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「熊ぁ!?」


素っ頓狂な声で叫んだのはフォウだった。


「そんなんがいるんっすか? こんなところに?」


「こんなところも何も」


 九条先生が無意味に胸を張って言った。


「日本で熊の生息地といえば、まさにお前が今いる「こんなところ」に決まっている」


 言われてフォウはおそるおそる、周囲を見回してみた。


 どこまでも続く山並み。春の訪れと共に青々と木々が茂り始めている。

大地には幾つもの緑の丘がうねり、遠くには放牧された牛や馬の姿が豆粒ほどに見えている。冬の積雪で壊れた柵も、大部分は和彦とフォウの手で修理された。おおらかでのどかな春の光景である。


「ここって一応、人里じゃないですか」


「限界集落という別名もあるぞ。お前、この村の人口を考えてみろよ。ついでに平均年齢もだ。じいさんばあさんが寄り集まって、なんとか自然を山際まで押し戻してるギリギリの状態なんだぞ。人の数は少なくて、そのくせ牛や馬がたくさん飼われててて、ささやかながら農地もある。熊にしてみりゃ、上げ膳据え膳のレストランみてえなもんじゃねえか」


「レストランって……」


「問題はそのレストランのご馳走として期待されてるのが、果物や農作物だけじゃないってことだな」


 九条があまりに当たり前の口調で言うものだから、フォウは最初、単なるジョークだと思ってしまった。

 どうやら本気で言っていると気付いたのは、バケツで飼料を運んできたついでに二人の会話を耳にした珊瑚が、お父さん縁起でもないこと言わないでと叱りつけたからだ。


「村の人たちも、わりと真剣に怖がってるんですからね。むやみにそれを煽りたてるようなこと言わないでちょうだい」


「煽るたあなんだ。俺は掛け値なしの本当のことを話してるだけじゃねえか。幸い俺が来てからは、熊に頭から食いつくされた、みたいな事件はまだ起こってないが」


「その、起こってほしそうに言うのもやめて!」


 珊瑚が厳しく言った。


 歴戦の勇士を思わせるオーバーオールに身を包んだ珊瑚は、せっかくの休日だというのに、朝からせっせと農作業や動物の世話に余念がない。

 といっても九条家の本業は獣医であるから、年老いている村民の手伝いを進んでしているのだ。

 和彦とフォウも同じ目的で村に呼ばれてきていた。

 

 遅れてやってきた山の春には、やることが山のようにある。

 そんな中で急に、猟銃の講習会に行ってくると言い出した九条に、仕事をさぼる口実じゃないんですかとフォウが突っこんだことから、この会話が始まったのである。


 九条の曰く、日本では猟銃が免許制であり、狩猟にも許可証が必要なのだそうだ。

 これは決して趣味や暇つぶしなどではなく、村の存続のためどうしても行かねばならぬという。


「免許更新ならともかく、講習会でしょ?」


 半ば呆れて、珊瑚は腰に手をやって父親にすごむ。


「お父さんに、いまさらなんの講習が必要なのよ。銃の扱いなんか得意中の得意。職業にまでしてたことがあるんじゃないの」


「おっと。警察は銃の扱いが仕事じゃないぞ」


 九条は獣医の資格も持つが、そもそもはニューヨーク市警で刑事をしていたという異色の経歴を持つ男だ。


「仕事の一部なのは間違いないでしょ。おまけにお父さんは警察時代、余興でロデオをしながら早打ちまでしてたってのが自慢じゃないの」


「ありゃあ拳銃だからな。熊撃ち銃ってのははまた、ぜんぜん別のものなんだぞ。なにしろ相手は熊だ。威力が違う」


「人間相手にも平気でマグナムぶっ放してたくせに」


 珊瑚はあくまで負けずに言い返す。


「とにかく! 今日の講習会への参加は見合わせてもらいますからね! 来るかどうかわからない熊よりは、目先の診療所の雨漏りが先決! さ、お父さん。さっさと屋根に上がって、穴の開いてるとこを探してきてちょうだい!」


 なんだかんだ言いつつも、九条も娘には弱い。がんがん言い立てられて、仕方なく大はしごを納屋から持ちだしてきた。

 やけのように乱暴に立てかけ、上がっていく。

 そうしながらも未練がましく、まだ何かぶつぶつ文句を言っていた。


「もう!」


 そう言いながらも珊瑚の顔は笑っていた。

 フォウを振り向き、肩をすくめてみせる。


「一応は弁護しとおくけど、熊の被害がないわけじゃないのよ。今年みたいに春がいつもより遅いときは、冬眠明けの熊はお腹をすかしていて例年より凶暴になるというしね」


「うええ。てことは、本当に熊が出るんだ」


 フォウが眼を丸くした。


「あら、フォウくんは熊を見たことがない?」


「当たり前だろ。俺は大都会、香港の出身だぜ」


 フォウが偉そうに言った。


「あ、もとい。パンダならたくさん見たことがある」


「ええ、パンダ?」


「だってパンダは熊猫っていうくらいなんだから、熊の一種だろう? 香港にはパンダがうじゃうじゃいるんだぜ」


「うじゃうじゃ……」


「あの狭い国土の中でなんと六匹も飼ってるんだから、すげえだろ。つがいが二組に、その子供が二匹。しかも子供は男と女の双子で、年寄りにもちびっこにも大人気だ。全部が海洋公園っていう香港一番人気のテーマパークで飼われてる」


