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 再会の険悪さは、フォウの明るさを持ってしても払拭できないものだった。


「うひょー! こんな美人があの研究所にいたんですね。俺もあそこにしばらくいたんですけど、全然知りませんでしたよ。あ、俺は朱天火(チユウ・ティンフォウ)。氷浦教授の助手です。よろしく!」


 陽気な挨拶と共に差し出された手を、サハロフ博士は上の空で握った。

 視線は氷浦教授へ釘付けになっている。


 そして、その氷浦は仏頂面を隠そうともしない。


「だしぬけに、いったいこの私になんの用があるというんだね、イリーナ。君の研究に私を巻き込まないでほしいというのは、今までにもずっと言ってきたはずだ。ましてや、君が欲しがっている量子コンピュータは、私の研究においてはほとんど関わりのないものだ。それは、量子もつれ理論を君が間違って解釈しているからだと、口がすっぱくなるほど説明したじゃないか」


「いいえ。今回の訪問は、その議論をむしかえすためじゃないのよ、ヒウラ」


 サハロフ博士が訴えた。


「あなたが私の研究を快く思っていないことは知っている。私たちが互いに相容れない思想を持ち、決して分かり合えない存在だということもわかっている。けれど、今回のお願いはそれとは別のことなの」


「お願い、かね」


 氷浦教授の眉間の皺がさらに深くなった。


「電話で何度聞いても、詳しくは話せないとの一点ばり。直接会って話したいというから、しかたなく和彦を迎えに出したのだ。いい加減、もったいぶらずに事の次第を教えてくれないか」


「話せば、助けてくれる?」


「聞かねばわからんよ、そんなことは」


 不毛な押し問答を繰り返す壮年男女を横目にして、フォウと和彦は部屋の隅でひそひそと囁きあった。


「和彦さん、あれってどういうことだ? サハロフ博士って、もしかして氷浦教授の昔のカノジョとか?」


「なんでそういう発想になるんだよ。あれを見れば、険悪な仲だってのはすぐにわかるだろう」


「いやいや、他人にわからぬのは男女の仲ってやつでさ。憎みあうのには、それなりの理由があるはずじゃねえか」


「理由はあるよ。父さんは一貫して軍事研究には否定的な立場だからね。ただでさえ自分にとって容認できない研究をしているうえに、サハロフ博士は父さんの研究を軍事技術の役に立てようとして、ちょっかいを出してきていたんだ」


「へえっ? 平行世界と軍事がどう関わるんだよ?」


「僕にも詳しいことはわからないよ。フォウくんこそ、量子コンピュータってどんなものか知っているのかい?」


「そりゃあ、まあ……量子を使ったコンピュータだってことくらいは」


 和彦は笑ってしまった。


「それは単に、名前を分割してるだけじゃないか」


「ちぇっ。だったら、和彦さんはわかってるのかよ」


「わからないさ。だからこそ、サハロフ博士が何を目的にやってきたかわからないで、困惑しているんだ」


 いっそすがすがしいほどの和彦の返答に、フォウは危うくずっこけそうになった。


 リューンは地球に比べて、純粋科学の面が劣っている。

 和彦は地球で生活するようになってから、それを端々で感じることがある。

 曲がりなりにも物理学の研究者に拾われ、その助手を親友とするようになってからは、なおさらだ。


 極寒の地リューンでは、生き延びることがまず第一義であった。生命が簡単に失われる厳しい自然の世界と対峙するには、科学よりも呪術のほうが身近なものとなった。

 経験則で未来の天気を予測することはあっても、それを数値に直して汎用するといったことは行われなかった。


 世の中の事象を全て二進法にして入力してしまうコンピュータという存在は、和彦の理解の埒外であった。

 それで教えられればパソコンは使えるし、携帯電話を扱うこともできる。

 科学は、上手に利用すれば人類の生活を格段に向上させるということも理解できる。


 そう話したとき、氷浦教授は非常に難しい顔をして、簡単に首を縦には振らなかった。


 科学の中には、人類を滅ぼすためだけに開発されるものもあるのだよ。


 氷浦教授はそのとき、重々しく和彦に告げたものだ。


 後年になって、平和利用の方法が見出せるものもある。だが、それが人を最も効率的に大勢殺すことを目的として開発されたと、忘れられることはない。塩素(マスタード)ガスなど、その最たるものだろう。抗がん剤としての可能性などは、後付けの言い訳にすぎない。人類はときに、そういう信じられない残酷な科学を生み出すものなのだ。


