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第三話:雨の日のドキドキは、計算外

航くんに、彼の書きかけの小説への感想と、少しだけ踏み込んだアドバイスを送ってから、数日が過ぎた。私のメッセージは、彼にとってどう響いたのだろうか。お節介すぎたのではないか、気を悪くさせてしまったのではないか……そんな不安が、心の片隅でくすぶっていた。彼からの返信はまだなかった。


(……やっぱり、余計なこと、言いすぎたかな……)


特に、ヒロインの「ギャップ」について、自分の弱点を例に出してしまったこと。あれは、少しやりすぎだったかもしれない。「私をモデルにして」と暗に示唆しているように受け取られても仕方がない。もし彼がそれに気づいて、気まずく感じてしまったとしたら……。


考え始めると、どんどんネガティブな方向に思考が向かってしまう。私って、意外と心配性なんだな、と改めて思う。いつも友人たちには「弥生は落ち着いてるよね」なんて言われるけれど、内面は結構、あたふたしているのだ。特に、航くんのこととなると、なんだか妙に、心がざわつく。


(……いやいや、彼は可愛い弟分、みたいなものなんだから。私がそんなに気にする必要ないわよね)


そう自分に言い聞かせ、無理やり思考を切り替えようとした、その時だった。

スマホが、ピコン、と軽快な音を立ててメッセージの着信を告げた。

画面を見ると、「日野航」の名前。


(……きた!)


心臓が、どきりと跳ねた。慌ててメッセージを開く。


『弥生さん! 先日は、本当にありがとうございました!!』

冒頭から、感嘆符が二つも付いている。かなり興奮しているようだ。


『いただいたアドバイス、めちゃくちゃ的確で、目から鱗が落ちる思いでした! 特に、感情描写の具体例と、ヒロインのギャップの話……! なるほど!って、思わず声が出ちゃいました!』

『俺、全然そういうこと考えられてませんでした……。ただ、綺麗で優しいお姉さん、っていうだけで……。それではダメなんですね!』

『弥生さんのアドバイスのおかげで、次に何をすべきか、はっきりと見えた気がします! 本当に、ありがとうございます!』


……良かった。

気を悪くしたわけではなかったようだ。むしろ、すごく前向きに受け止めてくれている。

ほっと胸を撫で下ろすと同時に、彼の素直さと熱意に、またしても心が温かくなるのを感じた。


(……でも、私がモデルかも、ってことには気づいてないみたいね)


方向音痴とか、怖がりとか、具体的な例を挙げたにも関わらず、その点には全く触れてこない。さすが、航くん。恋愛方面のアンテナは、全く立っていないらしい。少しだけ、拍子抜けしたような、でも、それで良かったような、複雑な気持ち。


『どういたしまして! 少しでも航くんの役に立てたなら嬉しいな(^-^)』

『でも、あくまで私の意見だからね。一番大事なのは、航くん自身がどう描きたいか、だから』

私は、そう返信した。彼が、私の意見に縛られすぎないように、という配慮からだ。


『はい! 分かってます! でも、弥生さんのアドバイスは、本当に大きなヒントになりました! これから、もっとヒロインを魅力的に描けるように、頑張ります!』

力強い決意表明。彼の言葉からは、スランプを抜け出しつつあるような、前向きなエネルギーが感じられた。


(良かった。これで、また彼の物語が進むのね)


なんだか、自分のことのように嬉しい。彼の才能が、これからどんな花を咲かせるのか、ますます楽しみになってきた。


そのメッセージのやり取りから、さらに数日後のことだった。

その日は、朝から空がどんよりと曇り、天気予報は午後から雨、となっていた。大学の講義が終わり、私はいつものように図書館へ向かおうとしていた。折り畳み傘は、もちろんバッグの中に入っている。こういう日の備えは、怠らないタイプなのだ、私。


図書館へ向かう道を歩いていると、スマホに航くんからメッセージが届いた。


『弥生さん、こんにちは! 今、ちょっといいですか? 小説のことで、また相談したいことがあるんですけど……』

また相談? 今度は何だろう。告白シーンのことかな? いや、それにはまだ早いか。


『こんにちは、航くん! 大丈夫だよ。どうしたの?』

『ありがとうございます! あの、今、雨の日のシーンを考えてるんですけど……』

雨の日、ね。彼らの出会いのきっかけになった、重要なモチーフだ。


『それで、思ったんですけど……ラブコメの王道として、やっぱり「相合傘」って外せないかなって思うんです。でも、実際に相合傘をする時って、どんな雰囲気なんですかね? やっぱり、ドキドキするものなんですか? 肩とか、触れ合っちゃったりするんですかね?』