「……なんで陸の動物を海洋公園で飼うのよ?」


「あー。そう言われてみればそうだな」


 フォウは頭をかいた。


 今まで疑問に思ったこともなかったのだろう。本気で困惑して真剣に首をかしげているフォウに、珊瑚は笑い出した。


 春のあたたかな光が天から注いでくる。

 牧場に放牧された牛や馬も、太陽の光を浴びて気持ちよさそうだ。浮かれた足取りでゆっくりと柵の中を闊歩している。


「フォウくんたちが修理してくれたあの柵だって、電流が通ってるでしょ? あれは要するに、熊避けなわけよ。冬の間は冬眠してるけど、この時期になると冬眠から覚めてうろうろし始めて、冬の間に痩せて凶暴になってるから、今の時期までにしっかり直しておかなきゃいけなかつたわけ」


「あんな柵ごときで凶暴な動物がどうにかなるとも思えないけどなあ」


「熊って用心深い生き物だから、触ってすごく痛かったもののことは忘れないのよ。逆に、一度でもいい思いをした場所のことも忘れない。だから家の外に食べ物を出しっぱなしにしないとか、いろいろ気をつけなきゃなんないの」


 そう言って、しかし珊瑚はぺろりと舌を出した。


「なーんて偉そうに言ってるけど、これもみんな村の人たちからの受け売り。少なくとも私は熊の被害に合ったこともないし、なんなら熊の姿だって遠目に見たことがあるだけ」


「なんだ、そうなのか」


「でも、山の中に熊がたくさんいるのは間違いないのよ。村の人たちが油断なく警戒しているからこそ、熊はこの村を標的にしないんですもの。最近は冬でも和彦さんが熊罠や電気柵の見回りをしてくれるしね」


 憧れの人の名前を口にして、珊瑚は少し頬を赤らめる。


「ほんと、和彦さんがいてくれて心強いわ」


「だよなあ」


 フォウも同意する。


「特に、和彦さんは寒さにめちゃくちゃ強いからなあ。俺なんか、冬の間に山ん中を見て回れと言われたら、それこそ熊みたいに布団の中で冬眠しちゃうとこだ」


 南国香港の生まれであるフォウは、寒さには極端に弱い。日本の豪雪地帯での冬ごもりには散々苦しめられ、閉口したものだ。


 一方の和彦は、極寒の地で生まれ育っている。

 彼に言わせれば、リューンの冬の比べればこの程度の寒さや降雪などたいしたことはないらしい。大雪の中でも平気で外に出てまき割りはするし、雪かきも屋根の修理もお手の物。なんなら、池の氷を割って寒釣りまでしたりする。


 元の世界では王子様だったはずなのになあ。


 リューンという世界を、フォウは和彦の話でしか知らない。だが、聞くだに厳しい暮らしだったのだなあと認識を新たにする。


 もしくは、和彦だけが特別誂えだったのかもしれない。

 そう思ってみれば、第二王子だったというアイザス・ダナが雪かきやまき割りをしている姿は想像もつかないわけだし。


「フォウくん? フォウくんったら」


 気がつけば珊瑚に話しかけられていて、フォウは慌てて夢想を頭から追い払った。


「え、なに?」


「和彦さんのことよ。村の用事で来るときはいつだって一緒になのに、今日はどうしたの? 昨日お父さんと氷浦教授が無線で話したときには、和彦さんも来ると言ってたんじゃなかったっけ。まさか、急に体調が悪くなったとか?」


「いや、心配ご無用」


 フォウは急いで手をひらひらと振ってみせた。


「和彦さんは今朝になって急に、教授のほうの仕事が入っちゃったんだよ」


「仕事? 和彦さんが?」


 氷浦教授の助手はお前のほうだろうと言いたげな珊瑚の視線に、フォウはちょっと口をへの字にした。

 珊瑚の和彦に対する恋心はわかっているつもりでも、こうあからさまにお邪魔虫あつかいされては、さすがのフォウも嬉しい気分にはならない。


「お客様を迎えに町へ行ったんだ。俺は相手の顔を知らないから、和彦さんが迎えに行ったほうがいいだろうって、教授がさ」


「えっ、お客様? 研究所に?」


 珊瑚が驚いた。


「珍しいわねえ。和彦さんが知ってるということは、アメリカ時代の氷浦教授の同僚か何かってことよね。あら、ということは海外からのお客様なの? それは確かに、お迎えに行ってあげなきゃいけないわねえ」


 この村から町の空港までは何十キロも離れていて、交通手段はかろうじてバスが一日二便あるだけだ。

 日本語の読み書きができる者でもこの村へたどり着くのは大変なのに、氷浦教授の研究所はこの村よりさらに山を分け入った奥にある。


「こんなところまで訪ねてくるなんて、それはさぞかし親しかったお友達なんでしょうねえ」


「いやー。それが……」


 フォウが言葉を濁した。


「氷浦教授の様子を見てると、どうもそのお客を喜んで歓迎してるふうでもないんだよなあ」


「でも、そんな相手に迎えは出さないでしょう?」


「それは確かにそうなんだけど……」


 釈然としない思いを、フォウは足もとの石ころを蹴ることで表現した。


 氷浦教授は少しも嬉しそうではなかった。それどころか、あからさまに顔をしかめていたのだ。

 それでいて、その客を迎えに行くよう和彦に命じた。

 その日の朝に連絡が来て、夕方には到着するというその古い知人とやらを。


 これはきっと、何かがある。

 フォゥは内心でそう確信するのだった。


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