第一話:穏やかな午後の、小さな出会い
桜の花びらが風に舞い、新緑が目に眩しい季節。私の大学生活も、いよいよ最終学年、四年生の春を迎えていた。周囲が就職活動だ、インターンシップだと騒がしくなっていく中で、私はと言えば、まだどこか他人事のように、その喧騒を眺めているだけだった。
文学部に籍を置き、卒論のテーマをぼんやりと考えたり、週に数回のカフェでのアルバイトをこなしたり。友人たちとのおしゃべりは楽しいし、読書に没頭する時間も好きだ。穏やかで、満たされた日々。そう言えるのかもしれない。
けれど、心のどこかで、ほんの少しだけ、物足りなさを感じていたのも事実だった。このまま、大きな波風も立たずに卒業して、社会に出て……そんな未来予想図に、確かな手応えや、胸が高鳴るような期待感を、まだ見出せずにいたのだ。
「弥生はさー、もっとガツガツ行けばいいのに。せっかく美人で頭もいいんだから」
カフェの休憩中、いつものように呆れた顔で私にそう言ったのは、大学で一番親しい友人であり、バイト仲間でもある早川美咲だ。ショートカットが似合う、サバサバとした性格の彼女は、私とは対照的に、常にエネルギッシュで、目標に向かって突き進むタイプだった。
「ガツガツ、ねぇ……。私、そういうの、あんまり得意じゃないの、知ってるでしょ?」
私は苦笑しながら、アイスティーのグラスを傾けた。
「得意じゃない、じゃなくて、やらないだけでしょ? 弥生は、いつもどこか一歩引いてる感じがするんだよね。恋愛も、就活も」
「……そうかな」
「そうだよ。もっと欲を出してもいいのに。失敗したっていいじゃない。まだ若いんだからさ」
美咲の言葉は、いつもストレートで、時に耳が痛い。でも、それが彼女なりの優しさであり、私を心配してくれていることの表れだと分かっているから、素直に聞くことができる。
「……まあ、考えてみるよ」
曖昧に微笑んで、私はその話題を打ち切った。美咲の言うことはもっともだ。でも、そう簡単に自分を変えられないのが、私という人間だった。波風を立てるよりも、穏やかに、静かに過ごしたい。傷つくことや、失敗することを、過剰に恐れてしまう。そんな臆病さが、私の根っこにはあるのだ。
そんな、代わり映えのしない、けれど平和な日常を送っていたある日の午後。
私は、卒論の資料を探しに、市立図書館を訪れていた。比較的新しいこの図書館は、明るく開放的で、静かで落ち着ける雰囲気が気に入っていて、よく利用している。特に、窓際の閲覧席は、外の緑を眺めながら読書や作業ができる、私のお気に入りの場所だった。
その日も、運良く窓際の席が一つ空いていたので、そこに腰を下ろし、借りてきた専門書を広げた。今日のテーマは、近代文学における恋愛描写の変遷について。なかなか興味深い内容で、私はすぐにその世界に没頭していった。
どれくらいの時間が経っただろうか。ふと顔を上げると、いつの間にか、隣の席に誰かが座っていた。気配で気づかなかった。かなり集中していたらしい。
ちらりと視線を向けると、そこにいたのは、一人の男の子だった。
制服を着ている。高校生だろうか。少し癖のある黒髪に、やや猫背気味の姿勢。机の上にはノートパソコンが開かれていて、彼はその画面を、まるで睨みつけるかのように、真剣な表情で見つめていた。時折、唸るような声を漏らしたり、頭を抱えたりしている。
(……なんだか、すごく悩んでるみたい)
微笑ましい、というよりも、むしろ少し心配になるくらいの深刻さだ。一体、何をしているのだろう。受験勉強? それにしては、参考書のようなものは見当たらない。パソコンの画面に映っているのは、真っ白なテキストエディタのようだ。点滅するカーソルが、彼の思考の停止を物語っているかのようだった。
(……レポートか何かかな? それとも……)
私の視線に気づいたのか、彼がふと顔を上げた。目が合う。
少しだけ、驚いたような、戸惑ったような表情。大きな瞳が、不安げに揺れている。歳の頃は……高校二年生くらいだろうか。まだ、少年っぽさが残る顔立ちだ。
(……あ、見ちゃってた。ごめんなさい)
