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【毎日更新】ユウシャ・イン・ワンダーランド ――ゼロ・ローグ―― ~異世界に来た元サラリーマン、異世界ライフのスタートは野盗の群れでした~  作者: むくつけきプリン
降り立つ異世界

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道標

 だだっ広い草原。

 そよぐ風。

 あとは、大きな……月(?)。

「デケぇなぁ………」

 見たことのない模様、無数の不規則なクレーターを見せる衛星が、地表に同じ面を見せたまま無数の恒星をバックに自身も輝いている。

 大きさは俺が見たことのある月の十倍以上と、余りにデカいので、どれくらい時間が経ったのか分かりづらい。

 地表から見て六十度ほどは角度を変えただろうか。まだ朝になる気配はないものの、天辺は通り過ぎた、といったところか。

 俺も結構な時間をこの草原で歩いていたようだ。そろそろ休憩するか。

 相変わらず小川の傍を歩いているわけだが、この小川の水を飲む気には、まだなれないでいた。

「ふぅ………」

 さて、身体を休めたところで脳が休んでくれないのが問題だ。ただ、今あれこれと考えることは無駄ではないだろうから、ずっと今の状況について考え続けている。

 そうそう、ところで俺はもう既に、この星が俺のいた地球とは異なるものだと考えているが、だとすれば水という物質の組成、あるいはそれによって織りなされる景色もまた同じなのだろうかと思う。俺がこの場所で水を飲むことに踏み切れない理由だ。

 しかし現に、こうして呼吸はできているわけだし……。

「俺の身体の時間が巻き戻っちまったことに関しては保留だけど」

 それなら大人になるまでの記憶があるのは不自然だ。俺がこの状況になるまで人知を超えた何かに巻き込まれたこともまた、ほぼ確定的だろう。

 ………まんま“異世界転移”ってやつだな。

 転生でないのは、俺が元の俺自身の身体を維持しているかのように思われるから、とりあえずそう判断しているに過ぎない。身体の成長こそ巻き戻ってしまっているが、これは紛れもない俺自身の、子供の頃の身体……だと、思われるからだ。

