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第十三話:波紋を呼ぶ後輩女子

遊園地での、夢のような一日。それは、私と航くんの関係を、確かに新しいステージへと押し上げたはずだった。毎日のメッセージはさらに親密さを増し、電話で話す時間も増え、次に会う約束(もちろん「取材」という名の)も自然とするようになった。彼の書く小説は目覚ましい進歩を遂げ、それを読むことは私の大きな楽しみとなっていた。彼の描くヒロイン(=私)が主人公と心を通わせていく様に、自分のことのように胸を高鳴らせる日々。


年の差や将来への不安が完全に消えたわけではないけれど、隣に彼がいるという確かな温もりと、共有した特別な時間の記憶が、私の心を支えてくれていた。このまま、少しずつ、焦らずに関係を深めていければいい。そう、信じていた。


だが、ラブコメのセオリー通りというべきか、穏やかで幸せな時間というのは、えてして長続きしないものらしい。私たちの間に漂い始めた、この甘く満たされた空気を揺るがす、新たな風が吹き始めるのに、それほど時間はかからなかったのだ。


それは、遊園地デートから数週間が過ぎた、ある平日の放課後のことだった。

私は、大学の講義を終え、いつものように市立図書館へと向かっていた。今日は、航くんも学校帰りに図書館に寄る、とメッセージで連絡があった。彼に会えると思うと、自然と足取りが軽くなる。最近は、図書館で一緒に過ごす時間も増えていた。隣同士の席に座り、彼は執筆、私は卒論の資料読み。時折、小声で言葉を交わしたり、目が合って微笑み合ったりする。そんな、静かで穏やかな時間が、私はとても好きだった。


図書館に着き、閲覧室へと入る。窓際の、いつもの席に、彼の姿を見つけた。ノートPCに向かい、真剣な表情でキーボードを叩いている。その集中している横顔を見るだけで、また胸がドキリとする。彼の、この真摯さが好きなのだ。


「航くん」

そっと声をかけると、彼ははっとしたように顔を上げた。そして、私の姿を認めると、ぱっと表情を輝かせた。

「あ、弥生さん! お疲れ様です!」

「お疲れ様。執筆、捗ってる?」

「はい! なんとか……! この前の遊園地のシーン、ようやく形になってきました!」

彼は、少し興奮した様子で、小声で報告してくれた。その嬉しそうな顔を見ていると、私も嬉しくなる。


「隣、いい?」

「あ、はい! もちろんです!」

私は、彼の隣の空いている席に静かに腰を下ろし、自分のバッグから卒論用の資料を取り出した。さあ、私も集中しないと。


……と、思った矢先だった。


「あの……すみません!」


すぐ近くから、明るく、少しだけ甲高い声がした。

私と航くんが同時に顔を上げると、そこには、一人の女子生徒が立っていた。

小柄で、華奢な体つき。肩にかかるくらいの明るい茶色の髪を、今日はツインテールにしている。くりくりとした大きな瞳が、好奇心いっぱいにこちらを見ている。ブレザーの制服は、私や航くんの通う高校とは違うものだ。


(……誰だろう? 高校生……かな?)


見覚えのない顔だ。私たちに何か用だろうか?


彼女の視線は、まっすぐに、私の隣に座る航くんに向けられていた。そして、次の瞬間、彼女の顔が、まるで宝物でも見つけたかのように、ぱあっと輝いたのだ。


「やっぱり! あなたが、もしかして……『月見航路』先生、ですか!?」


……え? 月見航路?

聞き覚えのある名前。それは確か……航くんが使っているペンネームのはずだ。

なぜ、この子がそれを知っている? しかも、「先生」付けで?


