第四話:カフェでの『取材』と、秘めたる弱点
あの雨の日の相合傘は、私の心に、予想以上の大きな波紋を残していった。一つ傘の下で感じた、航くんとの近すぎる距離、彼の匂い、不意に触れた肩の感触……。それらは、まるでスローモーションのように、何度も頭の中でリフレインされ、その度に私の心臓を不規則に跳ねさせた。「可愛い弟分」だと思っていたはずの彼を、明らかに「異性」として意識してしまっている自分。その事実に気づいてしまった以上、もう以前と同じような、純粋に「頼れるお姉さん」の気持ちで彼に接することは難しくなっていた。
(……どうしよう。これから、どうやって航くんに接すればいいんだろう……)
平静を装いながらも、内心ではそんな戸惑いを抱える日々。彼からのメッセージが届くたびにドキリとし、返信する文面にも、以前よりずっと気を遣うようになった。彼の書く小説のヒロイン(=明らかに私モデルの弥生(仮))の描写に一喜一憂し、主人公との関係が進展すると、まるで自分のことのように頬を赤らめてしまう始末。完全に、どうかしている。私は、ただのアドバイス役のはずなのに。
そんな私の内心の嵐など露知らず、航くんは、相変わらず真っ直ぐに、そしてマイペースに、創作活動に打ち込んでいるようだった。私が送ったアドバイス――特に「ヒロインのギャップ」に関する部分――が、彼の琴線に触れたらしい。
『弥生さん! アドバイス、本当にありがとうございます! ヒロインにギャップ……なるほど!と思いました! 確かに、ただ綺麗なだけじゃなくて、意外な一面があった方が、人間味があって魅力的ですよね!』
『それで、早速なんですけど……その「ギャップ」について、もう少し具体的に考えてみたくて……』
スマホに届いたメッセージ。ここまでは、いつもの彼らしい、真面目で熱心な相談だ。
『それで……大変恐縮なのですが……』
ん? なんだか、いつも以上に、前置きが長いような……?
『弥生さんご自身の……苦手なこととか、コンプレックスとか、あるいは、人にはあまり言えないような、意外な一面とか……そういうのを、もし、もし差し支えなければ……「取材」させていただけないでしょうか……?』
……は?
いま、なんて……?
私の、苦手なこと? コンプレックス? 意外な一面?
それを、取材……?
私は、スマホの画面を二度見、三度見した。誤字ではない。彼は、確かにそう書いている。
これは……いくらなんでも、踏み込みすぎじゃないだろうか!?
(ちょ、ちょっと待って、航くん!? それは、いくらなんでもデリカシーなさすぎでは!?)
心の中で、盛大なツッコミを入れる。
いくら「取材」のためとはいえ、まだ出会って間もない、しかも年上の女性に対して、そんなプライベートな、しかもネガティブな部分を、真正面から聞いてくるなんて! 普通なら、警戒されて当然だ。
(……でも、彼に限って、悪気はないんだろうな……。純粋に、小説を良くしたいだけなんだろうな…)
すぐに、そう思い直す。彼は、そういう子なのだ。真っ直ぐで、不器用で、少しだけズレている。その純粋さが、彼の魅力でもあるのだけれど。ヒロインを魅力的に描くために、リアルな「ギャップ」の情報が欲しい。そのための「取材」として、一番身近で、かつ「頼れるお姉さん」である私に、頼ってきた。おそらく、そこに他意はない。そう信じたい。
(……だとしても、よ……!)
