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第十九話:始まった『恋人』の時間 ~不器用な二人~

雨上がりの公園で交わした、涙と笑顔の告白。それは、私と航くんの関係にとって、そしておそらくは人生にとっても、忘れられない大きな転換点となった。臆病さや年の差への不安、すれ違いや誤解……そんな、たくさんの壁を乗り越えて、私たちはようやく、互いの気持ちを確かめ合い、「恋人」という新しい関係をスタートさせたのだ。


「俺と、付き合ってください」

「……はい……!」


あの時の、彼の真っ直ぐな瞳と、私の涙声の返事。繋いだ手の温もり。その全てが、まるで昨日のことのように、鮮明に胸に蘇ってくる。思い出すだけで、顔が熱くなり、心臓が甘く締め付けられるような感覚。これが、恋が叶ったということなのだろうか。だとしたら、それは想像していた以上に、温かくて、くすぐったくて、そして少しだけ、現実味のない、夢のような心地よさだった。


告白の後、私たちはどちらからともなく、どちらかが言い出すまでもなく、自然と手を繋いで公園を後にした。もう、周りの目なんて気にならなかった。ただ、隣にいる彼の存在と、繋がれた手の温もりだけが、私の世界の全てだった。

駅までの帰り道、何を話したのか、あまりよく覚えていない。ただ、お互いに何度も顔を見合わせては、照れたように笑い合ったことだけは、はっきりと覚えている。言葉にしなくても、心が通じ合っているような、そんな満たされた感覚があった。


マンションの前まで送ってもらい、「おやすみ」を言うのが、あんなにも名残惜しかったのは初めてだった。部屋に戻ってからも、興奮と幸福感でなかなか寝付けず、彼から届いた「まだ夢みたいです」というメッセージを、何度も何度も読み返しては、一人で顔をにやけさせていた。完全に、恋に浮かれる乙女だ。もうすぐ23歳になるというのに、我ながら呆れてしまう。でも、仕方ないのだ。だって、本当に、嬉しいのだから。



そうして始まった、航くんとの「恋人」としての日々。それは、新鮮な驚きと、戸惑いと、そして、今まで感じたことのないような、深い幸福感に満ちたものだった。


まず、呼び方が変わった。

彼は、まだ少し照れがあるのか、「弥生さん」と呼ぶことが多いけれど、時々、勇気を出して「弥生」と呼び捨てにしてくれるようになった。その度に、私の心臓は飛び跳ね、顔は真っ赤になる。たった一文字、さん付けがなくなっただけなのに、その響きは、まるで魔法のように、私たちの距離をぐっと縮めてくれる気がした。

私も、彼を「航くん」と呼ぶことに、まだ少しだけ慣れない。「航」と呼び捨てにするのは、なんだか気恥ずかしくて、まだできないでいた。でも、彼を名前で呼ぶたびに、彼は嬉しそうに、そして少しだけ照れたように笑うので、その反応を見るのが、私の密かな楽しみになっていた。


デートも、以前とはその意味合いが全く変わった。

もう、「取材」という言い訳は必要ない。私たちは、ただ純粋に、二人で過ごす時間を楽しむために、会うようになったのだ。


約束していた水族館にも行った。薄暗い、青い光に満たされた空間。ゆらゆらと泳ぐ魚たちを眺めながら、今度は、何の躊躇いもなく、自然と手を繋いで歩いた。大きな水槽の前で、寄り添って、言葉少なに美しい光景に見入る。周りのカップルたちと同じように。それが、なんだかすごく自然で、当たり前のことのように感じられて、胸が温かくなった。

「あの時、本当は魚の名前じゃなくて、弥生さんのこと、綺麗だなって思ってました」なんて、彼が観覧車での出来事を思い出して、顔を真っ赤にしながら白状してくれた時には、愛おしくて、思わず抱きしめてしまいそうになった(もちろん、寸前で思いとどまったけれど)。