 これで転生した新しい自分の肉体です、なんて分かってしまったら、いよいよ何も信じられない。

「さて………」

 休憩の度にあれこれと考え、気が済んだら歩き出す。そんなサイクルを三回ほど繰り返した頃。

「ん?」

 ふと、視線を水平よりやや下に落とした時、視界の端で何かが動いた気がした。

 基本的にくるぶし丈の草ばかりの草原だが、時折、小さな動物くらいなら隠れられそうな草むらが顔を出す。

 俺が違和感を感じたのは、ちょうどその草むらだ。広さは四坪程度のようだが、調べるには近づかなければならないだろう。

「………」

 しかし、ここで俺は日和った。

 藪をつついて蛇を出す真似は避けたい。

 俺は何かの気配を感じながらも、草むらから離れ、大きく迂回路を取ろうとしたところで。

 ―――ガサリ。

 草むらが揺れて、中から()()が飛び出して来た。

『ルルゥ!』

「――!?」

 まるでフクロウのような鳴き声。

 俺はもちろん驚いた。

 しかし、俺が驚いたのは、何かが飛び出して来たことではなく、その飛び出して来たものの姿を見とめてのことだ。

「あれは……!?」

 茶色い毛並み、大きな耳、つぶらな瞳。

 間違いない。

「野ウサギだと!?」

 ………ここが異世界ではないかとか疑っていた、さっきまでの自分をぶん殴ってやりたい。

 しかし、そう思ったところで、じゃあはるか頭上に輝くあのデカい天体は何なのだと思い直す。

 あれは“月”ではない。

 いや………()()()()()()()なのだろうが、俺の知る地球という天体に固有の衛星である“月”ではないのだ。

「くっ………待て!」

 気付けば走り出していた。

 しかし、野ウサギはくるぶし丈の草をかき分け、信じられないスピードで疾走する。

 どんどん、どころか、あっという間に距離が離され、遠くの草むらの中に見えなくなってしまう。

「………」

 やっぱり無理だよな、と俺は足を止め、諦めた。

 追いつけない、完全な白旗。

 今のウサギの疾走は、俺の脳裏にしっかりと焼き付けられたのだった。

 あの後ろ足を揃えてピョンピョン跳ねて行く姿を思い出せ。あれは草食動物の「本気」だった。可愛らしさも微妙に含むが、それ以上に激しく、力強い疾走だったのだ。

 地形によっては肉食獣の追跡を振り切ることもある走力を誇るウサギだ、ただの人間の男である俺が追い付ける道理はないか。

 罠も道具もなければ捕獲は絶望的だな。

 それにしても惜しい。

 果たしてアレが俺の知る“ウサギ”と同種なのかどうかだけでも知りたかったが………。

「近くに巣でもあるのか?」

 なんて思いつつ、探す気はゼロで、とりあえず俺はウサギの消えた方向へと足を進めた。

 ウサギを追う気はないが、俺の進んでいた方向と同じであるため仕方ない。

「………ん?」

 ―――と。

 それは何の偶然か、ウサギとの遭遇で気分と進路を変えずに進んだから、というべきか。

 ドドドド、と、大量の水が激しく落ちる音が、かなり遠くからではあるが聞こえて来た。

「………う、嘘だろ!?」

 月(月の十倍以上のデカさだが、もうあの天体は“月”と呼ぶことにして)の明かりに照らされる草原で目を凝らすと、かなり遠く、小さく森のようなものが見えた。

 山のふもとであるため、遠目では同化してしまって見えづらいが、あれは確かに森である。

「行ってみよう」

 決断にさしたる迷いは無かった。

 変化のない景色と歩き詰めで疲弊していたこともあり、心身が変化を望んだこともある。




 ドドドドドドド………

「すげぇ音……」

 近づけば近づくほど音が大きくなる。

 紛れもない、滝の音だ。

 大量の水が落ちる音。

 近づいて行くと、何のことはない、森かと思った場所は、大きな水の音を囲うように形成された林だったのだ。

 少し進んだだけで視界は開け、目の前に絶景が広がる。

「わぁ………」

 そこに広がっていたのは、谷だ。月に照らされた、大きな滝だ。

 広い広い川が、広い深い谷へと落ち、大きな滝を成している。

 大量の水がドドドと大きな音を立てて谷底へ落ちていく様は大瀑布と表現すべきものであり、そしてそんな大瀑布の先に形成されていく長い長い谷は、大渓谷としか表現し得ないものだった。

 何より、その規模だ。とてつもなく大きいのだ。現代の技術をもってしても、谷の向こうに橋を渡す作業が途方もないものであると思わされるほど。

「身一つで進むには、これ以上は無理かな………」

 しかし幸いにも、夜空にはあのやたらデカい月があるため、最低限の視界は確保できる。むしろ地球より少し明るいくらいであるため、少し場所を変えればもっと色々と調べられそうだ。一応は、今後の水源候補として。

 この場所を迂回する前に、とりあえず辺りの様子を見ておくくらいはしても良いだろう。

 ただ―――。

「底が見えないって……マジか………」

 谷底を眺めようと谷の縁から恐る恐る顔を出して見るが、滝つぼの辺りどころか、もうもうと立ち込める水煙のせいで、この辺からは谷底もろくに見えない状況だ。

 水の流れ落ちる滝の周辺には濡れた岩肌が覗いており、おそらく高い湿度と水の流れの陰になっている位置関係のためだろう、非常に豊富な苔が随所に見られるため、崖の上り下りは絶望的。もしこれ以上の冒険心を出そうものなら、あっという間にツルンッ、スッテンコロリン、ヒューッ、ドシャッ、である。

 およそ人の手など入ってはいなさそうな、大自然の絶壁、大瀑布と大渓谷。

 夜の暗さも相まって、下流と思われる視界の右下方には長い大渓谷が地平まで続いており、そのいっそ不気味なほどの威容、スケールの途方も無さを、ちっぽけな我が身にこれでもかと刻み込んでくるようだ。

 さながら、神が地面を二つに割りました、とでも言わんばかりの規模だ。もし同様のことを言われたら、今の俺なら半信半疑ながらも「そうなんだ」と頷くしかない。

 これほどのもの、地球にだってそうそうあるものではないからな。かの有名なグランドキャニオンも、長さならこれに匹敵する、いや勝るかもしれないが、この谷のようにぱっくりと割れながら、その大きな裂け目を地平まで維持しているとなれば、目の前のこれこそ真の大渓谷と言えるかもしれない。