「地球人の科学については、僕はよくわからない。けれども、父さんが軍事研究を嫌っていたことは知っている」


「でも、一方的に攻撃されたときには、なんとかして反撃しなくちゃいけないじゃないか。そのための研究をするのは必要悪だと思うな」


「そう、その必要悪だよ」


 和彦はぱちんと指を鳴らした。


「父さんはよく言っていた。軍事技術を研究する者がいるのはやむを得ない。必要なことでもある。だが、それに従事する人は、そういった技術が本質的に悪であることを理解しなくてはいけない……けれどもサハロフ博士は、父さんのそういった考えには徹頭徹尾、反対だった。自分は誇りを持って軍事研究をやっている、そのどこが悪いというのが彼女の主張だった」


「要するに、水と油ってわけだな」


 フォウが肩をすくめた。


「それはそれでいいよ。しょせん科学者なんて、自分が一番で相手は二番以下っていうやつらばっかりだもの。けど氷浦教授もそういう唯我独尊な連中と同じ考え方というのはなんか意外だし、それほどツンケンしてた相手を頼って、こんな田舎のどんづまりまでやってくるサハロフ博士も謎だよなあ」


 結局、話は元のところに戻ってきてしまった。


「話したくないなら、話さんでもいい。君が強情をはったところで、私は何ひとつ困らないのだから」


 氷浦教授とサハロフ博士のやり取りも、どうやら堂々巡りを続けていたようだ。

 まだ何か言いかけたサハロフ博士の言葉を手のひとふりで遮って、氷浦教授が切りつけるように言った。


「恐らく、長旅で疲れていて思考がまとまらないのだろう。夕食を食べて、ひと休みするといい。あいにく準備もないのでろくな食事は出せないが、幸いにしてこの建物は、客間には不自由していない」


 氷浦研究所は、旧日本帝国軍の軍営として建築された建物を居抜きで買い取ったものだ。一個師団が宿泊することを想定されており、部屋は何十もある。

 とはいえ、普段使いされているのは、そのうちの三部屋だけだ。教授と和彦とフォウ、それぞれに一室ずつである。


「いやいや、教授」


 たまりかねてフォウが口を出した。


「いくらなんでもあそこに女性を泊まらせるのはあんまりじゃないですか。布団も押し入れにしまったままだし、部屋はカビだらけ窓は隙間風だらけですよ」


「父さん、落ち着いてください」


 和彦も言葉を添えた。


「何をそんなにムキになっているんですか。僕の目には、サハロフ博士は本当に困っていると見えますよ。アメリカ時代りのように、父さんに議論をふっかけに来たとは思えません。話を聞いてあげたらどうですか」