隣を見ると、航くんは、完全に固まっていた。目を白黒させ、口をパクパクさせている。まさか、現実世界で、しかもこんな場所で、自分のペンネームを呼ばれるとは思ってもみなかったのだろう。その動揺ぶりが、なんだか少し面白い。


「……えっと……まあ、そう、ですけど……」

ようやく、航くんがか細い声で肯定する。

「わあ! 本物だ! すごーい! 私、大ファンなんです!」

彼女は、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて、喜びを全身で表現している。そして、勢いよくぺこりと頭を下げた。

「私、橘莉子って言います! 先生の小説、『年上お姉さんとの甘々デイズ』(仮)! 毎日、更新チェックしてます!」


橘莉子……。航くんの、小説の、大ファン……?

信じられない。彼に、そんな熱心な読者がいたなんて。しかも、こんなに可愛い、年下の女の子が?


航くんは、まだ状況が飲み込めていないようで、ただただ戸惑いの表情を浮かべている。

「え……あ、ありがとうございます……」

なんとか、それだけを絞り出すのが精一杯のようだ。


「私、先生の小説、本当に大好きで! 特に、ヒロインの弥生さん! めちゃくちゃ可愛くて、憧れちゃいます!」

莉子ちゃんは、キラキラした瞳で、熱っぽく語り始めた。その矛先が、不意に私の方にも向いた。

「あ、もしかして、お隣にいらっしゃるのは……?」

彼女の大きな瞳が、じっと私を見つめてくる。なんだか、値踏みされているような……?


「あ、ああ、こちらは、桜井弥生さん。いつも、俺の小説のアドバイスをしてくれてる人で……」

航くんが、慌てて私を紹介する。

「弥生です。はじめまして、橘さん」

私も、にっこりと笑顔を作って挨拶を返した。内心では、少しだけ、いや、かなり動揺していたけれど。


「弥生さん……! やっぱり! 小説の弥生さんと、雰囲気がそっくり! すごく綺麗で、優しそうで……! わあ、本物の弥生さんだー!」

莉子ちゃんは、まるで憧れの芸能人にでも会ったかのように、さらに興奮して、私に詰め寄ってきた。

(……え? ちょっと待って。この子、私がモデルだって、気づいてる……!?)

その、あまりにもストレートな反応に、私は思わず顔が引きつる。航くんは気づいていないのに、なぜこの子は……?


「先生! やっぱり、弥生さんのこと、モデルにしてるんですよね!? そうですよね!?」

莉子ちゃんは、興奮冷めやらぬ様子で、航くんに問い詰めている。

「えっ!? い、いや、それは……!」

航くんは、しどろもどろになって否定しようとするが、顔は真っ赤だ。もう、バレバレじゃないか、この鈍感くんめ!


「もー、隠さなくてもいいじゃないですかー! こんなに素敵な人が隣にいたら、モデルにしたくなる気持ち、すっごく分かります!」

莉子ちゃんは、屈託なく笑って言った。そして、また私の方に向き直る。

「弥生さんも、航先輩のこと、応援してるんですよね? いいなあ、私も、もっと先輩とお近づきになりたいなあ……!」


……航先輩? いつの間に、そんな呼び方に?

そして、「お近づきになりたい」……?

その言葉に、私の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。


この子……ただのファンじゃないのかもしれない。

航くんに対して、明らかに、特別な好意を持っている……?


その可能性に思い至った瞬間、さっきまで感じていた微笑ましさや、航くんへのちょっとした優越感のようなものは、一瞬で吹き飛んでしまった。代わりに、胸の中に、どす黒い、冷たい感情が広がっていくのを感じる。


(……嫉妬……)


美咲に指摘され、自分でも認めたはずの感情。それが、今、明確な「対象」を得て、牙を剥き始めたのだ。この、目の前でキラキラした笑顔を振りまいている、無邪気で、積極的で、そして……若い、女の子に対して。


「……橘さん、ここは図書館だから、もう少し静かにした方がいいんじゃないかな?」

私は、努めて冷静に、そして、少しだけ冷たい声で、彼女に注意を促した。自分でも驚くほど、声のトーンが低くなっているのが分かる。「頼れるお姉さん」の仮面が、剥がれかけている。


「あ……! す、すみません! つい、興奮しちゃって……!」

莉子ちゃんは、私の声の冷たさに気づいたのか、少しだけ驚いた顔をして、慌てて声を潜めた。でも、その瞳の奥には、まだ好奇心と、そして、ほんの少しだけ、挑戦的な光が宿っているように見えた。


「……でも、いいなあ。弥生さんは、いつも航先輩の隣にいられて。私も、もっと先輩とお話ししたいです。小説のこととか、それ以外のことも……」

彼女は、わざとらしく、ため息をつきながら言った。明らかに、私への牽制だ。


(……この子……!)