それにしても、ストレートすぎる。もう少し、言葉を選んでほしかった、というのが本音だ。
(……で、どうしよう? この無茶な『取材』依頼)
正直に言って、抵抗はある。方向音痴なことも、怖がりなことも、料理でのうっかりミスも……どれも、できれば隠しておきたい、私の「ポンコツ」な部分だ。彼の中で美化されているかもしれない「完璧なお姉さん」像を、自ら壊してしまうことになるかもしれない。幻滅されたら……嫌だな、と思う。
でも……。
彼が、そこまで真剣に、私の力を必要としてくれている。彼の夢を応援すると決めたのだ。ここで私が協力を渋るのは、違う気がする。それに、彼が「ギャップ」のある魅力的なヒロインを描けるようになれば、彼の小説はきっともっと面白くなる。それは、私にとっても嬉しいことだ。
そして……何よりも。
彼に、私の「本当の姿」を、少しだけ、知ってほしい、という気持ちが、心のどこかにある。完璧じゃない、ダメな部分もたくさんある、等身大の私を、彼がどう受け止めてくれるのか……それを、確かめてみたい、という好奇心。
(……よし。決めた。腹を括ろう。ただし、ちょっとだけ、条件付きで)
私は、深呼吸を一つして、返信メッセージを打ち始めた。
『航くん、こんにちは! 取材依頼、ありがとう(^-^)』
まずは、依頼自体は受け入れる姿勢を見せる。
『ヒロインのギャップ、かぁ。確かに、そういうのがあると、キャラクターが魅力的になるよね。難しいテーマだけど、すごく大事なことだと思う! 航くん、ちゃんと考えてて偉いね!』
彼の着眼点を褒めつつ、共感を示す。
『それで、私の苦手なこととか、意外な一面、ねぇ……(笑) うーん、航くんがガッカリしない程度のものなら、少しはお話しできるかな……?』
少しだけ、含みを持たせる。全部を正直に話すとは限らないよ、という牽制も込めて。
『でも、いきなりメッセージで詳しく話すのも、なんだか味気ないし、ちょっと恥ずかしいから……』
『もしよかったら、今度、カフェかどこかで、ゆっくりお茶でも飲みながら、話さない? その方が、落ち着いて話せると思うんだ』
二人きりで会う流れを作る。これは、もはや下心というより、大事な話をするための、自然な提案だと思いたい。
『もちろん、これも「取材」ってことで!(笑) どうかな?』
最後に、冗談めかして、彼に判断を委ねる。
送信。
……さて、彼はどう出るか。カフェでの「取材」という、少しだけハードルの上がる提案。乗ってくるだろうか。
返信は、やはり驚くほど早かった。
『本当ですか!? ありがとうございます!!』
相変わらずの感嘆符の多さ。
『カフェ! いいですね! 是非お願いします! 弥生さんとお茶できるなんて、嬉しいです! あ、いや、しっかり取材させていただきたいという意味です!』
……バレバレだってば、航くん。でも、その分かりやすさが、今は少しだけ愛おしい。
『それで、カフェなんですけど……以前、弥生さんがメッセージで教えてくれた、図書館の近くの「カフェ 木漏れ日」っていうお店、どうですか? 俺も、一度行ってみたかったんです!』
お、ちゃんと覚えていてくれたんだ。私が以前、「雰囲気が良さそう」と話したカフェのこと。なんだか、それだけで少し嬉しい。
『うん、木漏れ日さんね! いいね、そこにしようか! じゃあ、今度の土曜日の午後二時に、お店の前で待ち合わせでどうかな?』
『はい! 大丈夫です! 楽しみにしてます! 取材!』
最後まで「取材」を強調するところは、もう彼の様式美みたいなものなのだろう。
こうして、私と航くんの、二度目の「取材」という名の、今度はカフェ「木漏れ日」での密会(?)の約束が、再びあっけなく決まったのだった。
*
そして迎えた、土曜日の午後。
私は、約束の時間少し前に、「カフェ 木漏れ日」の前に到着した。レンガ造りの壁に緑の蔦が優雅に絡まり、丸い窓には白いレースのカーテンがかかっている。想像していた通り、落ち着いた、素敵な雰囲気のカフェだ。ドアの横に置かれた小さな黒板には、「本日のケーキ:ベイクドチーズケーキ」とチョークで書かれていた。チーズケーキ、大好きだ。期待が高まる。
ほどなくして、航くんが少し息を切らせながらやってきた。やはり、約束の時間より少し早い。真面目だなあ。
「はぁ…はぁ…すみません、弥生さん! お待たせしました!」
「ううん、大丈夫だよ。私も今来たとこだから」
今日の彼は、白いシンプルなシャツに、濃い色のデニム。前回よりさらにラフな格好だけれど、それがかえって彼の素朴な魅力を引き立てているように見えた。少しだけ伸びた前髪が、目にかかりそうになっている。
「さ、入ろっか」
私がドアを開けると、カランコロン、と優しいドアベルの音が響いた。
店内は、外観のイメージ通り、木の温もりを感じさせる、居心地の良い空間だった。壁には風景画が飾られ、使い込まれたアンティーク調のテーブルと椅子が並んでいる。窓際の席からは、午後の柔らかな日差しが差し込み、床に木漏れ日のような模様を描いていた。静かに流れるボサノヴァのBGMも心地よい。
私たちは、窓際の二人掛けのテーブル席に案内された。
メニューを開くと、コーヒーや紅茶の種類が豊富で、どれもこだわりが感じられる。そして、黒板にあった通り、手作りのケーキやスコーンも数種類用意されていた。
「どうしようかな……やっぱり、チーズケーキかな……でも、スコーンも美味しそう……」
真剣な表情でメニューとにらめっこする。こういう時、優柔不断なところが出てしまうのが私の悪い癖だ。
「俺は……ブレンドコーヒーをお願いします」
航くんは、やはり迷いなく決めたようだ。
「えー、航くんはケーキはいいの?」
「あ、はい。俺は……その、大丈夫です」
やはり、甘いものはあまり得意ではないのかもしれない。あるいは、私の前で食べるのが恥ずかしいのだろうか?