 また、これほどの大瀑布だ、落下の途中で水がいくらか飛散するとしても、それなりの水量が予想される。谷底に落ちることそのものへの危険を差し引いても、万一生き残ったとして、その水流にただの人間が耐えられるとは思えない。

「………」

 確かに、このようなものは地球では見たこともなかったな。

 まだ夜空のやけにデカい月を除けば、ファンタジーらしいファンタジーに出くわしていないが………その片鱗は徐々に見え始めている。

「………俺にはまだ早い気がするんだ」

 誰にともなく呟いた。

 だって、ほら、ここが本当に異星、いや異世界だって言うならさ?

 こういう異世界モノって、例えば転生前に女神からチートをもらったりとかするものじゃないか?

 着の身着のまま異世界に降り立って、通りがけに野党を倒して無双して、美少女を助けて……。

 それで最初のポ〇モンをゲットして、「君に決めた!」をどんどん増やしていくのがセオリーじゃないか?

「………ないな」

 俺にはチートもなければ、こうして異世界転移後に野党にも出会っていないし、美少女との出会いも皆無だ。

 なーんにも起きていない。イベントらしいイベントも無ければ、そこで無双する俺の活躍も無い。

 こんな枯れた異世界導入があるかよ。泣けるわ。

「………」

 まぁ、正直に言うと、ほっとしている部分の方が大きいが。

 小さい頃ならいざ知らず、つい最近までは社会を知り始めたサラリーマンをしていた俺からすれば、自身を含めた大切な者、つまり身内の安全こそ第一だ。

 よく考えたら俺ってチートらしいチートも無いしな。こんな状況でむくつけき男連中から成る、歴戦の野党集団に出会ってもみろ、あっという間に身ぐるみはがされて奴隷にでもされるか、最悪の場合殺されて終わりだぞ。

 ………いや、もし氷の魔法が使い勝手の良いものであれば、そしてある程度の医療技術が確立しているようなら、俺の身体をバラして臓器だけ取り出して保存し、販売ルートを使って売りさばくこともできるわけだ。その前提があるなら、むしろ何も持っていない俺の身は積極的に解体されることだろう。

 なんて恐ろしい話だ。背筋が凍る。おっと、俺は氷魔法が使えたのかもしれない、なんてな。

「ふぅ………」

 まぁ、それもこれも、俺にチート能力が備わっていれば万事解決だ。賊なら蹴散らすし、美少女は助ける。野郎のことは知らないが、話が通じるようならできる限り助けもするだろう。俺は紳士なのだ。

 雄大な大自然の景色(ただし夜景ではあるので、不思議な感覚だが)を目の前に精神的余裕を取り戻した俺は、紳士に非ざるポーズ、つまり両足を肩幅以上に開いてお相撲さんのようなポーズをとり、両腕を前方に伸ばした!

「滝よぉぉぉォォォォォ! 割れろォォォォォォ!」

 喉の奥から低く唸るような声を徐々に大きくしていきながら、ひたすらに叫ぶ。

 身体のどこにどのように力を入れれば良いのかは分からないものの、とりあえず全身がプルプルと震えるくらいには力んで叫ぶ。

「なんか出ろォォォォォォォォ!」

 気分はお通じの悪い時の排便だ。格好悪いが、でも仕方ないだろう?

 我ながら滑稽なことだが、他に誰もいないのだ、試してみる価値はあるさ……!

「出てくれェェェェェェ! 頼むゥゥゥゥゥゥ!」

 一人になった社会人(少なくとも精神的には社会人経験のある)男の、可哀想な姿がこちら。

「ファイア! ファイガ! メラ! メラゾーマ!」

 なぜ試すのが火系の呪文、それも有名なヤツばかりなのかは置いておくとして、我ながら、現実逃避のために必死だと思う。

「じゃぁ……かめはめ波ーッ!」

 かれこれ、五分ほどそのようにしていただろうか。

 薄々分かっていた無駄骨は、流石に五分が限界だった。

 これでも粘ったほどだ。

 何度も我に返りそうになるのを何とか堪えて、夢中で自身の内側に目を向け、その囁きを逃すまいと耳を澄ませた。

 結果は見ての通り。

「………………………」

 俺は谷の縁に腰を下ろし、虚無顔で体育座りをしていた。

「こんなの聞いてねぇよ………」

 ……例えば社会において、「おいおいそんなの聞いてないよ」「俺、何にも言われてないんだけど?」というように、明らかに自身に非が無い場合であっても何らかの責任を押し付けられることはあるものだ。それは例えば報告・連絡・相談などの不足、つまり情報の伝達不足に起因するものであったり、あるいはもっと外的要因により、会社・組織という責任逃れの体系の中で生じる摩擦のようなもの。