レトロな喫茶店「珈琲館 ボタン」にも、改めて二人で行った。美味しいコーヒーとケーキを味わいながら、他愛のない話で笑い合う。彼が、私の苦手なチーズケーキ(私が前回美味しそうに食べていたのを覚えていてくれたらしい)を、一口「あーん」してくれた時には、恥ずかしくて死ぬかと思ったけれど、同時に、天にも昇るような気持ちだった。


どちらかの家で過ごす時間も増えた。

私の部屋に来た彼は、相変わらず大量に鎮座しているぬいぐるみたちを見て、「やっぱり、可愛いものが好きなんですね」と、優しい目で笑っていた。以前なら「隠さなきゃ!」と慌てていたかもしれないけれど、今は、そんな自分を見せられることが、むしろ心地よかった。

彼が、私のために、慣れない手つきで一生懸命、お粥(風邪イベントの練習らしい)を作ってくれたこともあった。味は……まあ、正直、少し微妙だったけれど、その気持ちが嬉しくて、「美味しいよ」と言って全部食べた。(後で、こっそり作り方を教えてあげたのは、ここだけの秘密だ)


そんな、何気ない日常の積み重ねが、私たちの絆を、ゆっくりと、しかし確実に、深めていってくれた。

私は、彼の真面目さ、優しさ、ひたむきさ、そして時折見せる少年のような笑顔に、ますます惹かれていった。そして、彼もまた、私の、少し抜けているところや、怖がりなところ、そして、彼の前でだけ見せる、素直な笑顔や甘えた態度を、愛おしそうに受け入れてくれているようだった。


(……幸せだな……)


心から、そう思える日々。

だが、もちろん、全てが順風満帆、というわけではなかった。

私たちには、やはり「年の差」という、無視できない現実があったからだ。


例えば、デートの費用。

彼はまだ高校生で、お小遣いや、たまにする短期バイト代くらいしか収入がない。だから、デート代は基本的に私が多めに出すか、あるいは「これは取材費だから!」と冗談めかして奢ることが多かった。彼は、いつも申し訳なさそうな顔をして、「すみません」「ありがとうございます」と繰り返す。その健気さが愛おしくもあるけれど、同時に、彼に気を遣わせているのではないか、彼のプライドを傷つけているのではないか、という不安も感じていた。


例えば、生活リズムの違い。

私は大学の講義やバイト、卒論の準備などで、彼とは自由に会える時間が限られている。特に、これから就職活動などが本格化すれば、ますます時間はなくなっていくかもしれない。彼は、そんな私に合わせてくれようとするけれど、本当はもっと会いたいのに、我慢させてしまっているのではないか? 彼が学校で友達と楽しそうにしている話を聞くと、嬉しい反面、自分だけが彼の世界から取り残されているような、寂しさを感じることもあった。


例えば、将来のこと。

彼は、まだ高校二年生。これから大学受験を控え、そして、小説家になるという大きな夢を追いかけている。その未来は、まだ不確定で、可能性に満ちている。一方、私は、もうすぐ大学を卒業し、社会に出る(あるいは、大学院に進むかもしれないけれど)。私たちの歩む道は、これからどんどん離れていってしまうのではないか? 彼が夢を叶えて、遠い存在になってしまったら……? そんな不安が、ふとした瞬間に、胸をよぎるのだ。


そして……あの、元カレの先輩のこと。

公園で告白された時、私は正直に彼の存在と、相談に乗ってもらっていたことを話した。航くんは、「そうだったんですね」と、少しだけ複雑そうな顔をしながらも、それ以上は何も聞かずに、受け入れてくれた。彼のその器の大きさに救われたけれど、心のどこかでは、彼が本当はどう思っているのか、気になっていた。もしかしたら、心の奥底では、まだ疑念や、嫉妬心を抱えているのではないか……?