「そっか。じゃあ、私はブレンドコーヒーと、ベイクドチーズケーキをお願いします」
結局、私は初志貫徹でチーズケーキを選んだ。彼の前で、少しだけ食いしん坊な本性を晒してしまうことになるけれど、仕方ない。美味しいものには逆らえないのだ。
注文を終え、店員さんが下がると、いよいよ本題に入る雰囲気になる。航くんが、ごくりと唾を飲み込み、緊張した面持ちで口を開いた。
「あの……弥生さん。今日は、貴重なお時間をいただいて、本当にありがとうございます」
改まって、丁寧にお礼を言ってくる。こういう真面目なところが、彼らしい。
「ううん、どういたしまして。私の方こそ、美味しいケーキが食べられそうで嬉しいよ。……それで、『取材』だったわね?」
少しだけ、悪戯っぽく笑いかけてみる。
「は、はい! そうです! 取材です!」
彼は、慌てて背筋を伸ばした。分かりやすい。
「それで……その……本当に、聞きにくいことだとは思うんですけど……弥生さんの、苦手なこととか……コンプレックスとか……」
やはり、この質問をするのは、彼にとっても勇気がいることなのだろう。声が、少しだけ震えている。
「……ふふ。大丈夫だって。そんなに面白い話はないと思うけど……まあ、航くんの小説のためなら、少しだけ、私の秘密を教えてあげようかな」
私は、できるだけ軽い口調で、彼を安心させるように言った。
まずは、一番当たり障りのない(そして、彼も少しは知っているかもしれない)ネタから。
「実はね……私、ものすごく方向音痴なんだよね」
「ええっ!? やっぱりそうなんですか!?」
航くんが、目を丸くして驚いている。どうやら、彼の中でも、私は「しっかり者」のイメージが強かったらしい。そのギャップが、彼には新鮮に映るのだろう。
「そうなの。自慢じゃないけど、地図アプリを使っても迷子になれる自信があるくらい。ナビがあっても、なぜか逆方向に進んじゃったり……。友達との待ち合わせで遅刻しちゃうことも、しょっちゅうで……」
少しだけ、自虐的に笑いながら話す。
「……意外です……。でも、なんだか……ちょっと、可愛いです」
彼は、ぽそりと、そんなことを呟いた。
「え? か、可愛い……?」
思わぬ言葉に、今度は私の方がドキリとしてしまう。方向音痴が、可愛い? よく分からないけれど、悪い気はしない。むしろ、嬉しい。
「あとはね……これは、本当に恥ずかしいんだけど……」
私は、少しだけ声を潜めて続けた。
「……ホラーとか、お化けとか、そういうのが、もう、本当にダメなんだよね……」
「え、そうなんですか? 弥生さん、肝が据わってそうですのに」
「全然! 見かけ倒しだよ! 映画とかで、ちょっと怖いシーンが流れるだけで、反射的に目をつぶっちゃうし、物音にもすぐビクッとしちゃうし……。お化け屋敷なんてもってのほか! 多分、入り口で泣き崩れると思う……」
これは、私の長年のコンプレックスでもある。友人たちからは、いつも「弥生って、意外と怖がりだよねー」と笑われるのだ。
「……へえ……。それも、なんだか、意外ですね……。でも、そういうの、守ってあげたくなっちゃうかもしれませんね、男としては」
航くんが、またしても、さらりと爆弾発言を投下してきた。
「ま、守ってあげたい……!?」
顔が、カッと熱くなる。もう、彼の言葉一つ一つに、いちいち反応してしまう自分が嫌になる。でも、止められない。
「あ、い、いや! その、主人公が、ですけど! ヒロインが怖がってたら、主人公としては、守ってあげなきゃって思うかなって……!」
またしても、必死で言い訳している。その慌てぶりが、ますます私の心をかき乱す。
(……この子、本当に天然なの? それとも、無自覚な確信犯……?)