 潤滑油がなければうまく回らず、その潤滑油に限って不足するのが世の中。俺は何とか歯車として回転しながら、頭を回転させながら、疲弊していく身体と摩耗していく精神に耳を傾け続けている内に、ゆっくり少しずつ人間としての瑞々しい心を失って―――

「違う、そんなことを考えたいんじゃない」

 ……話を戻そう。

 とにかく、理不尽というのはどうしたって生ずるものだ。誰かが割を食う場合というのは、往々にして起こり得ることなのだ。

 しかし、そこには必ず原因がある。

 理由はあったりなかったりするが、原因は必ずあるのだ。

「………」

 今の俺の状況は、その理不尽の原因に全く心当たりがないということ。

 思えば、俺がこの縮んだ身体でこの辺りの草原に降り立つ直前、生前のハルカとほぼ同一とみられる人物と関わりを持った。当時は酒を飲んで酔っ払っていた俺だが、夜空にはっきりと、幾何学模様―――魔法陣を見た。その中央の黒い穴から、黒い液体が流れ落ちるように、無数の何かが地上に降りてくる様子も。

「………」

 無関係、とは思えない。

 そこまで鈍感にはなれない。

「………ハルカは」

 無事なんだろうか。

 無事だと思いたい。

 俺は自分で言うのも何だが、最後に頑張って身体を張って彼女を守ったと思う。

 あんな状況でわけも分からぬうちに、とりあえず彼女の身を守るべく行動はした。

 だが、俺の意識が消失した後も、彼女が最後まで無事だった保証はないし。

「………………………えっ。ハルカの両親、つまり俺の養親………あと、日本は。世界は、どうなったんだ……?」

 それを考えた時、サーッと自身から血の気が失せていくのを感じる。

 俺は正直、自分が死んだ後のことなどどうでもいい人間だ。

 自分でも、自分はそういう人間なんだと思っていた。

 だが、今の俺は、どういうわけか若返りを起こしてはいるが、生きてはいる。

 とにかく、生きているのだ。

「………」

 今更ながら、俺の生きてきた世界の、いや、俺を生かしてくれた二人のことが頭を過る。

 猛烈に会いたくなってきた。

 とりあえず、一瞬でもいい、会って互いの無事を確認できるだけでいいのだ。

 あの二人は、きっと俺の無事を確認すれば、ほっとした顔をして、抱きしめてくることだろう。

 そして俺も二人を抱きしめ返すのだ。

 どこか元気のない俺を心配する二人に、言ってやるのだ。

『また失恋しちゃったけど、また頑張るだけだからさ。孫の顔見せは、悪いけどもう少し待ってくれ』

 ―――と。

「……よしっ!」

 足に力が入った。

 自らの身体に力がみなぎるのが分かる。

 頭の中が冴えていく。

 ―――ああ、やっぱり家族は偉大だな。

 やるべきこと、やりたいことがはっきりした。

 俺は、俺を育ててくれた二人に会いたいのだ。

 実の娘を失いながらも、それでも生き残った俺に愛情を注ぎ、実の息子のように育ててくれた二人に、恩返しがしたいのだ。

 そうと決まれば、こんなところでいつまでもウジウジしてはいられないだろう。

「まずは安全な水、そして食料の確保が最優先だな」

 後者は最悪後回しでも良いが、前者の条件は可及的速やかに満たす必要がある。

 安全な水の確保方法は何通りかあるが、確実なものとなれば、何にせよ火を起こさなければ話にならない。雨水も確実とはいえないし、そもそも雨など待っていたらいつになるか分からないというのもあるしな。

 火おこしの道具を見繕いつつ、水場………は、近くに、というか目の前にあるか。

 もちろん、あの滝だ。

 水が谷に流れ落ちる前は、大きな滝を形成する水はただの大きな川でしかない。比較的流れも緩やかなようだし、あの場所で汲めばいい。水場の安全性は日中、視界がもっとよく確保できるときに観察して見極めよう。ワニやヘビが潜んでいたら大変だしな。