そんな、言葉には出さないけれど、互いの胸の内に存在する、小さな不安や、すれ違いの種。それが、時折、私たちの間に、微妙な影を落とすことがあった。


ある時、私が執筆に没頭するあまり、彼からのメッセージに丸一日気づかず、電話にも出られなかったことがあった。ようやく気づいて慌てて謝ると、彼は「いえ、大丈夫ですよ。忙しいんだろうなって思ってたんで」と、笑顔で言ってくれたけれど、その声は、どこか寂しそうだった。

「……でも、少しだけでいいから、連絡くれたら嬉しいです。……心配、しちゃうんで」

そう付け加えられた言葉に、私は胸が締め付けられる思いだった。彼を、不安にさせてしまっていたのだ。


またある時には、私が大学の飲み会(もちろん、元カレの先輩も参加していた)に参加して、少し酔って帰りが遅くなったことがあった。彼には事前に伝えていたけれど、やはり心配だったのだろう。マンションの前まで迎えに来てくれていたのだ。

「……すみません、弥生さん。心配で、つい……」

申し訳なさそうに言う彼の顔を見て、私は、自分の軽率さを反省すると同時に、彼がこんなにも私のことを想ってくれているのだと、改めて実感した。

「ううん、ありがとう、航くん。迎えに来てくれて嬉しい。……でも、心配かけちゃってごめんね」

そう言って、彼の胸に顔をうずめると、彼は、戸惑いながらも、優しく私の背中を撫でてくれた。その温もりに、酔いも手伝って、涙が溢れそうになった。


こんな風に、私たちは、小さなすれ違いや、喧嘩というほどのものではないけれどを繰り返しながらも、その度に、正直な気持ちを伝え合い、互いを理解しようと努めた。

完璧な恋人同士、ではなかったかもしれない。不器用で、面倒くさくて、年の差という壁に悩むこともたくさんあった。

でも、その一つ一つが、私たちの絆を、より強く、そして確かなものにしてくれている。そう、信じることができた。



そして、私の心の奥底で、ずっと小さな棘のように引っかかっていた、もう一つの存在――橘莉子ちゃん。

彼女の動向も、気になっていた。航くんと私が付き合い始めたことを、彼女は知っているのだろうか? もし知ったら、どんな反応をするのだろうか? また、航くんに積極的にアプローチしてくるのだろうか?


そんな私の心配をよそに、莉子ちゃんは、意外なほどあっさりと、身を引いたようだった。

航くんの話によると、彼が弥生さん(つまり私)と付き合い始めたことを、共通の友人(おそらく健太くんあたりだろう)から聞いたらしく、それ以降、図書館などで顔を合わせても、以前のような馴れ馴れしい態度は見せなくなったというのだ。


「あ、航先輩、こんにちは。……弥生さんにも、よろしくお伝えください」

そう言って、少しだけ寂しそうに、でも、どこか吹っ切れたような笑顔で、挨拶をしてくるだけになったらしい。

「なんか、急に大人しくなっちゃって……。ちょっと拍子抜けしましたけど……。まあ、良かったのかな……?」

航くんは、相変わらず状況をよく理解できていない様子だったが、私としては、正直、ほっとした。


もちろん、莉子ちゃんに対して、少しだけ申し訳ないような気持ちもある。彼女の真っ直ぐな好意(それがどんな種類のものであれ)に、ちゃんと向き合ってあげられなかったことへの、小さな罪悪感。

でも、これで良かったのだ。私たちは、それぞれの場所で、それぞれの物語を生きていくのだから。彼女にも、いつかきっと、素敵な恋が訪れるだろう。そう、心の中で願うしかなかった。


季節は、夏から秋へと移り変わろうとしていた。

航くんの小説も、いよいよ完成間近だという。私も、卒論のテーマが固まり、本格的に執筆に取り掛かり始めていた。


穏やかで、幸せで、そして、少しだけ未来への不安も抱えながら。

私たちの「恋人」としての時間は、ゆっくりと、しかし確実に、深まり、そして紡がれていく。


不器用な私たちだけど。

年の差なんて、きっと乗り越えられる。

そう信じて、私は、隣にいる愛しい年下の彼氏の手を、そっと握りしめるのだった。

この温もりが、私たちの未来を照らす、確かな光となることを願って。

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