第十四話:揺れる心と、嫉妬のサイン
橘莉子ちゃん――航くんの小説の「大ファン」を名乗る、元気で積極的な後輩女子。彼女の突然の登場は、私の穏やかだった心に、予想以上の大きな波紋を投げかけていた。図書館での遭遇以来、私の頭の中は、彼女のあの屈託のない笑顔と、そして、航くんに向けられる真っ直ぐな好意(と私には思えるもの)のことで、いっぱいになってしまっていた。
(……考えすぎよね。彼女は、ただのファン。航くんも、ただの後輩としか思ってないはず……)
そう自分に言い聞かせようとする。でも、どうしても、胸の奥で渦巻く、黒くて冷たい感情を無視することができない。嫉妬――認めたくないけれど、これは間違いなく、嫉妬なのだ。航くんが、私以外の女の子と親しくしていることへの。そして、自分よりも若く、可愛らしく、素直に好意を表現できる莉子ちゃんに対する、劣等感にも似た感情。
年下の男の子に本気で恋をして、しかも、その子の周りに現れた別の女の子に嫉妬しているなんて。我ながら、本当に情けないと思う。もうすぐ23歳にもなろうという大人の女性が、まるで中学生の初恋みたいに、心をかき乱されているのだ。
(しっかりしなきゃ、私。もっと、大人にならなきゃ……)
そう思うのに、心とは裏腹に、私の態度は、少しずつ、確実に変化していってしまっていた。特に、航くんに対して。
以前は、彼からのメッセージが届けば、すぐにでも返信したい気持ちでいっぱいだったのに。今は、莉子ちゃんの顔がちらついて、返信するのを少しだけ躊躇ってしまうことがある。「今、あの子とメッセージしてたりしないかな……」なんて、くだらない疑念が湧いてきてしまうのだ。もちろん、すぐに「そんなはずない」と打ち消すのだけれど。
電話で話していてもそうだ。彼の声を聞けるのは嬉しい。でも、ふとした瞬間に、彼が学校で莉子ちゃんと楽しそうに話している姿を想像してしまい、急に言葉に詰まったり、声のトーンが低くなったりしてしまう。航くんは「弥生さん? どうかしましたか?」と心配してくれるけれど、私は「ううん、なんでもないよ」と、笑顔で(声だけの笑顔で)誤魔化すしかない。
一番顕著だったのは、やはり、彼の小説に関するやり取りだったかもしれない。
以前は、彼の書いた原稿を読むのが、何よりも楽しみだった。彼の才能の煌めきや、物語の展開に、自分のことのように興奮し、感想やアドバイスを熱心に伝えていた。
でも、今は……。
『弥生さん! 遊園地のシーン、書けました! 観覧車のところ、弥生さんのアドバイス通り、あえて言葉を少なくしてみたんですけど……どうでしょうか?』
彼から、自信作であろう原稿が送られてきても、素直な気持ちで向き合えない自分がいる。読んでいて、確かに素晴らしいと思う。あの日の、観覧車での特別な空気感が、見事に再現されている。彼の描写力は、確実に向上している。
でも、そのシーンを読んでいると、あの時の、彼への募る想いと同時に、今の、この嫉妬心や不安感が蘇ってきてしまい、胸が苦しくなるのだ。
(……この弥生(仮)は、こんなにも主人公くんに愛されてるのに……現実の私は……)
そんな風に、小説の中の自分と、現実の自分を比べて、勝手に落ち込んでしまう。
だから、感想を伝える言葉も、どこか当たり障りのない、表面的なものになってしまいがちだった。
『うん、すごく良かったよ。雰囲気出てたんじゃないかな』
『ここの描写、もう少し具体的にしてもいいかもね。まあ、航くんが良いと思うなら、それでいいと思うけど』
以前のような、手放しの賞賛や、熱心なアドバイスが、できなくなっていた。自分でも、冷たい態度をとっている自覚はあった。でも、どうすればいいのか分からなかったのだ。嫉妬心に囚われたまま、以前のように「頼れる優しいお姉さん」を演じることが、どうしてもできなかった。
