日々
三題噺もどき―ななひゃくにじゅうなな。
時計の針の音が響いている。
合間に紙をめくる音が聞こえて。
視線を右から左へと走らせていく。
「……」
カーテンの開かれたリビングには、柔らかな月の光が差し込む。
もう少し涼しければ、窓を開けて網戸だけにするのだけど。
さすがにこう暑い夏の日に、それは叶わない。昨年はそうでもなかったきがするのだけど、果たしてどうだっただろう。生憎覚えてない。
「……」
お気に入りのソファに座り、1人読書に勤しんでいる。
すぐそばに置かれたローテーブルの上には、氷の浮かんだコーヒーが置かれている。
あまりアイスコーヒーアイスは好まないのだが、仕方あるまい。何度も言うが暑いのだ。
今年の夏は、乗り越えるのも一苦労だ。
「……」
グラスには、水滴がまとわりついているせいで、手で直接持つのは憚られる。
特に今は紙の本を触っているから、尚更。
しかしこう暑いと喉が渇く。読書に集中していても、お構いなしに。
「どうぞ」
「ぁ、あぁ、ありがとう」
キッチンにいたはずの私の従者がそれに気づき、ストローを持ってきた。
いつの間に買ったのだ……。プラスチックの大量に入って安くで売られているやつだろうこれ。今は助かったが、何に使うつもりで買ったのかもわからない。
まさかこれを想定していたわけでもあるまいに。
「……」
それだけ渡して、さっさとキッチンに戻った従者は、チーズケーキ作りをしている。
小柄な青年の姿で、汚れないようにエプロンを身に着けて。
キッチンで慣れた手つきで材料を計り、混ぜて、型に入れていく。
「……」
思わず見惚れるほどに流れるような作業風景である。
まぁ、これまでに何度となく作っているからというのもあるのだろうが。
基本的に料理はアイツがしているし、毎日いろんなお菓子を作っているのだから、手つきはプロ並みになるだろう。
「……まだできませんよ」
「わかってる」
じっと見ていたのに気づいたので視線を本に戻すとしよう。
今回の本は、自分でもなぜ買ったのかもいつ買ったのかも記憶にない、青春物語だ。
この時期になれば書店には並んでいるような気もするが、どうだろう。もっと怪談とかホラーの方が多いのだろうか。
「……」
桜の舞う春の日の話から始まり。
鮮やかな夏を迎え、様々な経験を経て。
燃ゆる秋には挫折を覚えて。
寒い冬にはまたひとつ、大きくなっていく。
「……」
小さな教室での、小さな青春物語ではあるが。
モラトリアムの真っ最中である彼らが、自分をという個を確立するために奮闘する様は、読んでいて少し来るものはある。
こういう経験をした記憶がないこともそれに拍車をかけているのかもしれない。憧れなんてものではないが、良いなぁとは思わなくもないのだ。
「……」
めくるたびに聞こえる心の叫びが、痛々しくて生々しい。
実際そうなのかどうかは知らない。ただ、この物語の彼らは、そうだと言うだけかもしれない。しかし、生きている限り遭遇し得る場面ではあるのだろう。
……まぁ、こんなに歳を取った上に、吸血鬼という存在である以上、願うこともかなわない物語ではあるがな。
「……」
それに。
私は今の時間、今この瞬間が、生きてきた中で一等大切なのだ。
何も気にせず読書をしたり、キッチンで料理をするアイツを眺めたり。
毎日仕事をしたり、散歩に行ったり。
そのくらいの、普通の日々が、一等、大切だ。
「……なんですか」
「……なんでも」
何でもないやり取りが。
一番記憶に残ったりするものだろう?
「できましたよ」
「おぉ。相変わらず美味そうだな」
「何か飲みますか」
「紅茶にするかな」
お題:桜・教室・チーズケーキ