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最終話(第二十話):私たちのラブコメはこれから

始まったばかりの恋人としての時間は、まるで夢のように過ぎていった。航くんと過ごす日々は、驚きと、戸惑いと、そして何よりも、今まで感じたことのないような深い幸福感に満ちていた。年の差なんて些細なことだと思えるくらい、私たちは互いを理解し合い、支え合い、そして、不器用ながらも確かな愛情を育んでいた。


彼の真っ直ぐな優しさ、小説にかける情熱、時折見せる少年のような笑顔、そして、私だけに見せてくれる少しだけ頼りない素顔。その全てが、私の心を掴んで離さない。私もまた、彼の影響を受けて、少しずつだけれど、「完璧なお姉さん」の仮面を脱ぎ捨て、素直な自分を見せられるようになっていた。ドジを踏んでは彼に笑われ、怖いものを見ては彼の腕にしがみつき、そして、嬉しい時には子供のようにはしゃいでしまう。そんな、ありのままの私を、彼はいつも、優しい眼差しで受け止めてくれた。


もちろん、不安が全くなくなったわけではない。彼の夢、私の進路、そして二人の未来。考え始めればキリがないほどの不確定要素が、私たちの前には横たわっている。でも、繋いだ手の温もりと、隣で微笑む彼の存在が、私に前を向く勇気をくれるのだ。二人でいれば、きっとどんなことでも乗り越えていけると、そう信じられるようになっていた。


季節は、夏から秋へと移り変わり、木々が少しずつ色づき始めていた。私の卒論も、航くんの小説も、それぞれ佳境を迎え、互いに忙しいながらも、励まし合いながらそれぞれの目標に向かっていた。特に、航くんの集中力は凄まじく、彼はまさに寝る間も惜しんで、最後の仕上げに没頭しているようだった。


そして、ある秋晴れの日の午後。

私のスマホに、彼から一通のメッセージが届いた。


『弥生さん……! やっと……やっと、完成しました……!』


その短い文面には、感嘆符と共に、彼の達成感と、そして深い安堵感が滲み出ているようだった。

ついに、彼が、あの苦悩と葛藤の末に、最後まで書き上げたのだ。彼の、初めての長編ラブコメ小説を。


『航くん! 本当に!? おめでとう!! すごいよ! 本当によく頑張ったね!!』

私は、自分のことのように嬉しくて、興奮気味に返信した。彼の努力を知っているからこそ、その喜びはひとしおだった。


『ありがとうございます! これも全部、弥生さんが応援してくれたおかげです!』

『それで……あの、完成した小説、ウェブサイトに投稿してみようと思うんです』


ウェブサイトに、投稿……!

それは、彼にとって、大きな一歩だ。自分の作品を、不特定多数の読者に向けて公開するということ。それは、喜びであると同時に、大きな勇気が必要なことだろう。


『すごい! いいと思う! 航くんの物語、きっとたくさんの人に読んでもらえるよ!』

私は、心からのエールを送った。


『……そうだと、嬉しいんですけど……。正直、自信はないです……』

彼は、やはり少し弱気なようだ。

『でも、俺、決めたんです。この物語を、世に出したいって。……弥生さんに、読んでもらいたいって』


弥生さんに、読んでもらいたい。

その言葉が、私の胸を強く打った。

彼は、私のために、この物語を書き上げた、と言ってくれているのだ。


『……それで、タイトルなんですけど……』

彼は続けた。

『……『ラブコメを書きたい』にしようと思うんです』


ラブコメを書きたい――。

それは、彼が、私に初めて打ち明けてくれた、彼の夢の原点。そして、私たちの出会いのきっかけとなった、あの言葉。

なんて、彼らしい、真っ直ぐで、そして素敵なタイトルだろうか。


『……うん。すごく、いいタイトルだと思う。……航くんの、想いが詰まってる』

私は、胸に込み上げてくる熱いものを感じながら、そう返信した。


その日の夜、彼は、約束通り、完成した小説『ラブコメを書きたい』を、とあるウェブ小説投稿サイトにアップロードした。そして、その作品ページのURLを、一番に私に送ってくれたのだ。


『弥生さん。……読んで、くれますか?』


そのメッセージには、彼の緊張と、期待と、そしてほんの少しの不安が滲んでいた。


『もちろん。……読ませて。航くんの、大切な物語を』


私は、深呼吸を一つして、送られてきたURLをタップした。

画面に表示された、見慣れないウェブサイト。そして、そこに静かに佇む、『ラブコメを書きたい』というタイトルと、「月見航路」という彼のペンネーム。


これから、私は、彼の全てが詰まった物語を読むのだ。

そして、それは、私たちの物語でもあるのだ。

期待と、緊張と、そして、ほんの少しの怖さ。様々な感情が入り混じりながら、私は、第一話の「続きを読む」ボタンを、ゆっくりとクリックした。



読み始めて、すぐに、私は物語の世界に引き込まれた。

主人公の、恋愛経験ゼロゆえの悩みと葛藤。それは、まさに出会った頃の航くんそのもので、思わずくすりと笑ってしまう。そして、ヒロインの弥生(仮)との、雨の日のバス停での、少しぎこちない出会い。あの時の、彼の緊張と、私の戸惑いが、鮮やかに蘇ってくる。