 氷浦教授の瞳に怒りがぱっとひらめいた。

 口を開き、何か厳しい言葉を和彦とフォウに投げかけようとして、かろうじてそれを喉に押し込んだ。


 こういう姿も、いつも温厚を持ってする氷浦教授には珍しいことだった。


 ひとしきりそのあたりを意味もなく歩き回った末に、覚悟を決めたように立ち止まり、サハロフ博士を振り向く。


「話してみなさい」


 サハロフ博士は、口を開かなかった。


 その代わり、後生大事に持っていたスーツケースに跳びつくと、いきなりそれを開いた。


「……ああっ!?」


 フォウが目をまん丸にして叫んだ。


 驚いたのは和彦も同じだ。

フォウに負けないくらい目を見開き、あんぐりと口を開けた。

フォウのように叫びたかったが、あまりに仰天したせいで、逆に声も出せなくなった。


 二人して、スーツケースから転がりだしてきたものをまじまじと見つめる。


「こ、これは……?」


 氷浦教授も唖然としていた。


 棒でも呑みこんだようにその場に硬直し、次には闇雲に手を突き出してサハロフ博士の腕を掴む。

相手が自分より小柄で華奢な女性であることも忘れたのだろう、その姿勢のままで激しく揺さぶった。


「どういうことだ? これはいったい、なんだ?」


「熊ですわ」


 いっそ、サハロフ博士のほうが落ち着いていた。


 揺さぶられて乱れた髪の毛を撫でつけ、やんわりと氷浦教授の腕を押さえて言葉を重ねた。


「もっと正確に言えば、子熊です」


「し、しかし……しかし!」


 氷浦教授はまだうろたえている。


「子熊って、君! いったいぜんたい、なんでこんな生き物をここへ持ち込んできた?」


 床にぺたりと伏せているのは、まさに子熊だった。

 一般に熊の子供と言われているものよりもずっと小さい。せいぜい子犬ほどの大きさである。

ケースの仲からいきなり外界に投げ出され、きょとんとしている。起き上がろうとしたが、リノリウムの床に慣れないらしく、ころんと転げた。


 全体として、ぬいぐるみと大差ない姿だった。

 愛らしい、というしかない。


「ウィニー、と呼んでいます。とりあえずのところ」


 サハロフ博士が子熊を抱き上げた。

子熊は抱かれることに慣れていた。嬉しそうにふんふんと喉を鳴らし、サハロフ博士の腕の中へ顔を突っこんでいる。


「け、けど……」


 フォウがひっくり返った声を出した。


「アメリカから、これを連れてきたんですか? どうやって? 子熊がペツトとして認められるかどうかって問題もありますけど、なにより、動物検疫を通過するのには一か月以上かかるんじゃなかったですか」


「検疫は通っていないの」


 サハロフ博士はあっさりした口調で怖いことを言った。


「この子だけじゃなくて、私も入国管理所は通っていないわ。アラスカから海伝いにシベリアへ渡って、ロシアの密漁船に便乗させてもらって北海道へ上陸したの。もちろん、この子と一緒にね」


「ええええええ!?」


「正規の方法で出国しようとしたら、必ずあいつらに掴まっていたわ」


 そう言って、サハロフ博士はきゅっと唇を引き結んだ。


「あいつら、とは?」


「この子を奪い、利用しようとするやつら」


「利用……?」


 和彦とフォウが顔を見合わせている間に、サハロフ博士は子熊を抱いたままで氷浦教授の前へひざまづいた。


「どうか、お願い。この子をあずかってほしいのです。そうして、できることならば……この子を自然に返してほしい」


「な、なんだって?」


「ここに来るまでの道のりで確信しました。ここには野生動物の暮らせる山があり、谷がある。この峻厳な自然環境に放てば、この子はこの姿のままで、野生に戻ることができる。それが何よりもこの子にとっては一番の幸せ」


「待ちなさい、イリーナ。それは乱暴すぎる考えだ」


 困った顔で氷浦が言った。


「見たところこの子熊は君に慣らされている。人間との暮らしに慣れた動物は、自然に放したからといって幸せに暮らせるとは限らないよ。このくらいの子熊には、餌の取り方や暮らし方を教える母熊が必要なのではないか?

 だいいち、これはアメリカクロクマだろう。日本にいるのはツキノワグマといって、別の属だ。似たようなものだと考えるのは人間の勝手だが、生態が違えばつがいを見つけるのも難しい。熊は群れを作らない動物だ。かろうじて日本の山野に馴染んだとしても、メスを見つけられず一生を孤独に終わる可能性が高い」


「それでいいんです」


 サハロフ博士はきっぱりと言い切った。


「この子は、子孫を作れないし、作ってはならない存在ですから」


「なっ……」


 絶句した氷浦教授は、次の瞬間には顔を真っ赤にして怒った。


「イリーナ、君は……! あれだけ私が反対したというのに、やはりあの研究を続けていたのか!」


 怒鳴りつけられて、サハロフ博士は辛そうに目を伏せた。


 主人の感情の起伏がわかるのだろうか、熊が鼻を鳴らすのをやめ、心配そうにサハロフ博士の顔を見上げた。

 その耳の根元を優しく撫でながら、サハロフ博士は血が出そうなほどに自分の唇を噛み締めた。


「ええ、あなたがそうおっしゃるのはわかっていました。私もようやく、自分が間違っていることを知ったのです。遺伝子操作によって、史上最高の動物兵器を作り出すなどということは、決してやってはいけない人類の禁忌だった」