……相合傘。

またしても、彼は、無邪気に(そして無自覚に)核心を突いてくる。

確かに、ラブコメの王道だ。そして、読者がキュンとする、鉄板のシチュエーションでもある。


『ふふ、相合傘ね。確かに、王道だよね』

私は、少しだけ笑いを堪えながら返信する。

『そうだねえ……。相手にもよると思うけど、やっぱり、距離が近くなるから、ドキドキはするんじゃないかな? 肩が触れ合うことも、もちろんあると思うよ。風が吹いたりしたら、もっとくっついちゃうかもね?』

できるだけ、客観的に、一般論として答える。自分の経験……というか、妄想を少しだけ織り交ぜながら。


『なるほど……! やっぱりドキドキするんですね! 風! そうか、風を使えば、自然に距離を縮められる……! メモメモ……』

……メモ。またメモしてる。この子は、本当に……。

でも、その真面目さが、彼の良いところでもあるのだろう。


『ありがとうございます、弥生さん! すごく参考になりました! これで、いいシーンが書けそうです!』

『どういたしまして! 頑張ってね(^-^)』


これで、相談は終わりかな? と思った、その時。

ポツリ、ポツリと、冷たいものが頬に当たり始めた。

見上げると、灰色の空から、雨粒が落ちてきている。天気予報通りだ。


(あ、降り始めちゃった)


まあ、傘はあるから大丈夫だけど。図書館まで、まだ少し距離があるな……。

そう思った瞬間、スマホが再び震えた。航くんからだ。


『弥生さん! 雨、降ってきましたね!』

『はい、大丈夫ですか?』

『俺、ちょうど今、図書館の前にいるんですけど……もし、弥生さんがまだだったら……』

『……傘、お持ちじゃなかったり……しますか……?』


……え?

私が、傘を持っていない、と?

そんなわけないじゃない。私は、用意周到な女なのよ?


『ううん、大丈夫だよ。ちゃんと傘、持ってるから(^-^) 心配してくれてありがとうね』

そう返信しようとして……ふと、指が止まった。


(……待てよ?)


彼は今、図書館の前にいる。そして、傘を持っている(多分)。

私は、これから図書館へ向かう。そして、雨が降っている。

もし、私が「傘を持っていない」と言ったら……?


彼は、きっと、こう言うだろう。

「じゃあ、俺の傘に入ってください!」と。


それは……つまり……?


(……相合傘……!?)


さっき、メッセージで話していたばかりの、あのシチュエーションが、現実に起こる……?

しかも、今度は、彼が傘を差し出す側で?


(……ど、どうしよう……!)


心臓が、急にドキドキと音を立て始める。

嘘をつくのは、気が引ける。でも……でも……!

彼と、相合傘ができるチャンス……?

いや、これはチャンスじゃない。これは、「取材」だ! そう、航くんの小説のための、実践的な取材!


(……よし!)


ほんの一瞬の葛藤の後、私は、悪戯心が勝ってしまった。


『……ううん、実は……今日に限って、傘、忘れちゃったみたい……(>_<) どうしよう……』

嘘をついた。人生で、初めてかもしれない、こんな可愛らしい嘘を。


すぐに、彼からの返信が来た。その文面は、明らかに、安堵と、そしてほんの少しの興奮が入り混じっているように見えた。


『えっ、本当ですか!? じゃあ、大変じゃないですか!』

『あの……もし、よかったら、ですけど……』

『俺の傘に、入っていきませんか……?』


……やっぱり!

思った通りの反応!