物語は、彼が私に読ませてくれた断片的なシーンを繋ぎ合わせ、さらに豊かな描写と、深い心理描写を加えて、一つの大きな流れとなっていた。

メッセージでのやり取り。カフェでの「取材」。遊園地での、数々のドキドキする出来事。夏祭りの夜の、すれ違いと、繋がれた手の温もり。


それは、紛れもなく、私たちが一緒に歩んできた軌跡そのものだった。

航くんの視点から描かれる私は、やはり少し美化されている部分もあったけれど、それ以上に、私の弱さや、ドジなところ、怖がりなところ、そして、彼への想いに揺れ動く複雑な心情が、驚くほど繊細に、そして愛情深く描かれていたのだ。


『彼女の笑顔は、太陽のようだと思った。でも、時折見せる、雨上がりの空のような、翳りのある表情も、どうしようもなく惹かれた』

『完璧に見える彼女が、時折見せるドジな一面。そのギャップに、彼は完全に心を奪われていた』

『年上の彼女に、追いつきたい。隣に立つにふさわしい男になりたい。その一心で、彼は必死に背伸びをしていた』


彼の言葉で紡がれる「私」は、私が自分で思っている以上に、魅力的で、愛おしい存在として描かれていた。そして、主人公である「彼」の、不器用で、真っ直ぐで、そして切実な想いが、痛いほど伝わってくる。


読み進めるうちに、私の目からは、自然と涙が溢れていた。

それは、悲しみの涙ではない。

共感と、感動と、そして、彼への愛しさが込み上げてきて、どうしようもなく溢れ出してくる、温かい涙だった。


そして、物語は、ついにクライマックスの告白シーンへとたどり着く。

主人公が、幾多の葛藤と恐怖を乗り越え、勇気を振り絞って、ヒロインに想いを告げる場面。

雨上がりの公園。夕暮れの光。震える声。真っ直ぐな瞳。

それは、まさに、あの日の、私たち自身の姿そのものだった。


『「好きです」――その言葉は、彼のありったけの想いだった。』

『彼女の瞳から、涙が零れ落ちた。それは、喜びと安堵と、そして愛しさが入り混じった、温かい涙だった。』

『「はい」――彼女の返事は、世界で一番美しい響きを持っていた。』


……ダメだ。もう、涙が止まらない。

嗚咽が漏れるのを、必死で堪える。

彼は、あの日の出来事を、私たちの気持ちを、こんなにも鮮やかに、こんなにも感動的に、描き出してくれたのだ。


そして、物語は、エピローグへと続く。

結ばれた二人が、恋人として、新たな一歩を踏み出す、希望に満ちた未来。

そこには、もう、年の差への不安や、自信のなさにとらわれる姿はない。互いを信じ、支え合い、共に未来を歩んでいこうとする、確かな絆が描かれていた。


『僕らのラブコメは、まだ始まったばかりだ。きっと、これからも、たくさんのドキドキと、笑顔と、そして時には涙もあるだろう。でも、隣に君がいてくれるなら、どんな物語だって、最高のハッピーエンドにしてみせる。そう、心に誓った――。』


読み終えた時、私は、深い感動と、そして、胸がいっぱいになるほどの幸福感に包まれていた。

素晴らしい物語だった。

今まで読んだ、どんなラブコメよりも、一番、私の心を揺さぶった。


それは、単に、私たちがモデルになっているから、というだけではない。

彼の、正直な言葉と、真摯な想いが、確かにそこにあったからだ。

彼は、自分の弱さや葛藤から逃げずに、ちゃんと向き合い、そしてそれを、物語の力へと昇華させたのだ。


(……航くん、本当に、すごいよ……)