「あんたが、作った……!?」


 フォウが息を呑んだ。


「遺伝子操作で作った動物兵器? この子熊が?」


 サハロフ博士は黙って頷き、子熊を再び床に置いた。

 子熊は、まさにウィニー・ザ・プーといった風情で、よたよたと体を揺らしながら歩き、フォウの足もとまで来てよじ登ろうとした。

 すぐにバランスを崩してすてんと転ぶのも愛らしい。

 きゅう、と鳴いて前脚をフォウに差し出した。


「うわ、こりゃたまらん」


 あまりの可愛さに、フォウが子熊を抱き上げる。

 知らない人間を相手に、子熊は上機嫌を崩さなかった。

 フォウが気にいったらしく、また鼻をふんふん鳴らして、されるままに腕の中へ収まっている。


「動物兵器……このぬいぐるみモドキのどこが兵器?」


「可愛いこともまた、兵器としての利点なのだよ、フォウくん」


 沈鬱な面持ちで氷浦教授が言った。


「子供の好きそうなおもちゃや人形に爆弾を仕込むことは、テロリストのよく使う手でもある。現に今もフォウくんは、可愛い外見やしぐさにほだされて、つい抱き上げてしまったじゃないか。動物が人形よりも優れているのは、自ら動くところだ。また、訓練すれば人間の命じたとおりのことができる動物も多い」


「えっ。じゃあ、この子熊の体内に爆弾が?」


「爆弾ならまだいい。だがイリーナは、遺伝子操作をしてこの子熊を生み出したと言った。これはもっと禍々しい、もっと恐ろしい何かに違いない。そうだな、イリーナ?」


 青白い顔をしたイリーナが、氷浦教授の問いに頷きで応えた。

 苦しそうに首を振り、なんとか声を絞り出す。


「爆薬を背負わせた犬を訓練し、車両の下にもぐりこませて地雷がわりにするという試みはありました。現代でも、ロバ爆弾と名付けて建物に突っこませることを得意としているテロリスト集団はあります。

 しかし、動物の行動は完全には制御できません。背負った爆弾が作動するよりも早く、主人の元に戻ってきてしまう動物は多かったといいます。よく訓練された動物ほど、主人に褒めてもらいたいという動機付けが強く働くのでしょう。結局、動物を兵器として利用するのは確実性に欠けるということで、研究者もまともには扱われなくなりました」


 そして、そういった雲をつかむような研究を助成する組織に、サハロフ博士は拾われたのだ。

 大真面目で平行世界について論じていた氷浦と同様に。


「私が遺伝子組み換え生物の研究に方向転換したのは、ドクター・ヒウラが研究所を辞してから後のことでした」


 サハロフ博士は話を続けた。


「動物を利用した軍事兵器の研究については、それまでもずっとドクター・ヒウラから批判されていました。当時の私は、人間が犠牲になるよりはずっとましだという信念をもっていましたから、ヒウラになんと言われようとガンとして考えは変えませんでした。挙げ句の果てに、遺伝子組み換えなどという禁断の科学に手を出してしまって……」


「え、でも遺伝子組み換えって巷でよく聞く言葉じゃねえ?」


 フォウが首を傾げた。


「害虫に食われにくい大豆とか、今までよりも傷むのが遅い果物とか、栄養成分の増えた穀物とか。あ、青いバラとかもそうじゃなかったっけ」


「それは全て植物だからね」


 氷浦教授がサハロフ博士の代わりに解説した。


「植物の遺伝子を改変することさえ、廟的に嫌う人は多い。ましてや動物の遺伝子をいじるのは倫理的に許されないと、声高に反対が叫ばれている。研究用マウスに特定遺伝子を入れて人為的に突然変異を起こすことも、国際法で厳しく制限されている手法だ。ましてやそれを軍事目的で行うということは、いくら研究だと言っても通るはずがない」


