、フォウの呪文がこめられた霊火だ。滑るように熊の全身へ巻きつき、行動の自由を奪おうとする。
その炎を、ウィニーは体を激しく振ることで弾き飛ばした。
「なっ、なんてやつだ!」
「フォウくん! 僕らは撤退だ!」
和彦は氷浦からサハロフ博士を受け取り、抱き上げた。
低体温にすることで、博士を一時的に麻酔をかけたのと同じような状態に保ってはいるが、長く続けば生体機能に瑕疵が生じる。急がなければならない。
目の前の人命にフォウがこだわる気持ちも理解はしている。
フォウはそういう男だ。たった今まで敵だった相手のことも、心から案じることができる。
和彦はフォウのそういう気性を愛していた。
しかし今は、そんなことは言っていられない。
「父さん、フォウくんを!」
「わかった!」
氷浦は氷の網から出るなり、背後からフォウに跳びついて小脇に抱え上げた。
なんの武芸を納めたわけでもないが、氷浦は生まれつき大柄で、フォウとは頭ひとつぶん体格が上回る。
咄嗟のことでフォウも完全に気を飲まれ、抵抗することも忘れている。
「え、で、でも」
「彼らだって自分の命が惜しいならば、ウィニーに手を出さずに逃げることができるんだから!」
呆然としているフォウを抱えて走りながら、氷浦が叱責した。
「逃げずにやられるのは彼らの勝手だろう」
まったくもって、お説ごもっとも。
よく見ればウィニーは、自分に歯向かってくるやつしか手にかけていない。
それどころか、和彦がサハロフ博士を抱えて逃げているのを確認すると、ずいと自らの巨体を道の真ん中に動かし、追っ手を防ぐ態勢を取った。
男たちの前に立ちはだかり、和彦たちの逃走を援護する。
後ろ足二本で立ち上がり、前脚を振り上げて威嚇のポーズを取っている。
あんな姿になっても。
和彦はその後ろ姿へちらと目をやり、胸が痛くなった。
ウィニーは主人のことを案じている。自分の身を盾にして、和彦たちを逃がそうとしている。
「タ……タフムーラス!」
和彦たちに向かって、男たちの中の何人かが金切声を上げた。
「タフムーラス! タフムーラス!」
咎めだてするような口調だった。
意味はわからない。わかろうとする努力もしている暇がない。
だんだん遠ざかるウィニーの咆哮を背中で聞きながら、和彦と氷浦は一目散に村への道を駆け続けた。
また一人、ウィニーに八つ裂きにされた者がいたらしい。
断末魔の絶叫が、山の間でかすかに響いていた。