私は、スマホを握りしめたまま、しばらくの間、動けなかった。

涙でぐしゃぐしゃになった顔を、誰にも見られたくなかった、というのもあるけれど。

ただ、この感動を、もう少しだけ、一人で噛みしめていたかったのだ。


やがて、少しだけ落ち着きを取り戻した私は、震える指で、彼へのメッセージを打ち始めた。

伝えたい言葉は、たくさんあった。でも、うまくまとまらない。

ただ、これだけは、伝えなければならないと思った。


『航くん……読んだよ……』

『もう……言葉にならないくらい……感動した……。涙が、止まらなかった……』

『今まで読んだ中で、一番、最高のラブコメだった……!』

『本当に、本当に、ありがとう……!』

『こんなに素敵な物語を、生み出してくれて、ありがとう』

『そして……私を、こんなにも素敵に描いてくれて……ヒロインにしてくれて、ありがとう……!』


送信ボタンを押す。

すぐに既読がつき、彼から電話がかかってきた。


「……もしもし、弥生さん……?」

電話の向こうの彼の声も、少しだけ震えているように聞こえた。

「……もしもし、航くん……? ……ふふっ……ごめん、まだ、ちょっと涙声かも……」

「……読んでくれたんですね……。……どうでしたか……?」

「……うん……。……最高だった……! 本当に、最高だったよ……!」


私たちは、またしても、夜が更けるのも忘れて、電話で語り合った。

小説の感想、お互いの気持ち、そして、これからのこと。

もう、そこには、何の遠慮も、壁もなかった。ただ、素直な気持ちを、温かい言葉で伝え合う、恋人同士の会話があった。



季節は巡り、秋が深まり、そして冬が訪れた。

航くんがウェブサイトに投稿した『ラブコメを書きたい』は、残念ながら、大きな話題を呼ぶことはなかった。アクセス数は伸び悩み、感想コメントが付くこともほとんどない。世の中には、才能ある作家や、面白い物語が溢れている。彼のデビュー作が、その中に埋もれてしまうのは、ある意味、仕方のないことなのかもしれない。


彼は、少しだけ落ち込んでいるようだった。

「やっぱり、俺には才能ないのかな……」なんて、弱音を吐くこともあった。


でも、私は、その度に、彼を力強く励ました。

「そんなことないよ! この小説は、私にとって、世界で一番の宝物だもん!」

「数字や評価が全てじゃないよ。航くんが、心を込めて書いた物語の価値は、そんなものじゃ測れないんだから」

「それに、これはまだ、始まりでしょ? これからだよ、航くんの物語は!」


私の言葉に、彼は、少しだけ照れたように笑い、「……そうですね」と、また前を向いてくれる。

それでいいのだ。私が、彼の、たった一人でも、最高の読者でいられれば。そして、彼の夢を、一番近くで支え続けることができれば。


私も、無事に卒論を提出し、春からの就職先も決まった。新しい生活への期待と、少しの不安。

航くんは、高校三年生になり、いよいよ大学受験を控えることになる。小説家になるという夢は、もちろん持ち続けている。


私たちの未来は、まだ不確かで、どんな困難が待ち受けているか分からない。

年の差という壁も、完全になくなったわけではないだろう。

でも、もう、何も怖くない。


だって、私たちのラブコメは、まだ始まったばかりなのだから。


ある晴れた冬の日。

私たちは、あの始まりの場所、市立図書館の、窓際の席に並んで座っていた。

彼は、次の作品の構想を練り、私は、卒業旅行の計画を立てている。

静かで、穏やかで、そして、とても幸せな時間。


「ねえ、弥生さん」

彼が、ふと顔を上げて、私を見た。

「ん?」

「……俺、次の作品も、やっぱり、ラブコメを書こうと思うんです」

その瞳には、もう迷いはなかった。確かな決意と、情熱が宿っている。


「ふふ、航くんらしいね。私も、それがいいな」

私は、微笑んで頷いた。


「……それでね、次のヒロインなんですけど……」

彼が、少しだけ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「……また、弥生さんに、『取材』をお願いしてもいいですか?」


その言葉に、私は、思わず吹き出してしまった。

「もう! まだ『取材』って言うの!?」

「あはは、すみません! でも、やっぱり、弥生さんが、俺の、最高のミューズですから!」

彼は、照れながらも、真っ直ぐな目で、そう言ってくれた。


最高の、ミューズ。

その言葉が、私の心を、温かく満たしていく。


「……仕方ないなぁ」

私は、わざとらしくため息をついてみせた。

「……じゃあ、次の『取材』は、どこにする?」


私たちは、顔を見合わせて、幸せに笑い合った。

窓の外には、冬の柔らかな日差しが降り注いでいる。

それは、まるで、私たちの未来を、明るく照らし出してくれているかのようだった。


ラブコメを書きたい、と願った不器用な少年と、

恋に戸惑い、それでも素直になろうとした、少しだけ年上の私。


私たちの物語は、きっと、これからも続いていく。

たくさんのドキドキと、笑顔と、そして、互いを想い合う、温かい気持ちとともに。

最高の、ハッピーエンドを目指して。

二人で、一緒に。

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