第89話 恋は盲目
「それは本当に八木明人の意志だったのかしら?
勿論。
彼の中にはあなたに対する欲望はあった。
でもこれまでずっと踏み止まっていた。
コンビニの女子高校生や
市民プールの女性職員と同じように。
彼はギリギリのところで耐えていた。
そんな八木明人の背中を
後ろから押した人物がいた」
黒いドレスの女の言葉は次第に熱を帯びてきた。
「それが大烏亜門よ。
八木明人が大烏亜門に何と説得されて
あなたを襲ったのかはわからない。
けれど八木明人が
あなたに好意を寄せていたのは事実」
女は震える手をテーブルの下で握りしめた。
「あなたは彼があなた以外の女性に
欲情していることが許せなかった。
あなたのどんな誘惑にも抗い続けてきた彼が、
自分よりもはるかに魅力のない女性達に
その欲望をぶつけている。
あなたのプライドはズタズタに引き裂かれた。
同時に八木明人の欲望の対象となった女性達に
激しい憎しみを抱いた。
あなたが八木明人の監視を始めてから、
彼が何人の女性を襲ったのかはわからない。
はじめて彼のそんな姿を見た時は
あなたも驚いたでしょう?
普通は好きな人のそんな行為をみたら
冷めると思うんだけど。
恋は盲目。
あなたにしても八木明人にしても
かなり歪んだ人格の持ち主のようね」
女は何も言わなかった。
目の前に座っている黒いドレスの女を
ただ黙って見つめていた。
「兎に角。
あなたの怒りは爆発する。
それが2件の殺人事件。
2件目にしてようやく、
八木明人は自分の襲った女性が
殺されていることに気付いた。
そしてそれ以降。
彼の習慣はピタリと止んだ。
あなたの望み通りに」
「それが本当であれば・・面白い話ですね。
それよりも。
貴方の仰るように
私が2件の殺人事件の犯人というのなら、
その証拠はどこにあるのです?」
「そうね。
残念ながら証拠がないのよね」
女の肩の力がすっと抜けた。
そんな女の様子を見て
黒いドレスの女は微笑んだ。
その微笑みは誰もが引き込まれるような
自然な笑顔だった。
女は自分でも気付かぬうちに
その笑顔に見惚れていた。
黒いドレスの女がゆっくりと口を開いた。
「でもね。
私の推理に間違いはないの。
これまでも。
そしてこれからも」
その時。
マスターがテーブルにやってきた。
マスターは洗練された動作で、
女の前に
ホットプレスサンドセットとコーヒーを、
それから黒いドレスの女の前に
コーヒーを置くと
無言でカウンターへ引き返した。
女の前に置かれたプレートには
ホットプレスサンドと小皿に盛られたサラダ、
それと切り落とされたパンの耳に
生クリームが載せられて、
それらが整然と並べられていた。
「どうぞ」
黒いドレスの女が促したが、
女は目の前の食事に
手を付けようとはしなかった。
代わりに女は笑顔を作った。
「これ以上話すことはありません。
証拠がないのであれば
お引き取りをお願いします」
そして女はコーヒーを飲んだ。