どちらにしても、心臓に悪いことには変わりない。
その後も、私は、料理でのうっかりミス(卵焼きを焦がすのは得意技だ)、可愛いぬいぐるみへの異常な執着、感動映画での号泣癖など、自分の「ダメな部分」を、少しずつ、彼に打ち明けていった。
話しているうちに、不思議と、恥ずかしさよりも、むしろ楽しさの方が大きくなっていた。彼が、私の話を、驚きながらも、興味深そうに、そして何より、温かい眼差しで聞いてくれるからだ。決して、馬鹿にしたり、引いたりするような素振りは見せない。
「……ふう。なんだか、自分の恥ずかしいところばっかり話しちゃったな。……航くん、本当に、引かなかった?」
一通り話し終えて、私は改めて尋ねた。
すると、彼は、きっぱりとした、そして、とても真剣な表情で言った。
「引くなんて、とんでもないです! むしろ……」
彼は、少しだけ言葉を選びながら、続けた。
「……そういう、完璧じゃない部分も含めて……弥生さんのこと、もっと知りたいなって、思いました」
もっと、知りたい。
その言葉が、すとん、と私の胸の奥に落ちた。
彼は、私の弱点やダメな部分を知っても、幻滅しなかった。それどころか、もっと知りたいと、言ってくれたのだ。
(……嬉しい……)
心の底から、そう思った。
彼になら、もっと、本当の自分を見せてもいいのかもしれない。
無理に「完璧なお姉さん」を演じなくても、彼は、そのままの私を受け入れてくれるのかもしれない。
そんな、温かくて、確かな信頼感が、私と彼の間に芽生え始めているのを感じた。
ちょうどその時、注文したコーヒーと、待ちに待ったベイクドチーズケーキが運ばれてきた。
目の前に置かれた、黄金色に輝く美しいケーキ。甘く香ばしい香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「わあ、美味しそう!」
私のテンションは、最高潮に達した。さっきまでの、少しだけシリアスだった空気は、もうどこかへ消え去っていた。
「いただきます!」
元気よく手を合わせ、早速フォークを入れる。しっとりとして、濃厚で、クリーミー。甘さもちょうどよくて、口の中でとろけるようだ。まさに、至福の味。
「んー! 最高に美味しい!」
目を閉じて、その幸福感を噛みしめる。
ふと顔を上げると、航くんが、またしても、そんな私を、とても優しい、慈しむような目で見つめていた。
「……え? な、なに? そんなに見られると、食べにくいんだけど……」
その視線に、ドキドキしながらも、少しだけ拗ねたように言ってみる。
すると、彼は、はっとしたように視線を逸らし、「あ、す、すみません! あまりにも、美味しそうに召し上がるので……つい……」と、顔を真っ赤にして弁解した。
(……もう! 本当に、この子は……!)
彼の、その純粋で、不器用で、そして、時折見せる、どうしようもなく心を掴んでくるような表情と言葉。
それに、私は、もう完全に、心を奪われてしまっているのだ。
これは、やっぱり、ただの「取材」なんかじゃない。
これは、間違いなく……。
私は、自分の気持ちの正体から、もう目を背けることはできないと、はっきりと自覚した。
そして、その自覚は、喜びと同時に、新たな戸惑いと、そして、これから始まるであろう物語への、甘美な予感をもたらすのだった。
カフェの窓から差し込む、午後の柔らかな光の中で、私は、目の前にいる愛すべき年下の男の子と、自分の心の中に芽生えた確かな想いを、ゆっくりと、大切に、噛みしめていた。