第67話 『葉隠荘』
僕はゆっくりと深呼吸をした。
そして大烏の視線から逃れるように
真っ暗な空を見上げた。
「恋に落ちるのは一瞬。
出会ったその瞬間に心を奪われるのだ。
時間をかけて惹かれていくなどというのは
本当の恋ではない。
まやかしなのだ。
それは洗脳と呼ぶに相応しい。
芸術でもそうだろう。
初めて聴いた音楽に心を奪われる。
それこそが。
本当に心から良いと思う音楽なのだ。
恋も芸術も同じなのだ。
初めの出会い。
最初のインスピレーション。
それこそが本物なのだ。
時間をかけて育むようなモノは
愛でもなければ芸術でもない。
本物は出会ったその瞬間に
本能に訴えかけてくるのだよ。
そして。
人を好きになることに理由を探すのは愚かだ」
僕は何を聞かされているのか。
たしかに大烏の言葉には一理ある。
しかし。
自ら選んだ愛が
大烏の主張するような
本当の愛ではないとしても、
それが誰にわかるというのか。
たとえそれが大烏の言う洗脳の愛でも。
それの何が悪いのか。
洗脳が解けなければ
それは本人達にとっては真実の愛なのだ。
そんなことよりも・・。
「お、大烏さんの話はよくわかりました。
それよりも、
今のこの状況を説明して下さい。
は、犯人をここに連れてくるはずでは
なかったのですか?」
僕は視線を大烏に戻した。
暗闇の中、
大烏の表情はわからなかった。
「ふむ。
人の話は最後まで聞くものだよ。
小さい頃、学校でそう習っただろう?」
大烏はそう言って僕の質問を退けた。
「君が持っていた
彼女の盗撮映像を見て私は震えたよ。
これほどまでに美しい女性が
この世に存在するのかと。
頭の天辺からつま先まで、
まさに非の打ち所がない。
人類の奇跡だ。
ミロのヴィーナスやモナ・リザですら
彼女の前では霞んでしまう。
彼女のすべてが欲しい。
彼女を私のモノにしたいと心からそう願った。
しかしこれまでの経験上、
彼女のような女性が
私になびくとは考えにくい。
それに彼女を前にして、
私が男としての使命を
果たすことができるかどうか。
兎に角。
私は彼女のことを一旦忘れることにして、
君の事件の調査に取り掛かった」
大烏が大きく息を吐く音が聞こえた。
「この事件の犯人は
君の身近にいる人物だと思っていたが、
君がリストに挙げた人物は
どれも当てはまらなかった。
そこで君の自宅の盗聴器を疑ったことから
事件は大きく様変わりしていく。
盗聴器を発見した翌日から
私は君の自宅周辺を張り込んだ。
それに関しては以前にも説明しただろう?
盗聴器は特殊な電波を使うのだが、
あの手の盗聴器の電波は
それほど遠くまでは届かない」
僕はあの時のことを思い出した。
しかし張り込みの結果、
近くで僕を監視しているような人物は
いなかったと大烏はそう言ったのだ。
「つまり。
盗聴器を仕掛けた人物は、
君にも気付かれず、
周辺の住民に怪しまれることもなく、
盗聴ができる環境にいたということだ。
それが意味することは1つ。
この盗聴器を仕掛けた人物は
君の近くに住んでいる」
その言葉に僕の全身は総毛立った。
聞いていた話と違う。
犯人が僕の身近に潜んでいた?
しかも大烏はそれを僕に隠していた。
「すると絶好の場所があるではないか」
この後、
大烏の口から何が語られるのか
僕は急に恐ろしくなった。
「わからないかね?
君の自宅の斜め向かいにある
『葉隠荘』だよ。
1階部分はアパートを囲む壁が邪魔になるが、
2階の部屋なら君の自宅の入り口も丸見えだ。
このアパートのもう1つ優秀なところは、
各部屋の入り口が君の自宅前の道路とは
反対側にあるということだ。
この人物は部屋に入るところを
君に目撃される心配がない。
さらにアパートを出て裏の小道を通れば、
君の自宅の前を通ることなく
大通りまで出られるのだ。
私は2階の3部屋に目を付けた。
そしてある朝。
部屋から出てきた人物を見て驚いたよ。
運命の女神がふたたび私に微笑んだのだ」
大烏が笑っているのがわかった。
ふいに鳩尾辺りに込み上げてくる不快感に
僕は慌てて口元を押さえた。
その時。
一陣の風が吹いた。
大烏が慌てて頭のハットに手を添えた。
「ま、まさかその人物は・・」
そして僕は恐る恐るその名前を口にした。




