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今からこの学園を支配する  作者: 総督琉
第一巻『青の陰謀』編
8/15

第六話「あの日のこと」

 決闘の前日。

 鬼椿の策略により、日向と日下の距離は離れた。

 日下は日向を信用していただけに、裏切られたことへのショックはとても大きかった。

 日向も日下のあの表情を見て、過去を思い出してしまった。どうしても忘れたい過去を。

 日向と日下はそれぞれ自分の部屋に籠ったまま光を閉ざす。

 三時間ほど経ってから、日向は顔を上げた。

 過去が自分を蝕んでいる。それでも、これからのことを考えて日向は動き出そうとしていた。

 いつまでも過去に縛られて、今を失うわけにはいかないから。

 何かに引っ張られるように後ろを向きたくなるけれど、日向は起き上がり、洗面所に向かう。

 今の自分の顔を目に刻むために。

「相変わらず暗い表情だな。死んでいるのに生きている、そんな最悪な表情だ」

 自分の顔を見て、日向は睨みつける。

 すぐに首を振り、睨むことをやめて自分の顔を見る。

「あの頃の俺と今の俺は違う。もう、変わったんだ。だから、前へ踏み出せ」

 心の奥の闇を振り払うように、日向は顔を洗う。

 そして日下へ会うため、扉に手をかける。

 が、ドアノブに手をかけたところで、日向は止まる。

 鬼椿の狙い、策を考え、思わず動きを止めた。

 日向は思考する。

 もし日下に会ったところで、鬼椿は更に日向と日下を引き裂くように行動するのではないか。例えば扉の前で待ち伏せ、日下に会おうとする日向を足止めするとか。

 日向は鬼椿の策を深いところまで読み解こうとしていた。

 今の日向の集中力は、背後から剣で刺されても気付かないほど深い思考に浸っていた。

「そうか……」

 日向は思い至る。

 鬼椿に勝つためには何をすべきか。

 その一つとして、日向と日下が仲違いをし続けているように装ったまま、決闘の日を迎えること。

 そうであれば、日向はどうやって日下に会いに行くか。

 日向は考え、扉ではなく、背後、窓を見る。

 ここは三階。窓の下は飛び下りても、怪我で済むほどの高さに地面がある。

 日向は窓を開き、飛び下りた。

 すぐ側にある森へ飛び込み、物陰に潜む。

「もし扉ではなく窓の方に鬼椿や椿女がいれば終わりだな」

 だが森には人の気配はない。

 注意深く周囲を見渡すが、人はいない。

 それでも日向は用心深く、体勢を低くしたまま森の深いところへと向かった。




 1



 森の奥には神社がある。

 俺は気付けば森の奥まで来ており、赤い鳥居を見つける。

 まるでそこだけ別次元のような異様な空気感があった。

 常に周囲に人がいないかを警戒しつつ、鳥居をくぐる。

 ひょっとしたら元の世界に戻ってしまうのではないか、そんなちょっとした期待と不安もあったが、そうはならなかった。

 俺は神社を歩き、見渡す。

 神社の中には御守りを売っている場所も、絵馬を売っている場所もない。拝殿や本殿、そこへ連なる灯籠があるくらいで、他には何もない。

 俺は参拝だけして帰ろうと思い、拝殿へ。

 賽銭箱もないみたいだ。

「何もないって思わないでよ」

 まるで俺の心を読んでいるように、誰かが言った。

 俺は声のした方、拝殿を見上げる。

「……え?」

 そこには、神々しい金色の長髪を揺らし、右側にだけ羽を生やした少女が座っていた。

 同い年に思えなくもない容姿だ。

「私は神様」

 不思議体験をしていなければ嘘だと思って帰っているだろうが、今の俺は目の前に神が現れても真っ先に疑いはしない。

「まあ、誰の前にも現れるわけじゃないけどね」

 そう言い、彼女は金髪を払う。

「君は日向大和だね」

 自己紹介をした覚えはないが。

「されてないね。でも私は知っている」

 俺に心を読んでいるような返答に、少しだけ戸惑いを覚える。

