第70話 飴と鞭
大烏の発言は先ほどと明らかに矛盾していた。
大烏は彼女を傍に置くために
脅迫という手段に出たのではないか?
そして彼女に殺人犯という
重い足枷をはめようとした。
それなのに。
今は彼女の潔白を証明すると言っている。
「ふむ。
どうやら理解が追い付いていないようだね。
『飴と鞭』は人を支配するうえでの
基本的な懐柔策だ。
だから。
次に私は彼女に
『飴』を与えることにしたのだ」
大烏の瞳が月明かりを反射して妖しく光った。
その飴は彼女にとって禁断の果実ではないのか?
大烏の甘い囁きは蛇の誘惑ではないのか?
彼女もまた楽園を追われる運命なのか。
僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「彼女が君のストーカーであるという事実が、
当然に彼女の立場を不安定にさせている。
おまけに警察は
殺人事件の犯人を女性と考えて
捜査を進めている。
だから私は彼女に提案したのだ。
彼女をこの事件の
捜査圏外へ導いてあげようと。
どうだね。
私の彼女に対する真実の愛は?」
暗闇の中、
月明かりに照らされた大烏の顔は
この上なく醜くそして浅ましく見えた。
この男は悪魔だ。
そして悪魔が愛を語るなど
あってはならないことだった。
それにこれは愛などという美しいモノではない。
「それに。
都合の良いことに。
君の起こした暴行事件の被害者達も
少なからず現れている」
そう言って大烏はニヤリと笑った。
僕は大烏を睨みつけた。
雲が流れて月を隠した。
大烏の顔が闇に紛れた。
「運命とは自らの手で切り開くものなのだよ。
カラスは黒い。
しかし時には
それを白いと説き伏せる力が必要なのだ。
詭弁ではない。
強弁こそが力であり正義なのだ。
それこそがこの世界の道理。
必ずしも真実が明かされるとは限らない。
嘘や虚構が真実の仮面を被って
我が物顔で闊歩しているのだ。
歴史は勝者が捏造する。
清く正しい人間の切実な心の叫びよりも、
メディアに露出している
下衆な人間の戯言のほうが影響力がある。
子供に嘘を吐くなと教育している大人こそが、
平気な顔をして
嘘を吐いているような世の中だ。
笑わせてくれるよ」
闇の中から大烏の高笑いが聞こえてきた。
狂ってる。
まさに詭弁だった。
「そこでようやく君の出番というわけだ。
彼女との契約を履行するために
私はこの場を設けたのだよ」
悪い予感がした。
動悸が激しくなり呼吸が苦しくなった。
頭の中の声が逃げろと命じていた。
しかし逃げ場はなかった。
背後は海。
前には大烏が。
口の中がカラカラに乾いていた。
僕はゆっくりそして大きく空気を吸い込んだ。
「そ、それは・・
ど、どういう・・意味ですか?」
そしてできるだけ平静を装って訊ねた。
「ふむ。
わからないかね?
彼女を捜査の圏外に置くにはね。
代わりの犯人を用意すればいいのだよ」
代わりの犯人。
まさか・・。
「ふむ。
この事件の犯人は君だよ、八木明人」