計画通り、というべきか。


私は、スマホの画面を見ながら、一人で顔がにやけてしまうのを抑えきれなかった。

年下の男の子を、少しだけ手玉に取っているような、そんな優越感と、そして、これから起こるであろう出来事への、期待感。


『え? いいの? でも、悪いよ……』

わざと、少しだけ遠慮するような返信を送る。こういう駆け引きも、たまには悪くない。


『全然、悪くないです! 当然ですよ! 俺、ここで待ってますから!』

彼は、必死な感じで返してきた。可愛い。


『……じゃあ、お言葉に甘えようかな。ありがとう、航くん』

私は、そう返信すると、スマホをバッグにしまい、図書館へと続く道を、少しだけ速足で歩き始めた。雨は、いつの間にか、ザーザーという本降りになっている。


図書館の入り口が見えてきた。

ガラス張りの向こうに、傘を差して、そわそわと落ち着かない様子で待っている、航くんの姿が見える。なんだか、待ち合わせ場所に早く着きすぎてしまった、健気な彼氏みたいだ。


(……彼氏、ねぇ……)


その言葉が、ふと胸をよぎり、また心臓がドキッとする。

違う違う。彼は、可愛い弟分で、相談相手で……そして、今は、ちょっとした悪戯のターゲット。それだけだ。


私は、平静を装い、できるだけ自然な笑顔を作って、彼の元へと駆け寄った。

「航くん、ごめんね、待たせちゃった?」

「あ、弥生さん! いえ、全然! それより、大丈夫ですか? 濡れませんでした?」

彼は、慌てた様子で、持っていた紺色の長傘を、さっと私の方へと差し出した。その傘は、少し大きめで、シンプルだけど、なんだか彼に似合っている気がした。


「ありがとう。大丈夫だよ。……じゃあ、お言葉に甘えて」

私は、にっこりと微笑んで、彼の傘の中へと、そっと身を寄せた。


途端に、ふわりと、彼から香る、清潔な石鹸のような、若い男の子特有の匂いが鼻腔をくすぐった。

近い。

想像していた以上に、距離が近い。

肩と肩が、触れ合うか触れ合わないかの、ぎりぎりの距離。

彼の体温が、すぐ隣に感じられる。


(……うわ……)


思わず、息を呑んだ。

心臓が、ドクン、ドクンと、早鐘のように鳴り始めるのが、自分でも分かる。顔が、熱い。絶対に、赤くなっている。


(……ま、まずい……! 完全に、計算外……!)


相合傘なんて、ラブコメの中だけの、都合のいいシチュエーションだと思っていた。実際にやってみたら、こんなにも……こんなにも、心臓に悪いなんて!


隣を見ると、航くんも、ガチガチに緊張しているのが分かった。視線はあらぬ方向を向き、傘を持つ手が、微かに震えている。その初々しい反応が、また、私の心をかき乱す。


(……だ、ダメだ、落ち着け、私! 私は、頼れるお姉さんなんだから! しっかりしないと!)


必死で、平静を装おうとする。笑顔、笑顔……。

「……なんか、変な感じだね」

なんとか、声を絞り出す。

「え?」

「だって、ほら。出会った時と、逆じゃない?」

彼は、はっとしたように頷いた。

「あ……確かに、そうですね」


「あの時も、ドキドキしたけど……。今も、結構ドキドキしてるかも」

思わず、本音が漏れてしまった。しまった、と思ったが、もう遅い。顔が、さらに熱くなるのを感じる。俯いて、彼の反応を窺う。


彼は……固まっていた。完全に。

そして、次の瞬間、ぼん、と音が聞こえそうな勢いで、顔を真っ赤にした。


(……あ、可愛い……)


彼の、あまりにも分かりやすい反応に、私の緊張も、少しだけ解けたような気がした。そして、同時に、愛おしさが込み上げてくる。


(……いかんいかん。私は、お姉さんなんだから)


気を取り直して、私は、できるだけ穏やかな声で言った。

「……とりあえず、どこか、雨宿りできる場所、探さない? このままだと、風邪ひいちゃうかも」

実際、雨はかなり強く、傘を差していても、足元や肩が少し濡れてきていた。


「……あ、は、はい! そうですね!」

航くんは、まだ赤くなった顔のまま、慌てて頷いた。


「じゃあ、行こっか」

私は、彼の腕に、ほんの少しだけ、自分の腕を絡ませるようにして、歩き出した。彼が、またビクッと体を震わせたのが分かったけれど、気づかないフリをした。


これは、取材。そう、あくまで、取材なのだ。

ラブコメに必要不可欠な、ドキドキする相合傘シーンの、実践的な取材。

決して、私が、この状況を楽しんでいるわけでは……。


(……いや、楽しんでるな、私)


心の中で、正直に認めるしかなかった。

雨音と、彼の存在と、そして、自分の高鳴る鼓動。その全てが、なんだかとても、心地よかったのだから。

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