心の中で謝りつつ、私はすぐに視線を自分の本へと戻した。邪魔をしてはいけない。彼は彼で、何か真剣に取り組んでいるのだろうから。
だが、一度気になってしまうと、どうしても意識が向いてしまう。
彼が、また小さく唸る声。時折、響く、キーボードを叩く音……いや、叩こうとして、ためらって、結局やめる、というような、もどかしい音。そして、深い深いため息。
その一挙手一投足が、なんだか放っておけないような、妙な親近感を覚えさせた。私自身も、卒論の構想が行き詰まると、よくあんな風になってしまうからだ。
(……頑張ってるんだな)
心の中で、そっとエールを送る。
と、その時だった。
「……うーん……ダメだ……!」
彼が、とうとう耐えきれなくなったように、小さな、しかしはっきりとした声で呟き、がっくりと机に突っ伏してしまったのだ。その背中が、なんだかとても小さく、頼りなく見えた。
思わず、くすりと笑みが漏れてしまった。いけない、静かにしなければ。
だが、その瞬間、彼がバッと顔を上げた。私の笑い声が聞こえてしまったのだろうか。しまった、と思ったが、もう遅い。
彼の顔は、驚きと、羞恥と、そして少しだけ怒りのような色が混じって、赤くなっていた。
「あ……ご、ごめんなさい! 笑うつもりじゃなかったんだけど……!」
私は慌てて、小声で謝った。
彼は、むっとした表情でこちらを睨みつけてきたが、私が本当に申し訳なさそうな顔をしているのに気づいたのか、すぐに気まずそうに視線を逸らした。
「……いえ……別に……」
ぶっきらぼうな返事。でも、根は悪い子ではなさそうだ。
(……なんだか、可愛いかも)
不覚にも、そう思ってしまった。拗ねたような、子供っぽい表情が、年下の男の子特有の可愛らしさを感じさせる。もちろん、恋愛対象として、ではない。あくまで、弟分のような、そんな感覚で。
「……何か、難しい課題でもやってるの?」
少しだけ、お節介心が働いて、私は話しかけてみることにした。このまま気まずい空気でいるよりは、その方がいいだろうと思ったからだ。それに、もし私が何か手伝えることがあるなら、力になってあげたい、という気持ちもあった。
彼は、驚いたように顔を上げた。まさか話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
「え……? あ、いや……課題とかじゃなくて……」
しどろもどろになりながら、彼は答えた。そして、何かを言いかけて、口ごもる。
「……個人的な……趣味、みたいなものですから……」
そう言って、彼は自分のパソコンの画面を隠すように、少しだけ体を傾けた。よほど、見られたくないものなのだろうか。ますます、気になってしまう。
「趣味? パソコンで?」
「……はい。まあ……」
彼は、歯切れ悪く答える。その様子から、あまり人に言いたくないことなのだろう、と察した。
(深入りするのはやめておこうかな)
そう思った、矢先だった。
彼が、意を決したように、顔を上げて、こちらを真っ直ぐに見つめてきたのだ。その瞳には、先ほどまでの戸惑いは消え、代わりに、真剣な、そしてどこか切実な光が宿っていた。
「……あの」
「はい?」
「……もし……もし、笑わないで聞いてくれるなら……話しても、いいですか?」
彼は、少しだけ震える声で、そう尋ねてきた。
その、あまりにも真剣な眼差しに、私は少しだけ驚き、そして、引き込まれた。この子は、一体、何をそんなに真剣に悩んでいるのだろうか。そして、それを、なぜ、見ず知らずの私に打ち明けようとしているのだろうか。
「……もちろん。笑ったりしないよ。話してみて?」
私は、できるだけ優しい声で、促した。
彼は、一度、ごくりと唾を飲み込んだ。そして、深呼吸を一つしてから、小さな、しかし、はっきりとした声で言った。
「……俺……小説を、書いてるんです」
「小説?」
「はい。……それも、ラブコメを」
ラブコメ……?
意外な言葉に、私は少しだけ目を見開いた。この、真面目そうで、少し内向的に見える男の子が、ラブコメを?