「とにかく話をしようか。君はここへ来たんじゃなく、導かれたんだから」

 意味深なことを口にし、彼女は話し始める。

「私はね、どうか生きてほしいと思った相手にはこの御守りを渡しているんだよ」

 彼女の手には御守りが握られている。

 俺はそれをどこかで見たことがある。

「そうだね。君は一度これを見ている」

 相変わらず俺の心を見透かしたように、彼女は言う。

「これは君には渡さない。その代わり、話をしてあげるよ」

 彼女は御守りをしまう。代わりに口を開く。

「前にある少女がここを訪れた。君がこの学園に入学した日のことだ」

 全てを知っているかのように、彼女は語り始めた。

「その少女は君が入学する以前からある悩みがあった。次第に彼女はこう呼ばれるようになった。"パートナー殺し"と。どうしてか分かるかな」

 彼女が誰の話をしているのか分かった。

「今回のようにペアを組む選別で、毎回のようにペアが死んだからですか」

「正解だ。彼女に優しくしてくれた人も、化け物も、皆彼女に対して疑いの目を向けるようになった」

 この学園では、多くの他種族が人間に対して鋭い目を向ける。

 であれば、その優しさも最初から標的にするための優しさだったのではないだろうか。

 それを否定するかのように、彼女は続ける。

「確かに人は弱小種族と言われ、多くの人外が人に対して絶好の標的としか思っていない。だが全てが全てそうではない。時に優しい化け物だっているんだよ。ただ純粋に優しくありたい化け物だって。だが今回疑いの目をかけるようになったのは、それら優しさを持ち合わせた彼らだった」

 それはつまり、彼女の味方はいなくなった、ということ。

 それがどれだけ辛いことか、苦しいことか、俺は知っている。


「最後に一つ、問いかけを投げよう。なぜ君はあの日、あの場所で彼女に出会った?」


 その問いかけを残して、彼女は花びらが風に吹かれて飛んでいくように、姿をくらませた。



 2



 俺はある情報を知るため、腕時計型端末を起動し、ある機能を使っていた。

 アマレイズレコード。

 それはあらゆる情報が眠り、保管されている空間。そこへアクセスできる機能。

 だが条件はある。

 この学園には図書館が存在しており、その図書館に無償で提供されている本などの情報であれば無償に入手できる。またその他にも、食堂で購入できるメニューやカラオケにある曲、それら無償で提供される情報は全て無償で得られる。

 だが情報によっては、あるものを消費しなければならない。それが貢献度だ。

 貢献度を消費することで非公開の情報でさえも入手することができる。

 俺は一度、鬼椿の貢献度の増減を確認するためにこの機能を使っている。その情報を得るために必要だった貢献度は15。

 入学してから日も浅く、貢献度30の俺からすれば相当大きな買い物だ。

 選別を有利に進められるチケットの情報も入手したかったが、それ以上の貢献度を消費しそうだったので、すぐには情報の入手はしなかった。

 試しに今確認してみると、消費する貢献度は20。

 入手するには貢献度が足りない。

 諦めようとしたが、光画面の右上に注意書が表示される。


『貢献度が足りない場合、足りない分はマイナスとしてカウントされます。ただし、マイナスとして許容される範囲はマイナス9まで。それ以上を超えるマイナスを得た場合、即座に魔王の生け贄となります』


 たとえ今回消費しても、マイナスは5。

 俺はしばらく考え、情報の入手を行う。

 画面には選別を有利に進められるチケットについての情報が記載される。


『──選別特権チケットの効果

 高等部一年における「ダブルデュエル」での場合

 ・対戦相手を決めることができる(ペアを組んでいない相手でも、強制的にペアを組ませて対戦相手にできる。ただし、片方がペアを組んでいる場合はできない。また、既に相手が対戦相手を決めている場合もできない)

