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訪問者は空港のロビーで和彦を待っていた。
「すいません、遅れました」
和彦は一応、頭を下げた。
その言葉に真摯な謝罪の気持ちがこもらないのは、あまりにも突然のことだったがゆえだ。
この人と氷浦教授がかつて険悪な仲だったことは関係ない。と、自分に言い訳してみる。
「お久しぶりです、サハロフ博士」
「イリーナと呼んでくれていいのよ、カズヒコ」
薄い金色の切り髪をしゃらりと揺らし、ロシア訛りの強い英語でサハロフ博士は言った。
恐らく見た目よりはずっと年配なのであろうが、アメリカの研究所時代から、外見にはそうとうのカネをつぎこんでいると噂されていた。
今でも十分に人目を引く美人だ。田舎の空港にたたずんでいるだけで、嫌というほど目立ちまくっている。
普段なら、そういった男性からの賞賛のまなざしを誇らしげに受け止めるタイプの女性だった。
しかし今、サハロフ博士の表情には笑顔のかけらもない。
それどころか、何かに怯えているようにも見える。
留学生が使うような、飛行機の預け荷物の最大限度であろう大きなスーツケースを自分のそばに引き寄せ、命綱のように取っ手を両手で握りしめている。
目線も、ともすればきょろきょろとあたりをうかがい、落ち着かない。
「いったいどうしたんですか、博士」
たまらず、和彦は尋ねた。
「まるで刺客に狙われているみたいじゃないですか」
なにげなく言ったその台詞が、サハロフ博士の過剰な反応を引き出した。
彼女は和彦がぎょっとするほど高く跳びあがり、次にはぎゅっと眼を閉じて体をすくめた。
そうしながらも、スーツーケースを握った手は離さない。
「サ……サハロフ博士?」
「お願い、カズヒコ」
すがりつくような目をして、サハロフ博士は訴えた。
「私を一刻も早く、ドクター・ヒウラのところへ連れていって。私はもう、彼に頼る以外に方法はないの」
「父さんに、頼る?」
「ええ」
サハロフ博士は青ざめた顔で頷いた。
「ヒウラは心の正しい人。たとえ異端の研究で学会を追われた身であっても、彼の正しさと強さは永遠に変わらない。私はそう信じている。だから、ここまでやってきた」
「ま、待ってください」
和彦は途方に暮れた。
「なんの話をしているんですか。僕にはさっぱりわかりません。何かお困りのことがあるらしいですが、そもそもあなたと父さんでは研究分野がまるで違いますし……」
しかも、決して仲は良くなかった。
和彦はアメリカ時代を思い出す。
あつかましくも自宅まで押しかけて議論をふっかけてくる研究者の中で、氷浦が最も嫌っていたのはこの女性だった。彼女に比べれば、まだキース・メックリンガーと話をするほうがいいと言っていたのだから、よほどのことだ。
国防研究所という名前のついたその機構には、多くの研究者が所属して、一般的には認められぬ奇妙な研究を粛々と行っていた。
キース・メックリンガーは超常心理学。氷浦教授は空間物理学者として、平行世界の実在を証明しようとしていた。
いずれも、そんじょそこらの大学では研究費も出してもらえない分野ばかりだ。
そうして、この女性は。
軍事技術に関わる分野の研究者だった。
それがなぜ平行世界を研究している氷浦に付きまとっていたのかは、和彦はよく知らない。
ただ、正体を隠すためできるだけ奥に引っ込んでいた和彦でさえ顔見知りになるほど、この女性が頻繁に氷浦を訪ねてきていたことは確かだ。
巷によくいた、ナイスミドルの氷浦を狙う色気虫というわけでもなかった。
その証拠に、顔を合わせるたび二人は大論争になり、彼女が訪ねて来ても氷浦は、水の一杯も出さないほどだった。
そのサハロフ博士が、氷浦を頼る?
氷浦自身はその理由を知っているのだろうか。
和彦が聞いているのは、今朝いきなり博士から衛星電話で連絡が来た、夕方の便で町に着く、ということだけだ。
「……とにかく、うちまでお連れするように父さんから言い使っています。どうぞ、こちらへ」
和彦はなにげなく博士のスーツケースに手をかけた。
女性には大きすぎる荷物なので、単に手伝おうと思っただけだった。
しかし、その和彦の手をサハロフ博士は激しく跳ねのけた。
全身でスーツケースに覆いかぶさり、奪われまいとしている。
おびえた視線と、怪訝な視線が交錯した。
「ご、ごめんなさい」
サハロフ博士はすぐ我に返った。
なんでもないと見せたいのか、ひきつった笑顔を頬に浮かべてみせる。
「でも、大丈夫。中身はそれほど重くはないの。私一人で十分、引っ張っていけるわ」
「そうですか」
と、和彦は答えるしかない。
空港の駐車場まで、サハロフ博士は自分で言ったとおりスーツケースを転がしていった。
エレベータの段差を越えるときの様子から見て、中身は彼女がいうより重いのではないかと和彦は推測した。
おかしなことばかりだ。
ジープの後部座席に置くには、それを持ちあげるしかない。四苦八苦しているサハロフ博士に手を貸そうとして、和彦の手は再び激しく振り払われた。
「ごめんなさい。この荷物は天地があるから」
悪戦苦闘の末に、博士はなんとかスーツケースを持ちあげ、車の後ろに乗せた。
自分もその横にもぐりこみ、再びしっかりと持ち手を握りしめる。
軍事研究者がこれほど大切にする、上下をひっくり返してはならない荷物とは。
爆弾?
「まさか」
和彦は自分で自分の思考に突っこみを入れて、密かに苦笑した。
サハロフ博士に気付かれなかったかと肩越しに盗み見てみたが、彼女はスーツケースを抱えて周囲を警戒するのに忙しく、運転席の和彦にはまったく関心を向けていなかった。
和彦もつられて彼女の視線の先を追った。
なんの変哲もない、のどかな地方都市のありさまだ。走り出してしまえば、後部座席の金髪美女にも気を止める者はいない。
夕暮れが空から迫ってくる時間帯。
のんびり犬の散歩をしている年寄りや、帰り道を急ぐ学生たちが歩道を行き来しているばかりだ。
そういえば、客人を迎えるというのに、氷浦からは食料の買い出しも命じられなかった。だが、この時間帯にやってきたということは、いったん研究所へ戻ってしまえばかなりの夜更けになってしまう。それから町のホテルへ連れて戻っていれば、下手をすれば翌朝になるだろう。
氷浦が好むと好まざるとに関わらず、今晩は研究所に泊めるしかない。夕食も出さざるを得まい。
どうしよう。四人分か。
いつも三人で暮らしているので、こういうときは困る。
食糧庫に残っている食材をあれこれと頭の中で思い起こしながら、和彦はいっさんにジープを研究所へと走らせた。
後部座席でサハロフ博士は、息さえ殺して、スーツケースと共にじっとうずくまっているようだった。




