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第十七話:雨の夜と、零れた本音

図書館での、あの夕暮れ。航くんのスランプに対して、私が精一杯の言葉で励ました後、彼の表情には確かに、ほんの少しだけれど、前向きな光が戻っていたように見えた。「もう少し、頑張ってみます」という彼の言葉を信じ、私は、彼の物語も、そして私たちの関係も、また少しずつ良い方向へ向かうのではないか、と淡い期待を抱いていた。


だが、現実はそう甘くはなかった。

数日経っても、航くんから「告白シーンが書けた」という報告はなかった。それどころか、彼は再び、深いスランプの闇へと沈んでいってしまったようなのだ。メッセージの返信はさらに滞りがちになり、たまに返ってきても、「すみません、まだ全然ダメです…」「俺にはやっぱり無理なのかも…」といった、弱気で自嘲的な内容ばかり。図書館で見かける彼の姿も、日に日に憔悴していくように見えた。


(……どうしよう……。私の言葉、結局、彼には届かなかったのかな……)


彼を励ましたい、力になりたい、という気持ちは山々なのに、今の私には、かけるべき言葉が見つからなかった。告白シーンという、あまりにもデリケートなテーマ。そして、私たちの間の、この微妙でぎこちない空気。それが、私から積極的な行動を奪っていたのだ。


莉子ちゃんの存在も、相変わらず私の心をざわつかせていた。彼女は、航くんがスランプに陥っていることを知ってか知らずか、以前ほどではないにしろ、時折、図書館に現れては、航くんに「先輩、頑張ってくださいね!」「私、いつまでも待ってますから!」と、屈託のない笑顔で声をかけていく。その度に、私の心には黒い靄がかかり、航くんに優しく接することができなくなってしまうのだ。


(……最低だ、私。彼がこんなに苦しんでる時に、ヤキモチ妬いてるなんて……)


自己嫌悪は募るばかり。航くんを支えたい気持ちと、自分の醜い感情との間で、私の心は引き裂かれそうだった。美咲には「だから、さっさとハッキリさせなさいって言ったのに!」と、またしても呆れられてしまった。


そんな、八方塞がりの状況が続いていた、ある日の夜のことだった。

その日も、外は朝から冷たい雨が降り続いていた。まるで、私の心の中の、どんよりとした気分を映し出すかのように。私は、大学の課題も手につかず、部屋で一人、ぼんやりと窓の外を眺めていた。雨音が、やけに大きく聞こえる。


スマホが、不意にメッセージの着信を告げた。航くんからだった。

珍しいな、と思いながら画面を開くと、そこには、いつも以上に切実な響きを帯びた言葉が綴られていた。


『弥生さん、こんばんは。夜分遅くにすみません』

『どうしても……どうしても、書けないんです。告白シーンが……』

『もう、何日も、何時間も、PCの前で唸ってるのに、一行も進まなくて……』

『俺、やっぱり、ダメみたいです……。もう、諦めた方がいいのかもしれません……』


その、弱々しく、絶望感に満ちた言葉に、私の胸は締め付けられた。

彼が、どれだけ苦しんでいるか。痛いほど伝わってくる。

諦める、なんて、そんなこと、絶対に言わせたくない。


(……私に、何かできることは……?)


今度こそ、ちゃんと彼と向き合わなければ。彼の苦しみを、少しでも和らげてあげなければ。

でも、どうすれば?

告白シーンについてのアドバイスは、やはり難しい。


(……そうだ。あの時の話、もう一度してみようかな……)


以前、彼に少しだけヒントを与えられた(かもしれない)、あの「仮定の話」。

もし、自分が告白されるとしたら、どんな気持ちになるか。どんな言葉が嬉しいか。

あの時は、核心に触れるのを恐れて、中途半端に終わってしまったけれど。今度こそ、もう少し踏み込んで、私の正直な気持ちを伝えてみたら……?

それが、彼にとっての、突破口になるかもしれない。


もちろん、怖い。自分の気持ちをさらけ出すのは、怖い。

でも、彼がここまで追い詰められているのだ。私が、ここで躊躇していてどうする。

彼を、救いたい。その一心で、私は返信を打ち始めた。


『航くん、こんばんは。……すごく、苦しんでるんだね。一人で抱え込ませちゃって、ごめんね』

まずは、彼の苦しみに寄り添う言葉から。


『諦めるなんて、絶対に言わないで。航くんには、才能があるんだから。今は、壁にぶつかってるだけだよ。絶対に、乗り越えられるから』

力強く、彼を励ます。


『それでね……告白シーンのことなんだけど……』

本題に入る。心臓が、少しだけ速くなる。


『この前も少し話したけど……もしよかったら、もう少しだけ、仮定の話、してみない?』

『例えば……もし、航くんが、誰か、大切な人に想いを伝えるとしたら……どんな言葉を選ぶかな? っていうのは、どうかな? 主人公じゃなくて、航くん自身の言葉で』


少しだけ、角度を変えてみた。彼自身の言葉を引き出すことで、何かが見えてくるかもしれない、と思ったのだ。


返信は、すぐには来なかった。

彼は、私の提案を、どう受け止めたのだろうか。


しばらくして、ようやく返事が来た。

『……俺、自身の言葉……ですか……』

『……考えたことも、なかったです……』

『……でも……もし、俺が……弥生さんに……』


……え?