「……ラブコメが、書きたいんです。読んだ人が、キュンとしたり、幸せな気持ちになれるような、最高のラブコメを……。でも……」
彼は、そこで言葉を切り、俯いてしまった。
「……俺、恋愛経験とか、全然なくて……。だから、リアルな描写とか、キャラクターの気持ちとかが、全然、書けないんです……。いくら考えても、薄っぺらい、ありきたりなことしか書けなくて……。才能、ないのかなって……」
彼の声は、だんだんと小さくなり、最後は消え入りそうだった。その横顔には、深い悩みと、そして、諦めに似たような色が浮かんでいた。
その姿を見て、私の心は、強く揺さぶられた。
ラブコメを書きたい。でも、書けない。その、純粋で、切実な悩み。そして、自分の才能を疑い、苦しんでいる姿。
それは、他人事とは思えなかった。私自身も、卒論や、あるいは人生そのものに対して、同じような無力感や、自信のなさを感じることがあるからだ。
そして、何よりも、彼の「ラブコメを書きたい」という、その夢。
それは、なんだかとても、素敵だと思ったのだ。
人を幸せな気持ちにさせたい、という、その優しい願い。それを、こんなにも真剣に、そして不器用に追い求めようとしている姿。
(……応援したい)
心の底から、そう思った。
この子の夢を、笑ったり、馬鹿にしたりするなんて、絶対にできない。
むしろ、全力で、応援してあげたい。
「……すごいじゃない」
私は、気がつくと、そんな言葉を口にしていた。
彼は、驚いたように顔を上げた。その瞳には、「え?」という戸惑いの色が浮かんでいる。
「ラブコメを書きたい、って……すごく素敵な夢だと思うよ」
私は、にっこりと微笑んで続けた。
「だって、人を幸せな気持ちにさせる物語なんでしょ? それを自分で生み出そうなんて、誰にでもできることじゃないよ。すごく、価値のあることだと思う」
私の言葉に、彼の瞳が、少しずつ、驚きから、信じられないというような色へと変わっていく。そして、ほんの少しだけ、潤んでいるようにも見えた。
「……経験がないから、リアルに書けない、って悩んでるんだよね?」
「は、はい……」
「……それは、確かに、難しいことかもしれない。でもね」
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめ返して言った。
「経験がないからこそ、書けるものもあるんじゃないかな?」
「え……?」
彼は、完全に意表を突かれた、という顔をした。
「経験がないから、理想を純粋に追い求められる。経験がないから、読者が『こうだったらいいな』って思うような、キラキラした夢を、そのまま描ける。経験豊富な人のリアルな恋愛もいいけど、そういう、真っ直ぐで、一生懸命なラブコメも、私はすごく魅力的だと思うけどな」
私の言葉に、彼は、ただ黙って、瞬きもせずに、聞き入っていた。その瞳の中に、少しずつ、希望のような光が灯り始めているのが見えた。
「だから……才能がないなんて、決めつけないで。まずは、書いてみたらいいんじゃないかな。今の航くん……あ、ごめん、名前、聞いてもいい?」
「あ、はい! 日野航です!」
彼は、慌てて名乗った。
「私は、桜井弥生。弥生って呼んで」
「は、はい! 弥生さん!」
「今の航くんにしか書けない、航くんだけのラブコメを、まずは形にしてみたらどうかな? 上手く書こうとしなくていい。ありきたりだって、気にしなくていい。ただ、航くんが『書きたい』って思う気持ちを、大切にしてほしいな」
私は、できるだけ、優しく、そして力強く、そう伝えた。
航くんは、しばらくの間、何も言わずに、ただじっと、私の顔を見つめていた。その瞳は、もう迷ってはいなかった。何か、大きな決意を固めたかのような、強い光を宿していた。
やがて、彼は、ふっと息をつくと、まるで憑き物が落ちたかのように、穏やかな表情になった。
そして、深々と、頭を下げたのだ。
「……ありがとうございます、弥生さん……!」
その声は、震えていたけれど、感謝の気持ちが、痛いほど伝わってきた。
「なんだか……すごく、元気が出ました。……俺、書いてみます。俺だけの、ラブコメを」
その、吹っ切れたような笑顔を見て、私は、自分のことのように嬉しくなった。少しだけ、お節介が役に立ったのかもしれない。
「うん! 応援してるよ!」
私も、満面の笑みで応えた。
これが、私と、日野航くん――私の、少し変わっていて、純粋で、そして、これから私の心を大きく揺さぶることになる、年下の男の子との、最初の出会いだった。
この時の私は、まだ知らなかった。
この出会いが、私の退屈だった日常を、どれだけ色鮮やかに変えていくことになるのか。
そして、彼を応援するはずの私が、いつの間にか、彼が書こうとしているラブコメの、一番の登場人物になってしまうなんて、夢にも思っていなかったのだ。
(……まあ、可愛い弟分ができたと思えば、悪くないかな?)
そんな、軽い気持ちでいた私自身の、恋愛に対する鈍感さにも、この時の私は、まだ全く気づいていなかったのである。