第十五話:夏祭りの夜 ~浴衣と、不意打ちと、すれ違い~
図書館での、最悪のタイミングでの橘莉子ちゃんの登場。航くんの肩に手を置いていた私に向けられた、彼女の笑顔の裏の棘。そして、航くんのスランプを知りながらも、嫉妬心から素直に励ますことのできない自分自身への嫌悪感……。あの日の出来事は、私の心に重たい澱のように沈殿していた。
航くんとの関係は、さらにぎこちないものになっていた。メッセージのやり取りはめっきり減り、図書館で顔を合わせても、互いに当たり障りのない挨拶を交わすだけ。彼のスランプは続いているようで、PCに向かうその背中は、以前にも増して小さく、頼りなく見えた。声をかけたい。励ましたい。力になりたい。そう思うのに、莉子ちゃんの存在と、自分の醜い嫉妬心が邪魔をして、どうしても自然な言葉が出てこないのだ。
(……私、本当にダメだな……)
彼を支えるどころか、むしろ追い詰めてしまっているのではないか? 「彼女」でもないのに、勝手に嫉妬して、勝手に距離を置いて……。こんな自分勝手な私に、彼が愛想を尽かしてしまうのも時間の問題かもしれない。そんな不安が、常に胸の中にあった。
もう、いっそのこと、彼とは距離を置いた方がいいのかもしれない。彼のためにも、そして、これ以上傷つきたくない、自分のためにも……。そんな弱気な考えが頭をもたげ始めていた、そんなある日のことだった。
スマホに、久しぶりに航くんから、少し長めのメッセージが届いた。
『弥生さん、こんばんは。ご無沙汰してます。航です』
改まったような文面に、心臓がドキリとする。何か、良くない知らせだろうか?
『あの、突然で申し訳ないのですが……今度の週末、駅前の神社で夏祭りがあるみたいで……』
夏祭り……? このタイミングで?
『もし、弥生さんのご都合がよろしければ……なんですけど……』
『……また、「取材」に、付き合っていただけないでしょうか……?』
……取材。また、その言葉。
でも、今の彼から、この誘いがあるとは思っていなかった。正直、驚いた。そして……ほんの少しだけ、嬉しかった。まだ、彼は、私との繋がりを、完全に断ち切ろうとはしていないのかもしれない。
『夏祭りのシーンを、小説に入れようと思ってるんです。でも、やっぱり雰囲気が分からないと書けなくて……。もちろん、弥生さんが忙しかったり、気が進まなかったりしたら、全然断ってください! 無理にとは、絶対に言いませんから!』
必死さが伝わってくる文面。彼は、本当に、小説のために、私を必要としてくれているのだろう。……それだけ、なのかもしれないけれど。
(……どうしよう……)
行くべきか、行かないべきか。
今の、このぎくしゃくした関係のまま、二人で夏祭りに行く? それは、果たして楽しいのだろうか? 余計に関係が悪化してしまうのではないか?
でも、ここで断ってしまったら……本当に、彼との繋がりが、切れてしまうかもしれない。それは、絶対に嫌だ。
(……行くしかない、か)
たとえ気まずくても。たとえ苦しくても。
彼が、私を必要としてくれている(たとえそれが「取材」のためだとしても)限り、私は、それに応えたい。それが、私が彼に対してできる、唯一のことなのかもしれないのだから。
それに……もしかしたら、この夏祭りが、何かを変えるきっかけになるかもしれない。そんな、淡い期待も、心のどこかにあった。
『こんばんは、航くん。夏祭り、いいね。ちょうど私も行こうかなって思ってたところだよ』
私は、平静を装い、できるだけ明るい返信を心がけた。
『「取材」、もちろん付き合うよ。私も、久しぶりの夏祭り、楽しみだな(^-^)』
本当は、楽しみな気持ち半分、不安な気持ち半分だったけれど。
『ほ、本当ですか!? ありがとうございます!!』
彼からの返信は、予想以上に、喜びと安堵に満ちたものだった。その反応に、私の心も少しだけ軽くなる。
『じゃあ、土曜日の夕方、神社の入り口で待ち合わせ、で大丈夫ですか?』
『うん、大丈夫だよ。楽しみにしてるね』
こうして、少しだけ複雑な想いを抱えながらも、私と航くんの、二度目の(?)夏祭りの約束が決まったのだった。(一度目は、彼がまだ私の小説の読者で、私が彼を誘った、というIF設定があったような気もするが、それは別の話だ)
*
そして迎えた、夏祭りの当日。
私は、またしても、クローゼットの前で悩んでいた。
……浴衣、着るべきか、否か。
前回、遊園地の時に、彼が私のオーバーオール姿を「めちゃくちゃ可愛い」と褒めてくれた。その成功体験(?)がある。今回も、浴衣を着ていけば、彼は喜んでくれるかもしれない。そして、少しでも、彼の心を、私の方に引き寄せることができるかもしれない……。
(……ダメダメ、弥生。そんな計算高いこと、考えちゃ)
でも、やっぱり、彼に「綺麗だ」って思われたい。その気持ちは、どうしても抑えきれない。それに、夏祭りといえば、やっぱり浴衣だ。雰囲気も出るし、「取材」にもなるはずだ。
(……よし。着ていこう)
