プロローグ「新世界へ」
ある日を境に、何かが変わった。
変わったのは世界なのか、自分自身なのか。
答えは分からない。
あの頃から、ずっと自分に問い続けている。
──どうしてお前は満たされない。
1
高校に入ってから、より一層将来を考えるようになった。
大学に行くのか、就職するのか。
両親や学校の先生、友達に問われる。
「俺は大学に行くつもりだ」
ただの先延ばし。
どんな職種につくのか、決まていないからこその延命措置。
心のどこかで思っていた。
どこに行こうと俺の心は満たされない。
いや、きっとあの日、あんな経験をしたから、今の自分にも、これからの自分にも不満を抱き続ける。
そうだ。
俺は──
階段の上、窓から差し込む光を浴びて、彼女は俺を見下ろす。
「久しぶりだな、日向。相変わらず、退屈そうな顔してやがる」
「そうか……。帰ってきたのか」
「──三輪」
──異世界体験
それはこの世界ではそれほど珍しくもない。
一万人に一人が巻き込まれる不思議体験。
ある者は緑豊かな世界で冒険したり、ある者は宇宙人との戦争に巻き込まれたり、
またある者は、
魔族のいる世界で死線を潜り抜けたり、
俺と三輪は場所を移し、屋上にいた。
三輪は俺を睨みつける。
「私のことは覚えているな」
「ああ……」
「私もだ。お前のことは片時も忘れたことがない」
怒りを込めて三輪は言う。
視線は俺の胸もとへ。
すぐに俺の眼へ視線を戻す。
「あの日、お前がしたことを私はいつまでも忘れない。当然今も、その事でお前を殺してしまいそうだ」
俺は伏し目がちになっていた。
罪悪感を感じている。
三輪の言うことは最もだ。俺はあの日、三輪を見捨てた。
自分が生き残るために。
「まさか……生きていたんだね」
「当たり前だ」
それは俺への殺意の表明であることは明らかだった。
「俺を……殺すのか」
差し迫った死に恐怖しながらも、懸命に口にする。
それを聞き、やや呆れたように三輪は笑う。
嘲笑ともとれるそれとともに、三輪は俺に言う。
「それも良いわね。でも、残念ながら私は今あなたを殺すようなことはしない」
今、と付けたからには、いつか殺すという意志があるのだろう。
一時的な延命に過ぎない言葉を、俺は黙って受け止めた。
「本当ならずっと異世界にいたままでも良かった。でも、私には目的ができた」
目的があったのではなく、目的ができた。
彼女はこの世界へ戻る気がなかった、ということ。
その目的を知ろうと質問をすることは、彼女の殺意を増幅させるだけ。
だが俺が訊くまでもなく、彼女は口を開く。
「私の目的は、あなたを異世界に連れ戻すこと」
その言葉を聞き、胸の内側が熱くなるのを感じる。
拒んでいるのか、それとも──
「今夜、異世界への扉が開く。お前には私とともに来てもらう」
「……ああ」
俺は一切の感情を表情に表さなかった。
いや、表せなかった。
自分が何を思っているのか、自分でも分からなかったからだ。
「午後9時、またあの場所で」
あの場所……
それがどこを指しているのか、俺はすぐに分かった。
「分かった」
昔とは違う背中を向けて、彼女は俺の前から去っていった。
三輪が去ってからしばらく、俺はただ空を見上げていた。
「おい大和、屋上で女の子と話してたけど、どういう関係なんだよ。もしかして彼女か」
ゆうきが聞いてくる
「何だ、見てたのか」
「チラッとだけどな。で、どういう関係なんだ」
興味深そうにゆうきが問いかけてくる。
「そうだな……」
考えるように上を向き、ふさわしい言葉を捻り出す。
「対等じゃない関係、かな」
「何それ」
ああ、本当に。
「ってか私服だったけど、この学校の生徒なのか」
「さあな」
これ以上追及されると面倒なので、会話を終わらせるように、俺は視線を反対に向ける。