弥生さんに……?

彼は、今、私の名前を出した……?


ドクン、と心臓が大きく跳ねる。

まさか……?


だが、すぐに次のメッセージが届いた。

『……あ、いや、すみません! 今のは、その、例え話で! もし、俺が主人公だとしたら、っていう意味で!』

彼は、慌てて訂正してきた。……やっぱり、そうか。私の、早とちりか。

少しだけ、がっかりしたような、でも、ほっとしたような、複雑な気持ち。


『……主人公だとしたら……そうですね……』

彼は、少し考え込むような間を置いてから、続けた。

『……やっぱり、上手い言葉なんて、出てこないと思います』

『ただ……「好きです」って……それしか、言えないかもしれないです……』

『……すごく、緊張して、声も震えて……顔も真っ赤になって……。めちゃくちゃ、格好悪いと思います……』


彼の言葉は、まるで、あの公園での告白を予言しているかのようだった。

不器用で、格好悪くて、でも、真っ直ぐな想い。


『……でも……それでも、伝えたいんです。この気持ちを……』

『……あなたがいると、毎日が、全然違って見えるんです、って』

『……あなたの笑顔を見ると、それだけで、幸せになれるんです、って』

『……だから……ずっと、そばにいたいです、って……』


彼の言葉が、一つ一つ、私の心に染み込んでいく。

それは、小説のセリフなんかじゃない。彼の、心の奥底からの、本物の叫びのように聞こえた。

涙が、じわりと滲んでくる。


『……そんな、拙くて、ありきたりな言葉しか、出てこないと思います……』

彼は、自嘲するように付け加えた。


『……ううん』

私は、震える指で、返信を打った。

『……そんなことないよ』

『……すごく、素敵な言葉だと思う』


『……もし……もし、私が……誰かから、そんな風に言われたら……』

『……どんなに格好悪くても、どんなに拙くても……』

『……すごく、すごく、嬉しいと思う……!』


それは、もう、仮定の話なんかじゃなかった。

私の、本当の気持ちだった。

彼に、そう告白されたい、と願う、私の心の叫びだった。


言ってしまった。

今度こそ、本当に、言ってしまった。


メッセージを送った瞬間、激しい後悔と羞恥心が襲ってきた。

なんてことを言ってしまったんだろう! これでは、まるで、私から告白しているようなものではないか!


慌てて、取り繕うとする。

『あ、いや、だから、これはあくまで一般論で! 私個人の意見というか!』

『小説のヒロインだったら、きっとそう感じるんじゃないかなって! そういう意味で!』


だが、もう遅いかもしれない。

彼は、私の言葉の真意に、気づいてしまったかもしれない。

あるいは、気づかずに、また「情報」として受け取るだけかもしれないけれど……。


返信が、怖い。

彼の反応を見るのが、怖い。


雨音だけが、しとしとと響いている。

永遠のように長い時間に感じられた。


そして、ようやく、彼からの返信が来た。

その内容は……。


『……そう、ですか……。……嬉しい、ですか……』

『……そっか……』


それだけだった。

絵文字も、感嘆符も、何もない。ただ、短い、呟きのような言葉。


(……え……?)


どういう意味だろう?

喜んでいるのか? 困惑しているのか? それとも、呆れているのか?

全く、分からない。


『……あの、弥生さん』

彼からのメッセージは続く。

『……すみません。俺、ちょっと、頭の中、整理してみます』

『……今日は、もう、ありがとうございました。おやすみなさい』


……頭を、整理する?

それは、どういう……?


一方的に、会話を打ち切られてしまった。

まるで、何か、彼の中で、大きな混乱が起こっているかのような……。


(……もしかして、気づいた……?)


私の、本当の気持ちに。

そして、それに、どう応えればいいのか、分からなくなってしまった……?


だとしたら……。

私は、彼を、さらに追い詰めてしまったのかもしれない。

良かれと思って言った言葉が、彼にとって、重荷になってしまったのかもしれない。


(……どうしよう……。私、また、間違えちゃったのかな……)


不安と後悔で、胸が押しつぶされそうになる。

スマホを握りしめたまま、私は、ベッドの上で動けなくなっていた。


窓の外では、雨が、まだ降り続いていた。

それは、まるで、私の涙のように、とめどなく、流れ続けているかのようだった。


零れてしまった、本音。

それは、彼に届いたのだろうか。

それとも、ただ、彼を混乱させ、傷つけただけだったのだろうか。


答えは、分からない。

ただ、この雨の夜が、私たちにとって、またしても、大きな転換点になるであろうことだけは、確かなような気がした。

それが、良い方向への転換なのか、それとも……。

今はまだ、知る由もなかった。

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