私は、意を決して、前回と同じ、白地に淡い紫色の朝顔が描かれた浴衣を手に取った。少しだけ、自分の気持ちに素直になってみることにしたのだ。
着付けは、前回よりは少しだけスムーズにできた。髪もアップにして、かんざしを挿す。鏡に映る自分は……うん、やっぱり、少しだけ特別な気分になれる。この姿を、彼がどんな顔で見てくれるだろうか。期待と不安が入り混じる。
待ち合わせ場所の神社の入り口へ向かう。夕暮れ時、境内はすでにたくさんの人で賑わっていた。屋台の灯り、鳴り響くお囃子の音、人々の楽しそうな声。その喧騒の中に、少しだけ早く着いて、そわそわと待っている航くんの姿を見つけた。
今日の彼は、シンプルな白いTシャツに、黒いカーディガン、濃い色のジーンズ。いつもの服装だけど、なんだかいつもより少しだけ、大人びて見えるような気がした。彼も、少しだけ緊張しているのだろうか。
「航くん、お待たせ!」
私が声をかけると、彼ははっとしたように振り返った。そして、私の浴衣姿を認めると……やはり、固まった。
目を大きく見開き、口を半開きにして、まるで時が止まったかのように、私を凝視している。その反応は、遊園地の時と同じだ。でも、前回よりも、さらに衝撃を受けているように見えるのは、気のせいだろうか。
(……よしっ!)
心の中で、またしてもガッツポーズを決める。今日の選択は、間違っていなかったようだ。
「……や、弥生さん……!」
ようやく、彼が声を絞り出した。その声は、やはり上擦っている。
「……ゆ、浴衣……! す、すごく……綺麗、です……! その……言葉にならないくらい……!」
綺麗――。しかも、「言葉にならないくらい」。
彼の、あまりにも純粋で、そして最大級の賛辞。
それは、どんな宝石よりも、私の心を輝かせた。顔が熱い。心臓が、嬉しさで張り裂けそうだ。
「……あ、ありがとう……。航くんも、今日の服、素敵だよ。なんだか、いつもより、かっこよく見える」
私も、照れながら、でも、素直な気持ちを込めて、彼を褒め返した。彼が、さらに顔を赤くして、俯いてしまう。その初々しさが、たまらない。
「さ、さあ! 行きましょう! 取材、始めないと!」
彼が、照れを振り払うように、いつもの決まり文句を口にした。
「うん、行こっか!」
私も、弾むような気持ちで頷いた。さっきまでの、不安や迷いは、もうどこかへ消え去っていた。今はただ、彼と過ごすこの夏祭りの夜を、楽しみたい。
二人で、賑わう境内へと足を踏み入れる。
たくさんの屋台が並び、美味しそうな匂いが漂ってくる。金魚すくい、射的、わたあめ、りんご飴……。子供の頃に戻ったみたいに、心が浮き立つ。
「弥生さん、何か食べたいものとか、やりたいこととかありますか?」
航くんが、少しだけ緊張しながらも、私を気遣って尋ねてくれる。
「うーん、そうだなぁ……。じゃあ、まずはりんご飴、食べたいかな!」
「分かりました! 俺、買ってきます!」
彼は、張り切ってりんご飴の屋台へと走っていった。その背中が、なんだか頼もしい。
買ってきた真っ赤なりんご飴を、二人で分け合って食べる。甘くて、少しだけ酸っぱくて、懐かしい味。彼が、飴を舐めるのに夢中になって、口の周りを少しだけ赤くしているのを見て、思わず笑ってしまう。彼は、慌ててハンカチで口元を拭っていた。
その後も、私たちは、まるで普通のカップルのように、夏祭りを楽しんだ。
射的では、相変わらず二人とも全く当たらなかったけれど、航くんが「俺が弥生さんのために、絶対景品取ります!」とムキになっている姿が可愛かった。
わたあめは、彼がまた口の周りをベタベタにするのを見越して、私が先に「あーん」して食べさせてあげたら、彼は顔を真っ赤にして固まってしまった。(少し、やりすぎたかな? でも、反応が面白くて、つい……)
お囃子の音に合わせて、盆踊りの輪を眺めていると、彼が「弥生さんも、踊ってみますか?」なんて聞いてくる。「私、踊れないよー」と笑って返すと、「俺もです」と、彼も笑っていた。
たわいもない会話。くだらない冗談。そして、時折訪れる、心地よい沈黙。
その全てが、愛おしくて、かけがえのない時間に感じられた。
彼の隣にいるだけで、こんなにも満たされた気持ちになれるなんて。
(……ああ、本当に、好きだなあ……)
改めて、自分の気持ちの深さを自覚する。
この時間が、ずっと続けばいいのに。そう、願わずにはいられない。
しかし、そんな幸福な時間の中で、ふと、またしても、あの黒い感情が顔を出す瞬間があった。
それは、航くんが、取材のためだと言って、周りの浴衣姿の女の子たちを(おそらくは無意識に)観察し始めた時だったり、あるいは、小説のアイデアが浮かんだのか、急にスマホを取り出してメモを取り始め、私の話を聞いていなかったりした時だった。
そして、極めつけは、彼が、ふとした瞬間に、あの後輩女子……莉子ちゃんの名前を口にした時だった。
「そういえば、橘さんも、夏祭り好きだって言ってましたね。今度、どんなシーンが好きか、聞いてみようかな……」
ズキン!