「でもサハロフ博士は……」


「だからそこに、イリーナが密入国までしてここにやってきた理由があるのだろう」


 なあイリーナ、と氷浦教授が顎をしゃくった。

 サハロフ博士が唇を噛み締めたままで頷いた。


「私に資金を提供してくれた組織は、決して名前を名乗ろうとしなかったわ。人的消耗を軽減するために、動物を軍事に使用することはやむを得ない、という当時の私の主張に賛同してくれて、必要なだけの資金を提供しようと申し出てきたの。資金もだけど、私は何より、私の考えに同調してもらえたことが嬉しくて……」


 きゅう、と子熊が鳴いた。

 フォウの腕の中から、主人に向かってむくむくした両手を刺し出す。

 抱っこしてくれとねだる幼児と同じ、愛らしい仕草だ。


 サハロフ博士はフォウから子熊を受け取り、ぎゅっと抱きしめてはらはらと涙を落とした。


「ヒウラの言うとおりだった。私のしたことは、髪の許さぬ領域に触れる、禁断の科学だった。研究を続けていくうちに、私はだんだん怖くなってきた。心から後悔した。けれど……研究をやめると言ったとたん、彼らは態度を豹変させた。今までの成果を全て差し出すようにと、私を脅迫してきた。……安心して。データはデジタルもアナログも、全て処分したわ。でも……」


「この子が残った?」


 今度こそ、サハロフ博士は床にくずおれた。

 こぼれ落ちる涙で子熊の頭部が濡らされた。子熊は困ったふうに自分の頭の毛を触ろうとしたが寸足らずで果たせず、代わりに腕の中でのびあがって、サハロフ博士の頬を伝う涙を舐めた。

 塩辛かったようで、顔をしかめてくしゃみをする。


 泣きながら、サハロフ博士は少し笑った。


「アメリカやカナダの自然公園に放すことも考えました。けれどもそれでは私に近すぎる。この子を見失った彼らが最初に探すであろう場所でもある。ですから私は彼らの意表をつくことにしたのです。まさか私が出国記録も残さず、密かにこの子を日本へ連れ出すとは夢にも思わないでしょう。研究所でも、私とドクター・ヒウラの不仲は知れ渡っていました。そのヒウラを私が頼るというのも、彼らの思惑にはないはず」


 和彦はサハロフ博士の言葉が終わる前に、静かにその場から離れた。

 宿泊棟に行って、女性を一晩泊められるくらいには整備できそうな部屋を探すためである。


 幸い、季節は春。

 明け方はまだ冷え込むものの、暖房の通っていない部屋でも寝具がたくさんあればなんとかなる。


 熊はどうしよう。箱にでも入れてやればいいだろうか。


 氷浦教授の表情を見れば、彼女の訴えに心を動かされたことは見て取れた。

 この付近の森に野生の熊が何頭も生息しているのも知っている。

 遺伝子操作をされた、子孫を残せない外国の熊。

 この土地でそんな動物がどれくらい生きていられるかはわからないが、少なくとも野に放ってしまえば、誰かが再び捕獲しようとしても、難しくなることは間違いない。


 実験動物を殺処分できなかった、サハロフ博士の心境を和彦は想像しようとした。


 彼女のことはよく知らない。けれど。


「寂しい人なのかもしれない」


 独り、そっと呟いた。


 火急のときに、犬猿の仲とまで言われていた氷浦教授しか頼る相手がいなかったのだから。

 否。犬猿だと言っていたのは周囲の者だ。

 サハロフ博士自身は、対等の立場で議論を交わせる相手のことを、心密かに頼もしく思っていたのかもしれない。

 氷浦があんな形で研究所を出ていかなければ、この研究についても氷浦に咎められ、完成させる前に方向転換していた可能性もある。


「そういう意味では、僕のせいともいえる」


 氷浦が慌ただしくアメリカを逃げ出したのは、和彦の正体を怪しまれないようにするためだった。

 かなりの金額で準備した偽造書類は完璧でも、急に現れた大きな息子に不審を抱く者は多かったはずだから。

 特に、氷浦を狙っていた女性研究者たちは。


 サハロフ博士もその一人だったかもしれない。

 異端の研究にこだわったのも、本当は、氷浦に止めてほしかったがゆえ。


 ふう、と和彦は溜息をついた。

 人の心は不可解だ。


 頭を振ってそんな考えを頭から追い払い、和彦は空き部屋をめぐって押し入れの布団を吟味する作業に専念することにした。


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