ゆうきもそれを察したのか、これ以上の追及はなかった。
「明日の修学旅行、楽しみだよな」
「そういえば明日だったな」
「班決めの時、ゆかりを誘ったんだけどさ、何でかバレてる?」
「好きなんだろ」
「やっぱバレてたか」
お前は気持ちを隠すのが下手だからな。
「それで、修学旅行中に告白しようと思ってんだ」
「頑張れよ」
「ああ」
そのまま歩いていると、不良の男に絡まれている女子二人を発見した。
「俺と付き合えよ」
「つ、付き合いません」
脅えながらも、女子は拒む。
「だったら仕方ないな。てめえの友達に怪我してもらおうかな」
男の視線は隣の女子に。
「あなたが私に勝てるわけないじゃない」
「てめえは異世界体験者だっけか。生憎と俺も異世界体験者なんだよ」
男は女子目掛けて拳を振り下ろした。俺はすかさず物陰から飛び出し、男の腕を掴みあげる。
「──っ!?」
男は腕を掴まれ驚いたが、すぐに掴まれた状態から逃れようとする。だが俺の握力から逃れることはできず、男は冷や汗を流す。
「お前は……!?」
「生憎と、俺も異世界体験者なんだ」
すぐに力の差を理解したのか、腕に込めていた力を抜く。
俺は男の腕を解放し、男は俺から距離を取った。
「ちっ……。てめえのことは耳にしてるぜ。三年間も異世界で生き抜いたんだってな」
「そうだったな」
「俺も同じ異世界に行ってたらお前よりは強くなっていただろうけどな」
「……」
「まあいい。てめえの顔は覚えておくよ。今度やろうぜ」
そう言って男は去っていく。
「大丈夫だったか?」
女の子二人はホッと胸を撫で下ろす。
「日向くん。ありがとう」
ゆかりは感謝の言葉を述べる。
「そうだ。ちょうど二人に話しておきたいことがあったの」
ゆかりが俺とゆうきに話しかける。
ゆうきは冷静に装っているつもりだろうが、指先に緊張が表れている。
「ど、どうした?」
「明日の自由時間、途中から二人ずつに別れようって話になったんだよね」
「ふ、二人ずつ……! そ、それって……」
「私とゆうき、あかりと大和」
ゆうきはゆかりとの二人きりの時間が約束されて胸を高鳴らせていた。
だがその本命は──
俺は鈍感ではない。
もちろんその狙いが何か。察することはできる。
ゆかりの後ろに隠れたあかりは、恥ずかしそうに俺を見る。
俺はあえて気付いていない装いで振る舞う。
「大和くんもそれで良いよね」
「ああ、構わない」
ゆかりは俺にお礼を言うと、あかりを連れて去っていった。
あかりは去り際、ちらちらと俺に視線を向けてきた。
「いやー、ますます明日が楽しみだな」
俺は素直に言葉を返せなかった。
2
俺はあることを確認するため、図書館へと向かう。
だが入り口の自動ドアの前に立ったことで、ガラス面に反射した三人の姿を捉えることができた。
「なんだ?」
俺は振り返り、三人に視線を向ける。
ゆうき、あかり、ゆかりの三人が俺を追いかけていたようだ。
「えっと……」
二人の視線が戸惑いながらもあかりに向けられる。
あかりは勇気を振り絞るように一歩踏み出すと、俺の目を何度も逸らしながらそれでも見つめる。
「その……日向くん、なんか様子が変だったから……。少し不安で……心配になって……」
そうか。
俺は自分でも分からない内に友達を心配させてしまったんだな。
俺は三人のもとまで駆け寄る。
「すまなかった。皆には心配をかけたな」
「日向くん……」
「俺はある異世界体験者のことで悩んでいたんだ。そのことを調べるために、ここへ来た」
「その人って、もしかしてさっき屋上で話していたあの子か?」
「あ、ああ」
隠しておくべきだったかもしれないが、これ以上三人に心配をかけさせたくない。