まただ。胸の奥が、鋭く痛む。
彼は、本当に、何も分かっていないのだ。私の気持ちも、そして、おそらくは莉子ちゃんの気持ちも。ただ、純粋に、小説のネタとして、彼女の名前を出しただけなのだろう。
でも、今の私には、それがたまらなく、辛い。
「……へえ、そうなんだ」
私は、努めて平静を装い、短く相槌を打つことしかできなかった。笑顔を作る余裕なんて、もうなかった。声が、自分でも分かるほど、冷たく、硬くなっている。
「弥生さん……? どうかしましたか?」
さすがに、私の変化に気づいたのだろう。彼が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「……ううん、なんでもないよ。ちょっと、人混みに疲れただけ」
嘘をついた。本当は、彼の無神経さ(と私が感じてしまうこと)に、傷ついていたのに。
(……ダメだ。やっぱり、私、全然素直になれてない……)
嫉妬してるなら、「ヤキモチ妬いちゃった」って言えばいいのに。
不安なら、「私のことだけ見ててほしい」って、言えばいいのに。
でも、できない。そんなことを言って、彼を困らせたくない。嫌われたくない。
結局、私はまた、自分の本当の気持ちに蓋をしてしまうのだ。
その後の時間は、さっきまでの幸福感が嘘のように、どこかぎこちない空気が流れていた。
私は、無理に明るく振る舞おうとしたが、うまくいかない。航くんも、私の変化に戸惑っているようで、どこか遠慮がちに話しかけてくる。
楽しいはずの夏祭りが、なんだか少しだけ、苦しいものに変わってしまっていた。
花火の時間が近づき、人混みはさらに激しさを増していた。
私たちは、少しでも見やすい場所を探して、神社の裏手にある、少し開けた場所へと向かっていた。
「うわっ……!」
後ろから来た集団に強く押され、私はバランスを崩しそうになった。
「危ない!」
その瞬間、航くんが、とっさに私の腕を掴み、ぐっと引き寄せてくれたのだ。
彼の胸の中に、すっぽりと抱きとめられるような形になる。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
彼の腕の力強さ。胸板の硬さ。そして、間近で感じる、彼の匂いと体温。
予想外の密着に、頭が真っ白になる。
「だ、大丈夫ですか、弥生さん!?」
彼が、慌てた声で尋ねてくる。顔が、すぐ近くにある。
「……う、うん……。ありがとう……」
なんとか、それだけを答えるのが精一杯だった。顔が熱い。きっと、また真っ赤になっているだろう。
「……すごい人ですね……。これじゃあ、はぐれちゃいますよ」
彼が、少しだけ心配そうな声で言った。
そして、次の瞬間。
彼は、私の手を、強く、強く、握りしめたのだ。
「……こうしてれば、大丈夫ですから」
そう言って、彼は、少しだけ照れたように、でも、真っ直ぐに前を向いて、私の手を引いて歩き出した。
(……手……)
まただ。繋がれた、手。
さっき、私が咄嗟に掴んだ時とも、お化け屋敷で彼が繋いでくれた時とも違う。
今度は、まるで、私を守るかのように、そして、決して離さない、という意志を示すかのように、力強く、そして優しく、握られている。
心臓が、激しく高鳴る。
さっきまでの、嫉妬や不安なんて、またしても、どこかへ吹き飛んでしまった。
ただ、繋がれた手の温もりと、彼の頼もしい背中だけが、私の世界の全てになったかのようだ。
(……ずるいよ、航くん……。本当に……)
こんなことをされたら、また期待してしまうじゃないか。
私のこと、やっぱり、特別に思ってくれてるんじゃないかって。
彼の、本当の気持ちは、どこにあるのだろうか。
分からない。
分からないけれど……。
今はただ、この繋がれた手の温もりを、信じていたい。
人混みの中、しっかりと繋がれた手。
遠くに聞こえる、花火が打ち上がる、ドーン、という低い音。
夜空を彩る、大輪の花。
そして、すぐ隣にある、彼の存在。
私の心は、期待と、不安と、切なさと、そして、どうしようもないほどの愛しさで、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。
この夏祭りの夜が、私たちにとって、どんな意味を持つことになるのだろうか。
すれ違ったままなのか、それとも……。
答えはまだ見えない。
でも、今はただ、この繋がれた手を、離さないように。
私は、彼に引かれるまま、光と音の洪水の中を、ゆっくりと歩いていくのだった。