当然、航くんも、そんな私の変化に気づかないはずはなかった。
彼は、鈍感だけれど、人の心の機微に全く気づかないわけではない。特に、私のこととなると、彼は意外なほど敏感なところがあるのだ(恋愛感情とは別の次元で、だが)。
『弥生さん、最近、なんだか……元気ない、ですか? 俺、何か気に障ること、しちゃいましたか……?』
心配そうなメッセージが、彼から届いた。その文面からは、彼の戸惑いと、私を気遣う優しさが伝わってきて、また胸が痛んだ。
違う。航くんは何も悪くない。悪いのは、全部、私なのだ。勝手に嫉妬して、勝手に不安になって、そして、彼に冷たい態度をとってしまっている、私自身が。
『ううん、全然! 何もないよ! ちょっと最近、卒論とかバイトとかで、疲れが溜まってるだけだから。心配かけてごめんね(>_<)』
また、嘘をついてしまった。
本当のことを言えたら、どれだけ楽だろうか。「航くんが、他の女の子と仲良くしてるのが、嫌なの」と。でも、そんなこと、言えるはずがない。そんなことを言ったら、彼はきっと、困惑して、そして私から離れていってしまうだろう。重い女だと思われて、嫌われてしまうに違いない。
(……もう、限界かもしれない……)
笑顔の仮面を被り続けることにも、自分の醜い感情と向き合うことにも、疲れ果ててしまっていた。航くんとの関係も、このままでは、きっと壊れてしまうだろう。
「……はぁ……」
バイト先のカフェの休憩室で、私は深い深いため息をついた。その様子を見ていた美咲が、呆れたような顔で話しかけてきた。
「ちょっと弥生、あんた、最近どうしたのよ。ため息ばっかりついて。顔色も悪いし。……さては、また例の年下くん絡みでしょ?」
「……美咲……」
私は、もう隠す気力もなく、力なく彼女の名前を呼んだ。
「やっぱりね。で? 今度は何があったのよ。まさか、フラれたとか?」
「そ、そんなんじゃないけど……」
私は、ぽつりぽつりと、最近の出来事……莉子ちゃんの登場、自分の嫉jaty心、航くんへの態度の変化、そして彼の心配そうな様子……を、美咲に打ち明けた。
話し終えると、美咲は、またしても大きなため息をついた。
「……あんたねぇ……。だから言ったじゃない。さっさと告っちゃえば良かったのよ」
「で、でも……!」
「でも、じゃない! 結局、自分の気持ち誤魔化して、中途半端な態度とるから、余計にこじれるんでしょ!?」
美咲の言葉は、厳しいけれど、正論だった。ぐうの音も出ない。
「大体ね、その橘莉子って子だって、弥生がちゃんと『彼女』だって宣言してれば、あそこまで馴れ馴れしくしてこなかったかもしれないじゃない」
「か、彼女って……私たちは、まだ付き合ってないんだよ!?」
「だから、それが問題なのよ! 弥生が、航くんに対して特別な気持ちがあるなら、ちゃんと態度で示さないと! 言葉にしなくても、雰囲気で伝わるもんだよ、そういうの。『この人には、手出しちゃダメだな』って」
美咲の言葉に、はっとさせられる。
私は、自分の気持ちを隠すことばかり考えていて、彼に対して、あるいは周りに対して、自分の想いをちゃんと示そうとしてこなかったのかもしれない。だから、莉子ちゃんにも、あんな風に踏み込まれてしまったのかもしれない。
「……じゃあ、どうすれば……?」
私は、すがるような思いで美咲に尋ねた。
「だから、素直になるのよ!」
美咲は、もう何度目か分からないその言葉を、力強く繰り返した。
「嫉妬してるなら、『ヤキモチ妬いちゃった』って、可愛く言ってみるとかさ! 不安なら、『私のこと、どう思ってるの?』って、ちゃんと聞いてみるとか!」
「そ、そんなこと、できるわけ……!」
「できる! やるの! このままじゃ、本当に航くん、他の子に取られちゃうよ!? それでもいいの!?」
美咲の言葉が、私の胸に突き刺さる。
他の子に、取られる……?