 チケットの購入に必要な貢献度は100』


 どうやら鬼椿は嘘をついていなかったらしい。

 効果は対戦相手を決めることだけ。対戦日までは決められない。

 だとすれば鬼椿は対戦日を決めるために、更なる手を打ってくるだろう。

 対戦日は片方のペアが申請を出し、相手のペアの片方が許可をすれば承諾できてしまう。

 俺が入学する以前から、鬼椿は日下さんに接触を試みていた。そして先ほど神社で出会った少女が言っていたことから踏まえるに、既に日下さんの心は折れかかっている。

 鬼椿があと少し手を加えるだけで、日下さんは簡単に対戦日を決めてしまうだろう。


 俺はさらに3ポイント消費し、日下さんの部屋番号を入手する。


 さあ、行こう。



 3



 二十時くらいだろうか。

 俺は空を覆い始めた闇に紛れ、日下さんの部屋を訪れた。

 周辺に見張りがいないことを確認する。

 インターホンを押し、顔をカメラに向ける。

 出てくれればいいけど……。

 しばらく待っても日下さんは出てこない。

 家を出ている可能性は低いため、もう一度インターホンを押す。

 音沙汰はない。

 このまま帰るわけにはいかない。

 俺はメールを開き、日下さんにメッセージを送る。


『会いたい』


 これは長期戦になるかもしれない。

 俺は壁に寄りかかろうとインターホンに背を向けたところで、扉が開かれる音がする。

 振り返ると、顔を下に向けながら日下さんが扉の向こうに立っていた。

「日向くん……、どうして……?」

「会って話をしなきゃと思ったんだ」

 俺は真っ直ぐ日下さんの目を見る。

 日下さんは目を逸らし、また顔を下に向ける。

「でも……」

「あのカフェでの出来事は全て誤解だ。でも、それだけじゃ疑惑は晴れない。だから話をしに来た。もっと深い話を」

 俺は待つ。

 日下さんが出す答えを。

 しばらくして、日下はゆっくりと顔を上げる。

 目は合わなかったが、それでも大きな変化だ。

「入っていいよ。特におもてなしはできないけど」

 そう言い、日下さんは俺を部屋に案内した。

 部屋に入り、俺は日下さんとともに椅子に座る。机を挟んで対面で。

「本当に、あれは誤解だったの?」

「ああ。カフェで鬼椿が言っていた裏切りの話は全て嘘だ。あの時すぐに言葉が出なかったのは、入口付近の席にいた椿女の魔法にかかっていたから」

 あれ、と抽象的な表現。

 俺はそれを明確にするため、あえてその内容に触れて話す。

「そっか……」

 特に反応はしない。

「うん、だよね……。私の早とちりだってのは、薄々分かってた。日向くんがそんなことをするはずがないんだってこと……私は分かってた……」

 表情が曇る。

 今、日下さんの目には過去が映っている。

 人を信用できなくなった原因が日下さんの過去にある。

「俺が入学する前、日下さんは鬼椿に強迫されてたんじゃないの?」

 俺は確信に至り始めていた疑惑をぶつける。

「……うん。私は……ずっと強迫されていた」

 これまで幾つもヒントはあった。

 日下さんは自分の能力がとても重宝されるものだと言った。鬼椿は日下さんを狙っている理由はそれだろう。

 そして鬼椿が対戦相手に俺と日下さんを狙った理由。まだペアを組む前、どうして鬼椿が日下さんと組むよう脅したのか。あれは神社で会った少女が言ったように、ペアを殺して日下さんを追い詰めるため。

 だから俺が狙われていたのには、二つの理由があった。鬼椿の復讐と、日下さんへの執着。

「ねえ、日向くんは話をしようって言ったよね」

「ああ」

「聞かせてくれない。日向くんの話を」

 話そうとして初めて、俺はまだ自分の過去を思い出すことに恐怖しているのだと気付く。

 あの過去はまだ、痛みでしかない。

「俺は……」

 心臓が痛い。

 胸が締めつけられる。

 それでも言わなきゃ。

 伝えなきゃ。

 どうして俺が、日下さんに会いに来たのか。

 俺は自分の過去を打ち明けて、前に進まなきゃいけない。

「俺は、愛されたことがない」

 口にするのさえ嫌悪してしまう。

 それほどの言葉を、俺は口にした。

「俺は生まれてから一度も親に愛されたことがない」

 より一層内容を明確にし、話し続ける。

「気付いたのは小学生の頃だ。運動会の日、昼食の時間、俺は隅に座って一人で弁当を食べていた。でも、そんな子供は俺の他に誰もいなかった。だから自分の家庭が普通じゃないことに気付いた」

