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 翌日も気持ちのいい晴天だった。


 牛乳にハチミツを垂らした食事を、子熊はご機嫌でペロペロと舐めまわした。

 和彦にうながされて朝の食卓についたサハロフ博士は、氷浦から和彦へと視線を移し、少し首をかしげた。


「夕べの、もう一人の青年は?」


「ああ。フォウくんは朝ごはんを食べない人なんですよ」


 警戒を頬ににじませているサハロフ博士に、急いで和彦が説明した。


「もっと正確にいえば、僕たちにとっての朝はフォウくんの真夜中過ぎですから。そのうちに、それこそ冬眠から覚めた熊みたいになってベットから出てきますよ。彼があなたの敵に買収されていて密告のために外出しているとか、そんなことは絶対にありませんから」

「いえ。そんな心配は……」


 そう言いつつもサハロフ博士はホッとした顔になっている。

 その表情が、彼女がここにたどり着くまでに謎の組織からどれほど執拗に追跡されたかを物語っていた。

 サハロフ博士は、氷浦教授の作ったエッグポーチをやたらとつつきまわしながら、問わず語りに逃避行の話を始めた。


「最も危険だったのは、アリューシャン列島を渡るところでした。けれども同時に、そこで彼らを振り切ることもできたのです。あの島には軍事用の空港しかありません。彼らはまさか私が小型ボートでシベリアに渡るとは思わず、アメリカ軍のつてを頼って飛行機に乗ると思ったわけです」


「なんだと? それでは君は、小型ボートでシベリア海峡を乗り越えたというのか。なんという無茶なことを」


 氷浦教授が驚きにフォークを落としかけた。


「どうりで、指を二本も凍傷でやられているはずだ」


 言われて初めて和彦も、サハロフ博士の左手の動きがぎこちないことに気が付いた。中指と薬指が黒ずんでいる。慌ててサハロフ博士はそれを背中へ隠した。


「夕べから気が付いていたよ。応急処置はしたようだが、そのうちにちゃんとした病院で診てもらったほうがよさそうだ。日本の病院はこんな片田舎でもけっこう技術はしっかりしていて……いや、これはしまった。今の君は密入国者なんだったな」


「大丈夫よ、ヒウラ」


 サハロフ博士は微笑んだ。


「今はとにかく、ウィニーを森に放すことが先決。そして、できることならせめて数週間、いえ数日でもいいから、ウィニーの動向を見守りたいの。ウィニーがこのままでいられるかどうか、確かめるために。治療だの帰国だのは、それがすんでから考えるわ」


「帰国といっても、君を狙うやつらはきっと研究所も見張っているだろう」


 真剣な顔で氷浦は言った。


「いくらデータを処分したところで、全ては君の頭脳の中にあるんだ。ああいった連中は、捕らえた相手から欲しい情報を引き出すには、どんな手も使う。君はしばらく、ここに隠れていたほうがいい」


「ありがとう、ヒウラ」


 サハロフ博士は泣き笑いの表情になった。




 フォウがいつまでたっても起きてこないので、結局は和彦が叩き起こしに行くことになった。


「うー。うー」


「文句をいうなよ。どうせ、起きてきたときにはもうウィニーを森に帰したと知ったら、ものすごい勢いで抗議するくせに」


 何事であれ、騒動は見逃したくないのがフォウという男だ。ぶるぶるっと頭を振るなり、あっという間にいつもの元気を取り戻した。


「それにしてもよう。あの子熊、あんなにサハロフ博士になついてんのに、どうやって野生に戻すんだ?」


「だから、しばらくの間はサハロフ博士もここにとどまって観察したいんだろう」


 目をこすりながら言うフォウに、和彦は答えた。サハロフ博士の氷浦教授に対する感情については、あえて話題にしないことにした。


「あの子熊も、サハロフ博士を母替わりにしているに過ぎない。サーカスの動物みたいに訓練されたけじゃないんだ。最初のうちは寂しがるかもしれないが、そのうちに野生を取り戻して乳離れするはずだよ。逆に、どんなになついているように見えても、しょせんは野生動物だ。成長するに従って、人間を慕う気持ちは消えてしまう。あんなに仲良くしていたのにと、逆に人間がショックを受けるほどにね」


「……和彦さん、えらく熊の生態に詳しいんだなあ」


「僕の故郷にも、熊に似た生物はいたからね」


 和彦は笑った。


「フォウくんが悪霊を追いかけるのが日常だったように、僕の世界では、野生動物を狩猟することが日常だったんだよ。自然、動物の生態には詳しくなる。僕もこの世界の熊や鹿に似た動物を狩るために、幾晩も森で野宿したものさ」


「えー。和彦さん、王子様だったんだろ? 王家の人が野生動物を追って野宿すんのかよ」

「王族だろうがなんだろうが、狩猟は男の義務だよ。もちろん僕たちは儀礼のための狩りをすることもあったけれど、基本は食料を得るためのものだ。だから男はすべからく、野生動物の習性に詳しくなるし、詳しくなければ死ぬしかない」


「すげえ世界……」


「僕に言わせれば、先祖代々のしがらみで子供の頃から幽霊やら妖怪やらとガチ勝負をさせられるっていう君の世界のほうがずっと驚きなんだけど」


 よもやま話をしながら、みんなで山へ向かった。


 いくら慣れているとはいえ、舗装もない岩場を女性が熊を抱えて歩くのは危険すぎるので、ウィニーの運搬はフォウが請け負った。

 氷浦教授はジェントルマンの本領を発揮して、サハロフ歯博士の手を取りエスコートしている。

 ウィニーを抱いたフォウを従え、先頭を行くのは和彦だ。この一行の中では最も森にも野生動物にも詳しいことを自覚して、自ら申し出たのだ。


「僕の世界の、熊に似た生き物は」


 サハロフ博士に身元を疑わせて余計な騒動を起こさぬよう、声をひそめて和彦はフォウに囁いた。


「人間に育てられたからといって、刷り込み現象を起こしたりはしない。帰巣本能も弱くて、元いたところに戻ろうという衝動は少ない。人間に可愛がられた記憶は、それが繰り返されになくなるとそのうちに薄れ、消えてしまう」


