始まりの終わり(2)
居眠り運転。不慮の事故。
運転手側に非があるとはいえ、この事故の遠因となった運転手の会社の労働環境にまで議論が及び、全国新聞で取り上げられる事態になった。
恨みをぶつける先は、少なくとも二カ所はあると言えたが、ハルカの両親は「娘が帰って来るわけではないから」と、必要以上の追及をしなかった。事故の裁定を司法に委ねる姿勢は模範的な大人のそれだが、労働環境云々の議論も一過性の話題に過ぎず、結局何一つ報われない。
仏壇に線香を上げるおじさんとおばさん―――ハルカの両親二人を見ていると、どこか諦念に近いものを感じる。
最愛の娘を失った代わりに多額の金を受け取ることとなったが………そんなもの、だからどうした、というところだろう。
二人は立派な大人なので喚き散らすことはなかったけれども、どこか沈んだ面持ちで―――内心は悲嘆に暮れているであろうに―――娘のいなくなった生活に耐えている様は、見ているこちらが耐えきれない。
かと言って、俺の方にも、気を利かせて二人を慰めたりするような余裕はなかった。
事故後、若干だけ記憶のない期間が存在するが、その間も俺はこの人達の世話になっていたのは明白。
俺達にとってはそれほどの、突然で未曾有の悲劇だった。俺達全員の心に、決して埋められることのない穴がぽっかりと空いてしまったようだった。
だから、身寄りのなかった俺が、そのままハルカの家へ引き取られることになった時には、さして驚きもしなかった。そういった流れになるだろうことを、何とはなしに俺も察していた。
けれども、命の恩人の家だ。
正直、俺もハルカが死んでしまってからはまともに笑えなくなったが、最愛の娘に先立たれた親の気持ちこそ、想像するに余りある。
ハルカの両親は、娘を失った悲しさもあるだろうに、心の傷など決して癒えることはないだろうに。
それでも、これまでは養子でしかなかった、出来の悪い俺のことを、一人の人間として見つめ―――二人は愛情をもって、育ててくれた。
だから俺も、その恩に報いたい、自然とそんな風に思った。
その一心で頑張った。
………けれどもやはり出来損ないでしかない俺は、優等生だったハルカのようにはいかず、何ともまぁ、頑張ったところで評価者の溜め息が聞こえてくる始末だ。
結局俺は、それまで通っていた教育機関から他の教育機関へと移ることとなり、そこでいわゆる”普通”の生活を始めることになる。
ハルカの代わりになれなかった俺に、それでも優しかったおじさんとおばさん。
二人は優しかった。そして俺にたった一つだけ、目標をくれたのだ。
初めて会社に出社しようとしていた、当時の俺の脳裏に強く焼き付いた場面。
『せめて、ソウジ君の孫が見れればねぇ』
『まだ早いですよあなた』
夫婦揃って眩しいものを見るような目を俺に向けながら、聞いた側がくすぐったくなるようなことを言ってきた。
それでも、俺はしっかり頷いた。
『分かりました。必ず元気な孫の姿を、見せますから』
ハルカの両親はそれほど子宝に恵まれなかった。
やっとのこと生まれ、育てた一人娘は、俺を庇って死んでしまったから。
だから、俺が精いっぱい、ハルカの両親と―――今は亡きハルカに、報いるのだ。
俺は、いつだか失くしたペンダントの代わりに、生前のハルカからもらった誕生日プレゼント―――深緑の石のペンダントを胸に、そう誓った。
……そう。俺は二人に、今度は孫の顔を見せることで報いようとした、のだが―――。
「この体たらくか……」
自嘲の呟きが夜空に吸われ、消えていく。
夜桜を見ながら傾けた缶ビールは、いつの間にか空っぽになっていた。
おかしいな、俺のビールはどこに……いや、もちろん俺の胃の中へ消えたわけだが。
ああ、俺って本当にダメダメだなぁ………。
結局、立派な大人にはなれなかったし、ハルカの両親には孫の顔も当分見せられそうにない。
笑えなくなってからも何とか表情を作る術を身に着け、人間関係だって頑張ったのに………いつも、肝心なところで上手くいかない。
「……はっ」
一人で酒など飲んでいるから、どんどんと自己評価を下げて、どうしようもない深みにハマっていってしまう。
「ははっ」
そんな自分がマヌケに思えて、さらに自嘲が加速する。
「………冷えるなぁ」
夜風に当たっていると身体がすっかり冷えてしまった。
薄着だったわけではないし酒も入っているが、心が冷えると身体の芯まで冷えてしまう。
ペンダント(俺にとってはハルカとの思い出の品。立派になるぞという決意の象徴)も、今やすっかりくたびれて、何度交換したか分からない紐に通してあるくらいだ。この紐もまた、そろそろ交換しないとな。
ちなみに今のこのペンダントは、紐も他所で購入した物だし、装飾も職人に修理してもらったりで、ペンダントが原形をとどめているかは怪しかった。ハルカからもらった時の面影は辛うじて残っている、と言えるくらいか。
良い歳こいてこんなものを後生大事に持っている大人というのも、何だかなぁという感じだし、誰かに見られたら変な勘違いをされそうだし、余り身に着けていて益のあるものではないし。
冷えた心がどこまでもネガティブなことを思って、俺の全てを否定しようとしてくる。
成人男性が思い出の品とはいえ子供の頃の(少しおもちゃっぽいデザインの)ペンダントを首から提げてるの、キツいって?