 きっと周りを見なければ、普通に気付かなければ、俺は自分の家庭に疑問を思わなかったのかもしれない。

 いや、気付けないということは良いことではない。さらに残酷な、この上ない苦しみでしかない。

 気付かなければいけなかった。

「きっと、それだけなら耐えられたのかもしれない」

 耐えられるはずがない。

 親が子に愛情を注がないというのは、子供にとってどれほど悲しいことだろうか。

 愛情を知らずに育つということは、どれほど苦しいことだろうか。

 だがそうでも言わないと、俺は耐えられない。

「俺が耐えられなかったのは、毎日親から虐待を受けていたことだ」

 毎日ではないだろう。

 だが、思い出せる日々の全てで、親から虐待を受けていた。

「俺は子供の頃からずっと一人だった。家で会話をすることもなく、だからといって一人で知らない世界に飛び出すことが怖かった」

 一度も親に外に遊びに連れていってもらえることがなかった。

「人と話すのが怖かった。会話なんてあまりしたことがないから」

 親はいつも機嫌が悪かった。

 話しかけても、無視されるか、殴られるか、一番酷かったのは頭を踏まれたことだ。

 頭がへこむんじゃないかとさえ思えた。

「何をするにも実行できなかった。何をすれば怒られるか、分からなかったから」

 机に置いてあるお菓子を食べたら怒られ、親に抱きついたら怒られ、冗談を言ったら怒られ、目に見えるところに傷を負ったら怒られる。

 痛いよ、苦しいよ、辛いよ。

「俺は、そんな人生を送っていた。だから、毎日泣いていた。それでも逃げる場所がなくて、笑える場所がなくて……笑い方も分からなくて……」

 過去を思い出すだけで、全身を殴られる痛みが走る。

 殴られていないはずなのに、頭や身体に歪みが生じる。

「ずっと、辛かったんだね」

 日下さんは深入りはせず、ただ話を聞いてくれた。

「でも、唯一救いがあったとすれば、それは三輪だった。三輪は、俺に手を差し伸べて、助けてくれたんだ」

 地獄のような毎日に訪れた唯一の光。

「でも、俺は彼女を裏切った。だから……彼女とは仲が悪いままなんだ」

「そっか……。じゃあ、仲直りしないとね」

「そうだな……。できたらいいな……」

 それが難しいことだと分かっている。

 きっと叶わないことだ。

「じゃあ、日向くんも一人なんだね」

「ああ……」

 きっと日下さんも一人なのだ。

 俺は話を終え、しばらく沈黙が訪れる。

 今、日下さんは何を考えているのだろう。

 俺の話を聞いて、何を思ったのか。

 同情か、哀れみか、共感か。

 先に長い沈黙を破ったのは、日下さんだった。

「次は私の話だね」

 そう言って、日下さんは覚悟を決めたように口を開く。

「私が生まれた世界は誰もが優しくあれる世界だった。人が人に優しくできる、そんな世界。この学園みたいな校則がなくても、人が人に優しいことだけを率先して行う世界だった。だから私は異世界に来るまで、それ以外の性格の人がいるなんて思わなかった」

 彼女の故郷は、俺の家庭とは全く別のものだ。

 羨ましいとは思いつつ、日下さんが俺にしてくれたように、俺は静かに彼女の話に耳を傾け続ける。

「初めてこの学園に来た時、私はただ怖くてずっと泣いていた。でもある人が助けてくれたの。その人が色々教えてくれて、選別でも助けてくれた。でもある時、その人の性格は一変した」

 日下さんの表情は一気に曇る。

「ある選別で異能を発現する機会があったの。その時、私にある異能が目覚めた。その異能を知った時、その人は私を誰の手にも触れさせないよう、束縛した。時には私に暴力も振るい、他人に近づくことを許さなかった。でもその人は敵を作りすぎた。だから、鬼に殺された」