 逆に、俺より強い捕食者がいなければ、魚などを得るチャンスかもしれない。ワニなどが住んでいれば危険でも、つまりそこにはワニ達が餌とする生物が存在するということだから、安全な場所さえ確保できれば希望はある。

「食料は保留………まずは安全な水と、火………そのために、(まき)と、(つる)っぽい植物………」

 とりあえず頭の中で当面の必要物資をメモしていく。

 できれば乾燥した木材、そして紐や網を作成できる繊維質な植物の発見が望ましい。紐と木さえあればかなり効率的な火おこしができるからな。

 あと、もう谷の縁まで来ておいてなんだが、森の中を積極的に歩き回るなら、やはり日中が良いだろう。それほど鬱蒼とした森でもないし、昼間の方が視界も良いはず。

「問題は、この星、この世界に、昼間が存在するかどうかだが………」

 地球では、その公転軸に対する地軸の傾きから、一定の周期で季節に変化が訪れていた。高緯度地域では、季節にもよるが一日中太陽が昇らない時期、あるいは太陽が沈まない時期もあった。

「高緯度地域……なら、これだけ過ごしやすいのも、緑が豊かなのもおかしいよな」

 ただ、それを考えればこの地域で昼が訪れない、という確率は低いように思われる。

 地球では緯度が高い程寒いのは有名な話だ。地域が高緯度であればあるほど日照範囲が狭まり、地表が温まらない。水分などすぐに凍ってしまうし空気中の湿度は極端に低く過ごしにくい。極寒の地域では植物も満足に育たず、それどころか様々な植物の種子の保管に最適とさえ言われる。人類のための保存、いわゆるノアの箱舟というやつだ。

「………」

 夜空を見上げる。

 相変わらずデカい月が浮かんではいるものの、刻一刻とその高度を変えているように思う。この星における東西南北など全く分からないが、とりあえずあのデカい月が向かっている方向を西とするなら、まず間違いなくあの月はいずれ西の地平線に隠れてしまうだろう。

「………………」

 月明りさえ存在しない暗黒など、来ないとは思う。

 きっと東の空からは太陽のような恒星が顔を出してくれることと思う。

 後は、その日差しが俺の身体にどのような影響を与えるのかを少し調べながら……これは、近くの森で日差しを遮ったりしながら調査可能だ。

「………………………」

 谷の縁に体育座りのまま何もしないというのは結構な不安があるものの、方針が固まった以上は悪戯に体力を浪費しないことに決めた。

 ……まさか、サラリーマンが幼女を助けたら、一人、見知らぬ地であれこれと生きるための方策を練ることになろうとは。

 本当に、気分はサバイバー。

 ただしなろう系のようにはいかない。

 一般人が、一般人にできる最大限の努力をするだけだ。

 まだまだ青臭さの抜けないサラリーマンでしかなかった俺は、キャンプや野営の延長でしかスキルを発揮できないしな。道具が揃えばまた違ってくるだろうが………まずは資源、か。