航くんが、私以外の女の子と、恋人同士になる……?
想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。嫌だ。絶対に、嫌だ。
「……嫌だ……」
思わず、声が漏れた。
「でしょ?」
美咲は、分かっていた、というように頷いた。
「だったら、もう覚悟を決めるしかないじゃない。傷つくのが怖いのは分かるけど、このまま何もしないで後悔するより、ずっといいはずだよ」
……覚悟を、決める。
そうだ。もう、逃げてばかりはいられないのだ。
自分の気持ちから。彼との関係から。そして、ライバル(かもしれない)存在から。
「……分かった。……頑張ってみる」
私は、震える声で、しかし、確かな意志を持って、そう答えた。
「よし! その意気よ!」
美咲は、満足そうに笑って、私の背中を力強く叩いた。「もしダメだったら、私が慰めてあげるから!」
*
美咲に背中を押され、私は覚悟を決めた……はずだった。
だが、いざ航くんを前にすると、やはり勇気が出ない。
「ヤキモチ妬いちゃった」なんて、どう言えばいい?
「私のこと、どう思ってるの?」なんて、どんな顔して聞けばいい?
結局、私はまたしても、具体的な行動を起こせないまま、時間だけが過ぎていく。
航くんとの関係は、依然としてぎこちないまま。
そして、私の心の中の嫉妬心と不安感は、ますます大きく膨らんでいくばかりだった。
そんなある日のこと。
図書館で、航くんが深刻な顔でPCに向かっているのを見かけた。声をかけると、彼は「告白シーンが、どうしても書けないんです……」と、力なく打ち明けてきた。
彼のスランプは、まだ続いていたのだ。いや、むしろ、悪化しているのかもしれない。
(……私のせい、かな……)
最近の、私の不安定な態度が、彼の創作にまで影響を与えてしまっているのではないか?
そう思うと、申し訳なさで胸が痛んだ。
「……そっか。難しいよね、告白シーンって……」
私は、彼の隣に座り、できるだけ優しい声で言った。
「でも、航くんなら、きっと書けるよ。だって、あんなに素敵な物語を紡げるんだもん。自信持って」
心からの励ましの言葉。でも、今の彼には、どれだけ響いているだろうか。
「……ありがとうございます。……でも、自信、ないです……」
彼は、俯いたまま、力なく呟いた。その姿は、以前の彼からは想像もつかないほど、弱々しく見えた。
(……なんとかしてあげたい。彼の力になりたい)
でも、どうすれば?
告白シーンのアドバイスは、今の私にはできない。
ただ、そばにいて、話を聞いてあげることしか……。
「……もし、私でよければ、いつでも話聞くからね。一人で抱え込まないで」
私は、彼の肩に、そっと手を置いた。
彼は、驚いたように顔を上げた。その瞳には、深い悩みの色と、そして、ほんの少しだけ、救いを求めるような光が宿っていた。
「……弥生さん……」
彼が、何かを言いかけた、その時だった。
「あー! 航先輩! やっぱりここにいたー!」
間の悪いことに、あの声が、またしても響き渡ったのだ。
莉子ちゃんが、満面の笑みで、こちらに駆け寄ってくる。
そして、私と航くんが、肩に手を置いた状態でいるのを見て、一瞬だけ、その笑顔を凍りつかせた。
「……あれ? もしかして、お邪魔でした……?」
莉子ちゃんの声には、明らかに、棘があった。
そして、その視線は、私に向けられていた。
まずい。
最悪のタイミングだ。
私の心の中に、再び、黒い嵐が吹き荒れようとしていた。
もう、笑顔の仮面を被っている余裕なんて、どこにもなかった。




