第三話「決闘前夜」
俺が異世界に転移したのは九歳の頃だった。
今にして思えば、あれは必然だったのかもしれない。
現実から逃げたい。
自分の居場所を見つけたい。
そんな子供のような願望から、異世界は俺の前に現れてくれたのかもしれない。
俺は異世界を求め続けた。
もしかしたら、異世界を求め続けた者にのみ、異世界は現れるのかもしれない。
では彼女は異世界を求めていたのか。
それは彼女に聞いてみなければ分からない。
きっと答えてはくれないだろうけど。
だったら日下さんはどうなんだろう。
彼女は異世界を求めていたのか。
それも、聞いてみなければ分からないことだ。
……そうか。
だよな……。
会って話さないとな。
俺は一通のメールを日下さんに送った。
返信が返ってくるかどうか、それは分からない。
でも、会わなきゃ。
会いたい。
多分彼女は俺と同じなんだ。
俺と同じで、過去に裏切られ続けてきた。
だからあの時見せたあの表情は、あんなにも胸に突き刺さった。過去を思い出させた。
『ごめん』
俺はその言葉を言えなかった。
だから今度は、
『ありがとう』
とともに君に言うよ。
必ず言うから。
だから、また会おう。
日下さん。
1
私は信じていた。
私は信じ続けてきた。
他人を疑うなんて、私にはできないから。
たった一日、それだけ。
いや、もう一日も彼と一緒に過ごしたんだ。
けど、そう思っていたのは私だけだったのかな。
私は自分の胸の中に芽生え始めた邪悪な心に気付いた。
「ダメっ。出てきちゃダメ」
私は胸を押さえ、自分に言い聞かせる。
私が悪に染まっても、それは悪の数が増えるだけ。
だったら私は悪に侵されても、今までの自分を貫き通したい。
「……やだよ」
苦しみ続けるなんて。
痛みを負い続けるなんて。
そんなの、嫌だよ。
私はもう泣きたくない。
私はもう苦しみたくない。
だって痛いのは辛いから。
だからどうか、私を助けて。
誰でも良いから私を助けてよ。
私はふと顔を上げる。
腕時計型端末を起動し、あるメールを見る。
それは今日、日向くんに相談しようと思っていたこと。
今の今まで、彼が入学する前から私が悩まされ続けてきたこと。
もうこの選択しかない。
私は……
救われたいんだ。
2
講義棟のとある一室。
三輪はある人物と待ち合わせをしていた。
既にその人物がいる部屋へ、三輪はノックをして入室する。
「こんにちは、先生」
三輪は室内で座っている男に挨拶をし、男の側に寄る。
「それで、魔法戦の講義ではどのような戦いを見せたんですか」
三輪の目的は──
「すぐに分かるさ」
男は三輪のとは少し違う、白い腕時計型端末を起動し、教室の黒板に光の画面を表示させる。
画面には日向と日下が映り、二人の前方にはペアを組んでいる二人が立っていた。
これは昨日の六限の時間、日向と日下が受けていた魔法戦での映像。
三輪は画面を凝視する。
「期待しているのか?」
「失望させてくれることを願っているんですよ」
三輪はそう返し、画面に意識を向ける。
前線は日向、後衛が日下。
相手も前衛と後衛で分けている。
対戦開始の合図とともに、日向は素手のまま相手の前衛に向けて疾走する。
相手の前衛は最初から構えていた剣を握り直し、向かってくる日向に向けて振り下ろす。傍目から見ても単純な攻撃。
日向の手もとにはいつの間にか刀が生成されていた。その刀を相手の剣にぶつける。
直前で刀を生成した日向の行動は、相手の動きを鈍らせる。突如目の前に出現した刃物に相手は反射的に後ろへ下がる。
それを日向は逃がさない。
相手の後衛が直線的な電撃を放つが、生成した刀を避雷針がわりに放り投げ、前衛の懐まで忍び込んだ。
直後、前衛の腹部に燃え盛る拳が炸裂する。
「あいつは私ほどの魔力もないし、力もない。だが、それを埋め合わせるには十分なほどの頭脳がある」
そう言う三輪は、強く拳を握りしめていた。
「嫌な奴だ。頭脳があるくせに、私からあれを奪ったんだから」
三輪が日向に対して抱く感情は憎しみばかり。
「彼らの対戦相手は鬼椿と椿女のペアで確定した」
「本当は私が相手になりたかったがな」
「日向大和と鬼椿、どちらが勝つと思う」
「勝つのは鬼椿だよ。だって──」
だって三輪は望んでいる。
日向大和に復讐を。
3
すっかり暗くなった二十五時。
鬼椿は少し前に届いていたメールに気付いた。
メールの主は日下だ。
鬼椿は日向が入学する以前より、日下に対して何度も接触を試みていた。
それは鬼椿が彼女の能力を知っていたから。
鬼椿は日下を手に入れるためにこれまで何度も策を講じた。
日下が親しくしている者全てにちょっかいをかけ、選別で脱落させたり、
日下に毎日仲間になるようにメールを入れ、時には脅したり、
他にも日下に対して精神的攻撃を続けた。
そして今回、彼女が信じかけていた日向が裏切ったように見える状況を作り、日下の心を折った。
信頼関係など成り立たない。全ては利益を追求する関係性でのみ構築されると、日下の精神に刷り込んだ。
鬼椿はこれまでの努力が実になったと実感した。
それはメールの内容を見ても明らか。
『私はあなたの仲間になるよ』
日下は鬼椿に屈した。
それほどまでに、鬼椿は日下の心を折ったのだ。
鬼椿は胸を高鳴らせる。
「日向、お前はあの時俺を上回る策で傷をつけた。だが今度は俺の番だ。力が上でも、策でもお前を上回らなきゃ格下認定はできない。だから──」
鬼椿の策は日向を窮地に落とした。
彼に残された唯一の糸は、一人で三人を倒すこと。
「九日なんて待てねえよ。とっとと始めたいな。いや、それも可能か」
鬼椿は微笑む。
「こっちには日下という手札がある。日下が了承すれば、決闘の日はいつにでもできる」
全ては鬼椿の思惑通り。
鬼椿は勝利を確信する。
「さて、始めるか」
鬼椿は日下にメールを送る。
『決闘の日を明日にしろ』
少し間が空き、日下の返答が返ってくる。
『分かった』
鬼椿はメールの内容を見て、ますます胸を高ぶらせていた。
「いいね。これだから策略は毒にも薬にもなる。策略は暴力にも匹敵する」
鬼椿は知っている。
自らが策略によって傷を負ったからこそ、策略の重要さを理解している。
あの日以来、鬼椿は策略で日向を上回れるように思考を巡らせてきた。戦略のための講義も受け、入学してから彼の頭脳は格段にレベルアップした。
既に日向を上回った、そう実感できるほどに。
鬼椿は万に一つも日向に勝ち目がないことを確信している。
なぜなら鬼椿は知っているから。
日向がここ数年は戦いもない世界で暮らし、実力を落としていることを。
一日たりとも修行の時間は与えない。
欲しければ策略を巡らせろ。
でなきゃ今の俺を倒すことはできない。
「明日が楽しみだ」
そう言いながら、少しだけ空しさもあった。
かつて自分に傷をつけた日向が、こんなところで終わってしまうことへの失望。
だからといって容赦はしない。
これは命を懸けた決闘なのだ。
一つでも譲歩すれば、敵に付け入る隙を与えるだけ。
だから鬼椿は一切の油断はしない。
たった少しでも日向に勝機は与えない。
間もなく死闘が始まる。
勝者は鬼椿か、それとも──
そして、朝を迎える。