異世界体験で知らない人ばかりの状況で、俺に話しかけてくれた三人。
「じゃあ俺たちも一緒に調べるよ」
「ありがとう」
俺は三人に感謝を伝える。
その後、図書館へと入る。
俺はあらゆるニュースや記事が閲覧できるコンピューターに真っ直ぐ向かい、あるワードを入力する。
『異世界体験者』
入力後、幾つかの詳細検索を済ませ、ここ最近異世界から帰ってきた人の一覧を確認する。
ここ数日で異世界から帰ってきたのは大規模な異世界調査チームと、そのチームが連れ帰った小学生の少年だけ。
他に帰還者の情報はない。
三輪神奈という名前を入力しても、未だ異世界へ行ったまま帰ってきていないことになっている。
「どうだった?」
心配そうにゆかりが声をかける。
「ああ、これで調べものは済んだ」
ここで得た情報をもとに、俺はある推察に思い至った。
恐らく三輪は、この世界に帰還してから家族のもとへは戻っていない。
俺は不安を見せることなく、むしろ安心したような表情で三人に振り返った。
「そっか。ってか結局私たちが付き添った意味なかったね」
「ごめん……。迷惑だった……よね……?」
あかりが不安そうに聞いてくる。
「いや、そんなことはない」
あかりたちがいるから、俺はこの世界での暮らしも悪くないと思っている。
ただ一緒にいてくれるだけで、俺は十分幸せだ。
「じゃあまたね」
図書館を出て、結局俺たちは解散した。
3
午後六時を過ぎた頃。
俺は最後にどうしても行きたかった場所へと向かった。
それは三輪の実家だ。
俺と三輪は幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあったということで、俺が異世界から帰還してからも仲良くしてもらっている。
インターホンを押し、家の中から足音がして、家主が顔を出す。
「あら大和くんじゃない。さあさあ、上がって」
彼女の母親に迎えられ、俺は家にお邪魔する。
居間に通され、俺は座布団に正座し、差し出されたお茶を一口飲む。
彼女の母親も机を挟んで座布団に正座し、自分用のお茶を机に置く。
「あなたを見る度に思い出すわね。私の娘を」
「はい……」
「あの子はあまり他人に懐かなかった。どんな相手にも高圧的に接する態度が、誰もを遠ざけてしまったからね……」
彼女の母親は娘のことを思い出し、その余韻に浸っていた。
俺も当時のことを思い出し、彼女がムカつく子供だったと改めて感じる。
どんな相手でも上から目線で、その分彼女には実力があった。小学生にしては頭がよく、運動神経も抜群。俺とは比べ物にならないほどに優れていた。
自信のない俺から見れば、彼女は魅力的に映った。だから俺はいつも、彼女の背中を追いかけていた。
「神奈は、俺にとってヒーローだったんです。神奈がいたから、俺も勇気をもらえた」
それは異世界でも同じだった。
「そう。あの子は……立派だったのね……」
彼女はどんな強敵を相手にしても、決して諦めることはなかった。
最後まで戦い抜く、不屈の闘争心を持っていた。
異世界で泣き喚いた俺も救ってくれた。
だから本当は……
「神奈はまだ生きていますよ」
「……え?」
彼女の母親は目を見開き、俺を凝視する。
端から見れば根拠のない台詞だ。
彼女はここにも立ち寄っていないため、この世界に帰ってきていることも知らないだろう。
「俺はこれから、異世界に行きます」
「え……っ? それって……どうして……」
「俺は神奈を連れ戻します。だからそれまで、待っていてください」
本当は言うべきではなかったのかもしれない。
彼女を連れ戻せる根拠なんて、俺にはない。
それでも、感情的に口に出していた。
彼女がこの家に顔を見せないのなら、俺が今まで世話になったこの家族のためにも安心させてあげたかったから。