 きっと鬼椿のことを言っているのだろう。それとも椿女と二人がかりで。

「それで助かるはずもなく、今度は鬼椿が私を狙った。私が逃げるように、縋るように、助けてくれる人を求めた。でも、私を救ってくれた人全員が、鬼椿の策略で死んでいった。そんな日々が続いて、いよいよ私が殺しているんじゃないか、そんな疑念が当たり前のように出てきた。

 ──だから私は一人になった」

 日下さんが受け続けてきた痛みも、相当なものだ。生きていくことも拒みたくなるほどのもの。

「本当はあの日、私は死ぬつもりだった。せめて校門に行って、外に出れるか試してみようと思った。そんな時、日向くんに会った」

 だからあの日、俺は日下さんに会ったのか。

「これで最後って決めた。私は君を信じて、裏切られたらそこまでにしようと思った。君に異能を打ち明けて、反応次第で終わろうとした。でも邪魔が入って、結局言う勇気を二度も出せなかったけど」

 魔法戦を行った講義室で日下さんが言おうとしたのを、鬼椿が刀を振るって邪魔した時のことだろう。

「ねえ、私は、まだ悩んでいるよ。日向くんを信じるべきか、それとも終わるべきか」

 日下さんはここで初めて俺の目を見た。

 瞳は揺らいでいる。

「簡単に他人を信じることはできない」

 それが俺の出した答えだった。

「じゃあ、終わるべきだね」

「でも──」

 俺は日下さんの言葉を遮り、続ける。

「信頼ってのは時間をかけて積み重ねていくものだと思っている。だからこの先、もう少しだけ、俺と一緒に歩いてくれないか」

 俺は日下さんなら信用できると思っている。

 なぜ彼女に過去を打ち明けたのか。

 日下さんが俺に似ていると感じたからだ。

 彼女の過去を聞いて、改めて彼女を信頼できるかもしれないと思った。

 だから彼女なら──

「日下さん、俺を信じる時間をください」

 俺は自然と涙を流していた。

 明確な理由は分からない。

 ただ、彼女の過去を聞いて、同じような痛みを経験した人に会えたから、俺は感じたんだ。

 ずっと一人だった。

 でも、彼女がそれを終わらせてくれるのではないかと。

「俺はまだ弱い。それでも、きっと愛はあるんだって思いたいから。知りたいから。だから、生きようと思ったんだ」

 俺は愛を知らない。

 だから愛を知りたいと思ったよ。

「一緒に生きよう。一人じゃ無理でも、二人でなら」

 一人でいることは辛い。

 苦しいことを誰にも相談できず、吐き出す場所もなく、慰めてくれる相手もいない。

 でも、一人と一人が会ったなら、一人が二人になったなら、今まで以上の困難にだって立ち向かえる。

 日下さんの手をとり、そっと握りしめる。

 彼女の熱が肌を通して伝わってくる。俺の心音も、肌を通して日下さんに伝わっているのだろう。

 俺は日下さんの目を見る。

 気付けば彼女も泣いていた。

「日向くん、私は……生きる理由を見つけたよ」

 日下さんの目は俺を真っ直ぐに見ていた。

「だから君と生きる。君の心音を感じながら、私はこれからを生きていくよ」

 お互いに手を取り合って、俺と日下さんは前に進む。

 きっとこの先も辛いことがあるだろう。

 それでも今日この日を乗り越えたのだから。

 過去を語り合えたのだから。

 日下さんは笑った。

 俺も笑っていた。

 泣いているのに、笑ってる。

 不思議だな。

 こんな感情になるのは。


「ありがとう日下さん。日下さんのおかげで、俺は満たされたんだ」


 心が何かで満たされていく。

 この感情に、俺は心地よさを覚えた。


「ありがとう日向くん。私を救ってくれて」


 彼女は大きく笑った。


 互いに手を重ねて、俺たちは──










 俺はこの日、恋をした。

 まだ出会って間もない。

 それでも過去を吐き出し合った彼女に。

 同じような過去を通して、繋がり合うのを感じた。

 彼女の側にいたいと思った。

 彼女が側にいてほしいと思った。


 だから俺は──







 ──日下朝が好きだ。

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