「地球の熊も似たようなもんだろうぜ。ちっちゃい頃から可愛がって育てた熊にある日突然逆襲され、食い殺されたなんていう話は、そこらじゅうに転がってるからな」


 サハロフ博士も、いずれウィニーを自然に帰すことを考えていたらしい。可愛がって育てながらも、餌の取り方や木登りの方法など、野生であれば母熊が教えるべきことはひととおり、やらせているという。

 過去の事例でも、子熊は自然に放されるとすぐに野生の本能を獲得し、一匹で生きていけるようになるそうだ。


「こんなにぬいぐるみみたいでもよ」


 甘えるウィニーの喉をくすぐりながら、フォウが言った。


「やっぱり野生の生き物なんだよな。熊ってのはさ」


 それでも急な別れには、ウィニーも戸惑うだろう。

 熊は犬以上の嗅覚を持つ。人の匂いを追って、戻ってくるかもしれない。

 だから和彦は帰還ができるだけ困難になるよう、小川を越えて谷を渡り、適当な岩場を探した。


「それでも戻ってくるようなら、かわいそうだが邪険に追い返すしかない。それを何度か繰り返せば、きっとあきらめるはずだ」


 その後は、豊かなこの森で子熊は生きる方法を会得し、人間とは接触せずに暮らしていけるだろう。


「いいえ。暮らせなくても、それはそれでいいのです」


 サハロフ博士はそう言った。


「自然の一員として生きるとは、そういうことですから。ウィニーがここで生きていけないとしたら、それもこの子の運命。死もまた、自然の大切な仕組みの一つ。かわいそうだとか、助けたいとか。そんなふうに思うのは、人間の傲慢さでしかない」


 和彦たちに向かって話しているというより、自分に言い聞かせていると見えた。


「そういえばさ」


 その彼女に聞かせぬようにしながら、フォウが和彦に言った。


「熊だなんだのドタバタでうやむやになっちゃったけど、こいつって軍事兵器として作られたんだったろう? どこがどんなふうに危険なのか聞いてもいないし、そんな動物を野生に戻しちゃってもいいものなのかね」


「そのあたりは、君が寝ている間に父さんが確認していたよ」


 苦笑しつつ和彦は答えた。


「ウィニーを兵器として働かせるためには、サハロフ博士による動機付けが必要なんだそうだ。それがない限りは、ウィニーは普通の熊と変わらない。また、サハロフ博士にその気はない。とはいえ、謎の組織とやらに掴まって無理強いされたときのことを博士は恐れている。だから、できる限り自分とウィニーは離れて暮らすべきだと思っている」


「なるほどねえ。それもあっての日本かい」


 瓦礫場に来た。


 何年か前の地震で崩れたとのことで、割れ目からはきれいな断層が剥き出しになっている。

 地面には幾つものひびが入り、その中でも特に大きな崩れ方をしている部分は、切り立った崖のようになっていた。


「フォウくん、あちら側に飛び移れるか?」


「ちぇっ。俺を誰だと思ってんだい」


 言うなりフォウは無造作に地面を蹴った。

 助走もなしで、鮮やかに宙へ身を躍らせる。


 あっとサハロフ博士が驚いたときには、フォウはもう崖の反対側に着地していた。その間もちゃんと抱いていたウィニーを、そっと草むらにおろしてやる。

 ほんの少しだけ名残惜し気な顔をしたが、次にはまた身をひるがえし、元の位置に戻ってきた。


「ノー、ウィニー!」


 驚きつつもこちらへ戻ろうとする子熊に、厳しい声でサハロフ博士が命じた。


「その周辺で餌を探しなさい。今までにも、何度も練習してきたでしょう。ゴー、行くのよ!」


 その命令を聞けば、今までならウィニーは言われたとおり、置かれた場所から離れて餌となる果実を探し始めていたのだろう。

 しかしウィニーは、常ならぬサハロフ博士の雰囲気をちゃんと感じ取っていた。

 何度もこちらを振り返り、その場でぐるぐる回りをして、離れようとしない。


「ウィニー! ノーよ!」


 涙ながらにサハロフ博士は叫んだ。


「私たちはここでさようなら。お前はこの美しい自然の中で、ひとりで生きていくの。さらうなら、さようなら!」


 サハロフ博士は両手で顔をおおって、くるりと背を向けた。

 ウィニーは、いかにもわけがせからぬといいたげなふうをして、きゅうきゅうと鳴き声を立てている。


 和彦はフォウの背中を静かに押した。


「帰ろう。さあ」


 氷浦教授も、サハロフ博士の肩を抱いて下り道を下り始めている。

 サハロフ博士は声を押し殺し、泣いている。


 和彦がその後を追おうとして、一歩を踏み出した。

 それとほぼ同時に。


 銃声。


 一発のその音が、山々を行き来してこだまする。

 フォウがぎょっとして周囲へ視線を巡らせ、和彦は反射的にそのフォウの腕を掴んで地面に引きずり倒す。


 そうして、次に。


「イリーナ!」


 氷浦教授が絶叫した。


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