「大和くん……」
「帰ってきたら、またあの頃みたいに皆でキャンプに行きましょう。きっと、皆でいれば楽しいですから」
俺はそんな幸せを夢想する。
そんな日は来ないかもしれない。
それでも、掴むための道が目の前に見えている。
「大和くん、必ず帰ってきてね」
「はい」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
彼女の母親に見送られ、俺は自宅へと帰っていく。
4
実家に帰り、自分の部屋につく。
机に置かれたペンダント。
それを手にし、相変わらず変化がないことを感じる。
「まだ起きないか……」
この世界に来てから三年。
"それ"は沈黙を続けている。
"それ"がこの世界で目覚めることはないのだと確信した。
「やはり俺にも、異世界は必要なんだな」
涙ながらに呟き、握りしめたペンダントを額に引き寄せる。
本当はこのままあいつらと一緒に居たい。
ゆかりにゆうきが告白して、その結果を見届けたい。
あかりに告白されて、俺はそれを──
もっと学生生活を送りたかった。
でも──
それを彼女は許さない。
それに俺は満たされない。
分かっている。
分かっているから……。
そしてその時が来る。
5
午後九時。
俺はある場所へと足を運んでいた。
そこは俺と彼女が忘れるはずのない、深い森にある神社。
最悪を予感させる暗がりに包まれている。
肌を通して伝わってくるのは、憎悪か、殺意か。
その発生元である彼女は、俺を歓迎しているのか歓迎していないのか。
闇夜で表情は見えないが、笑っていないことだけは確かだ。
「随分と遅かったな」
「今は九時三分か」
コンパス時計をポケットから取り出し、目を落とす。
「それにしても、まさか逃げずに来るとわな。てっきり逃げると思っていたよ」
「そんなことはしないさ。俺は……」
思いがけず言葉を詰まらせる。
「罪悪感からとでも言うつもりか? 私がお前を許さないことは確定している」
迷いなく言い放つ。
俺にそれを拒むことはできない。
ただ受け入れる。
それでも彼女に報いることはできないだろう。
それでも受け入れなければいけない。
その怒りを。
ただ──
「どうして家族のもとへ戻らなかったんだ」
「答える意味ある?」
「これからまた異世界へ行くんだろ。だったらせめて顔だけ見せて安心させてあげるべきなんじゃないか」
「私を見捨てて一人で帰ってきたお前がそれを言うか」
俺は答えられず、沈黙する。
「さて、そろそろか」
時間が来た。
俺の背後、鳥居、くぐる場所はまるで時空が歪曲したような違和感があった。
異世界への扉が現れる。
「さあ、行こうか」
その扉をくぐれば、俺は異世界へと行く。
もう二度と彼らにも会えない。
そんな予感がする。
彼女は扉の前まで来て、俺を一瞥する。
「迷っているのか」
「……いいや、覚悟はもう……決めたよ」
嘘だ。
それでも扉をくぐることしか俺の頭にはなかった。
だって──
俺はこの世界を求めていない。
"俺が求めているもの"はこの先でしか手に入らない。
そうでも思わない限り、振り返ってしまうから。
本当は分かっている。
俺は今まで友達がいる生活なんて送ってこなかった。
だから、もしこの世界にとどまったとして、それからのことは俺にも分からないことだ。
楽しいのかもしれない。
満たされるのかもしれない。
でも、それでも……
過去の罪が、俺を離さない。
ごめん。
ごめん……。
俺は鳥居へと踏み出す。
ごめんね、みんな。
ごめんね、神奈。
俺は異世界へ行く。
でもこれだけは胸に刻んでおこう。
何があろうと、神奈、俺は一緒に帰りたいよ。
あの日々に。
「ああ……」
目をとじ、そして──
彼女とともに扉をくぐった。