「………方針も決まった。短期目標と必要物資も定まった。寝るか」

 体力の消耗を抑えるなら。幸いなことに気温はかなり過ごしやすいものだ。日中だって、これより寒いとは思えない。

 もっとも、月が沈んでも太陽が昇るまでにタイムラグがあり、その間に気温が下がってしまうことはあるだろうが………何にせよ、仮眠程度は必要だ、少し体力を回復させよう。


「………………………………………………へ?」


 ―――そう、思っていたのに。

 ここまで、前向きに、今後の身の振り方を考えていたのに。


『――――………………………』


 何か、聞こえる。


「………………………………………おいおい、嘘だろ」


 音のする方―――頭上を見上げた。

 俺の目に飛び込んで来たのは。


「なんだ………………………アレ………………………」


 遠目に見えるだけなのでサイズ感は分からないが、少なくとも小型ジェット機以上の大きさがある、何か。


「…………………こっち、来る………………………」


 バッサ、バッサと。

 小型ジェット機以上の大きさの、翼の生えた、何かは。

 どこからか飛来し滑空してきたと思ったら、月光を背にして、滞空。

 しかし徐々に、俺から見たその大きさは増していく。

 俺のいるこの地表に、近づいている。

 降りようとしているのだ。


「………………………………いや、来ないで」


 ふざけた台詞を言って動揺を抑えようとしたが見事に失敗。

 身体は動かない。すっかり身が(すく)んでしまっている。

 俺は顔を引きつらせたまま、ただ呆然とその飛来する何かを眺めた。


『…………………………………』


 その何か。上空より少しずつ降りてくる巨体の姿が、この目にも少しずつ具体的に見えてくる。

 ちょっとアレ、見覚えがあるんですけど。

 いや、実物はないけど、ほら、映画とか漫画とかアニメとかでさ、よくいるだろ?

 大きな顎、筋肉質の両脚に、大きな翼。全身を覆う無数のウロコと、爬虫類のような瞳。

 全体的に、攻撃力の高そうな見た目の、翼を持つ爬虫類。

 竜だ。

 ドラゴンってやつだ。


「うそうそうそマジか………………マジなのか……ぇ夢か? 夢であってくれこれは、流石に、マジで」


 ………認めよう。

 まだ混乱はあるが、しかし確信しないわけにはいくまい。

 この、目の前で起きた「ふぁんたじー」に。

 ああ、俺って異世界にいるんだなぁ、なんて。


「夢なら覚めろ夢なら覚めろ夢なら覚めろ夢なら覚めろ」


 男が頭上に向けて自らの両頬をつねっている様。絵面としても少々猟奇的だが………だって現状、ヤバくね? 取り乱すのも許してほしい。


「お願いだから、夢なら覚めてくれよぉ!」


 身の危険を感じるどころではない。

 あの巨体、もしかしなくても俺のいる場所に着地しようとしてませんかね。

 大きな翼をはためかせ、そのドラゴンと思しきなにかは。

 俺が、命を蹂躙されることへの本能的な危機感を覚えているとは、思いもしていないだろう。

 その視線は地表を見ているが、俺を見ているかは怪しい。

 なのにこちらに降りようとしている。

 唸り声を上げることもなく、一切の警戒する挙動も緊張もない。

 俺を、単なる石ころ以下にしか思っていないのだ。

 初見でもそれが分かるのは、俺の生き物としての勘だろうか。あるいは生物学的な強さの圧倒的な差を見せつけられ、真っ先に白旗を揚げたこの心が降参しているからだろうか。

 その空飛ぶ爬虫類は、ただこの場所がいつもの停留所、いやヘリポートですけど、とばかりに着地しようとしている。

 数瞬後には、その爬虫類が翼を動かす頻度を極端に減らし、地上にいよいよ着地する挙動を見せた。

 あ、俺、踏みつぶされる。

 そう思った時には、もう目の前に巨体が迫っている状況だ。

 呆然としていたとはいえ、その巨体を視認してから、あっという間だったように思う。

 バッサバッサと、その翼を動かす音がやけに大きく聞こえて。


「うっ!?」


 その竜の翼が起こす風や土埃から、両腕で顔を庇った時。


「―――えっ?」


 突如、浮遊感に襲われる。

 気付けば俺の身体が、浮いていた。

 吹き飛ばされる、なんて、咄嗟に身をひねる隙すらない。何かにしがみつく間もない。

 そして何とも運の悪いことに、吹き飛ばされた先は―――それはそれは、ものの見事に、まるで風に飛ばされるタンポポの種子のように、俺の身が宙を舞った先は―――。


 大渓谷の方だった。


「うっ―――――そだろおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!?」


 耳にうるさい大瀑布の音に、俺のような小者の絶叫はかき消されてしまう。

 ………何のことはない。

 何でもなかったのだ。

 俺が異世界に来ての初めて、(俺にとっての)ビッグイベント。

 突然現れた、いつ来るのかと警戒していたでっかいファンタジーイベント。

 突然現れた竜だったが、しかしソレからは逃げることも、ソレと戦うことすら叶わない。

 俺の身に起きたイベントだが、そこには英雄的、異世界の勇者的な無双劇など、要素としてさえ存在してなかった。

 鎧袖一触。

 そこには、ただ通りすがりの竜の翼の起こす風圧で、吹き飛ばされるだけの。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああ!!」


 あっけなく、強者の風圧で谷底に落ちていくだけの、(ザコ)の姿があるだけだった。

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