年下だと侮っていた。可愛い後輩ファンだと思っていた。でも、違う。この子は、明確な意志を持って、航くんに近づこうとしているのだ。そして、私という存在を、ちゃんと認識している。


「……ごめんね、橘さん。航くんも、これから執筆に集中したいみたいだから」

私は、彼女の言葉を遮るように、きっぱりと言った。そして、航くんの方を向いて、笑顔を作る(必死で)。

「ね? 航くん」

「え? あ、は、はい! そうなんです! 今日は、これから大事なシーンを書かないといけないんで……!」

彼は、私の意図を察したのか、慌てて話を合わせた。


「……そっか。残念です……」

莉子ちゃんは、あからさまにがっかりした表情を見せたが、すぐに笑顔に戻った。

「じゃあ、仕方ないですね! 執筆、頑張ってください、先輩! 私、応援してますから! ……弥生さんも、先輩のこと、よろしくお願いしますね?」

最後の言葉は、明らかに私に向けられていた。その笑顔には、やはり、どこか挑戦的な響きがあった。


「……じゃあ、また!」

莉子ちゃんは、そう言って、今度も嵐のように去っていった。


残されたのは、重苦しい沈黙と、私の心の中に渦巻く、黒い感情だけだった。


「……すみません、弥生さん。なんか、騒がしくて……」

航くんが、申し訳なさそうに言った。

「……ううん、大丈夫だよ。……元気な子だね、橘さん」

私は、努めて平静を装って答えた。でも、声が震えていなかっただろうか。笑顔は、ちゃんと作れていただろうか。


「……はい。すごく、熱心なファンみたいで……。ちょっと、びっくりしましたけど……」

彼は、まだ少し戸惑っているようだ。莉子ちゃんの、あからさまな好意には、全く気づいていない様子。……本当に、どこまで鈍感なんだろうか、この子は。


(……でも、今は、彼を責めている場合じゃない)


問題は、私自身だ。

あんなにも、嫉妬心に心をかき乱されてしまった自分。

余裕のあるフリもできずに、冷たい態度をとってしまった自分。

年下の女の子相手に、こんなにも醜い感情を抱いてしまうなんて……。


(……私、本当に、最低だ……)


自己嫌悪で、胸が苦しくなる。

美咲は「それが恋だ」と言ってくれたけれど。こんなにも、苦しくて、醜いものだなんて、思ってもみなかった。


ふと、机の上に置かれていた、あるものが目に入った。

それは、猫のイラストが描かれた、小さなメモ帳。さっき、莉子ちゃんが航くんにサインを求めて押し付けていたものだ。彼は、サインを書いた後、そのまま無造機に置いていたらしい。


(……このメモ帳……)


なぜか、その可愛らしい猫のイラストが、今の私には、ひどく不愉快なものに見えた。まるで、莉子ちゃんの存在そのものが、私たちの間に割り込んできたことを象徴しているかのように。


私は、何も言わずに、そのメモ帳から視線を逸らし、自分の本へと目を落とした。

でも、もう、文字は全く頭に入ってこなかった。

ただ、心の中に渦巻く、黒い感情と、そして、すぐ隣にいる、愛しいけれど鈍感な彼の存在だけが、やけにリアルに感じられるのだった。


穏やかだった日常に投げ込まれた、小さな石。

その波紋は、確実に広がり始めていた。

そして、それは、これから始まる、より大きな嵐の、ほんの始まりに過ぎないのかもしれない。

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