おいやめろ、致命傷だぞ。
幼いハルカが選んだものだし、ただでさえちょっとガーリーなデザインなんだよ。ペンダントをしている時は自分の姿を鏡で直視しないようにしているくらいなのに。元々の、あのホック付きの細いチェーンでなくなった分だけマシだろうが。
………まぁ、何はともあれ。
「帰るか」
だが、腰が上がらない。
「……帰らないとな」
足が動かない。
「…………」
次の瞬間にはもはやベンチに座っているのがやっとというくらい、何だかもう疲れてしまった。
それにしても………と、疲労した心が勝手に反省会を始める。
「恋人とは……上手くいっていた気がしたんだけどなぁ………」
結局、全て俺の勘違い。
決して思った通りなどにはいかない人生だが、まさかあんな破局の仕方があるなんて。
「………はぁ」
カランコロン。
空っぽの缶が隣に転がる。もう既に何本あけちまったか分からない。やたら重かったコンビニ袋の中身も空っぽで、今は空き缶を重しにして辛うじて吹き飛ばされないでいる。
「……どうしようも、ねぇだろ」
好きじゃないでしょ、と言われた。
そう言われて、俺は彼女に振られた。
余りにも突然のことだった。
いや、それは俺が今まで気づかなかっただけで、あるいはもっと前から既に―――。
「……くそっ」
情けない。虚しい。酔っ払った男の独り言。
「……気付けたはずだ。何か、見逃したんだ。彼女の、大事なサインを……」
それも、今となっては分からない。
なにせ俺自身が気付けなかったのだ。
彼女が俺に、何らかの不満を抱いていたのだ……と思う。
けれどもそんなサインは、実際に過去に有ろうが無かろうが、気付けなかった俺からは証明のしようがない。
答え合わせのために(せめてもの罪滅ぼしのため、謝罪のために)連絡しようにも、着拒されてるし、ブロックされてるし。
相手からの好意が、何コレ、完全にひっくり返ってませんかね。
え、俺、何かした? また俺何かやっちゃいました?
………………………いや、何もしなかったから、ということなのだろう。
とはいえ軽く……いや、俺的には結構なトラウマものの経験となった。
何が何だか分からないうちに悪い方向へと状況が変わるというのは、ただ漠然と恐怖を誘われるものだ。
どうしようもないから。
「……はっ。ほんと、どうしようもねぇや……」
人生上手くいかないことばかりだ。
幼馴染みが俺を庇って……アイツは死んだのに、俺だけのうのうと生き延びて。彼女の居場所を奪うように。
それでも罪悪感に見舞われる暇がないくらい頑張ったし、おじさんおばさんもすごく気遣ってくれた。
……けれども、最後には誰の期待にも応えられずに。
「……なんで、俺は生きてるんだろうな」
言ってしまえば、惰性だ。
「……どこで、間違ったんだろうな」
考えてみると、最初からだ。
“普通”の人生を歩むことが恩返しになると信じて。
ハルカの代わりに、彼女の両親を幸せにしたくて。
「……なのに、何も、できず……俺は…………」
だったら、俺は。
「何のために………………」
―――何のために、生きているんだろう?
「………………やめだ、やめ。よそう、そんな考えは」
俺はネガティブになり過ぎる思考を振り払った。
我ながら、良くない酔い方だと思う。
一人で酒を飲むと、気分が沈むだけ沈んでしまうのだ。
世間で聞くアルコールの鈍麻作用が、俺のマイナス思考に全く効かない。
酔っては、いる……はず、なんだが。
おかしい。
アルコールは高次の脳機能まで低下させ、神経伝達物質のドーパミンの分泌を促し多幸感が味わえるものではなかったのか。
おかしい。
おかしいよ、この酒。
このアルコール、不良品です。
「……酒にまで振られてやんの」
お前を買ったのは俺だろうが。
このビール、俺に歯向かうつもりか。
やるのか、てめぇ。
上等だ!
お前なんか、こうだ!
グシャッ
「ふぅ……」
ひとしきり空き缶を潰し、ビニール袋にまとめた。
作業の中で心は落ち着いた。ちょうど良い瞑想時間だった。
それにしても、アルミ缶って潰すだけでかなりの省スペースになるよな。
コンビニで買った時は持つのもしんどいほど重かったし、袋が破けそうだなんて思ったくらいなもんだが。
「まるで俺の人生みたいだ」
最初は確かに中身があったのだ。もう潰れてペシャンコだけど。ぺらっぺらのスッカスカになっちまったけど。
ちなみに俺という袋も既に破けている。
本音も愚痴もドバドバと漏れ出しているしな。心の出血大サービスだ。このまま死ねるよ、たぶん。
「これが酒鬱ってやつなのかな……」
まるでアルコール依存症の人間の悩みのようだが、俺みたいにある時ふと大量に飲むっていうのも、心身には良くないよな。
というか、そもそも、簡単に脳にまで作用を及ぼす酒が身体に良いはずがないのだ。健康増進のためのものでなく、単なる嗜好品だからな。身体に良いかもしれないだのと、もっともらしい言い訳が並んでも、結局のところは「ストレスの緩和」を謳っているに過ぎない。
「……うし」
最後には酒そのものへの愚痴という、およそ飲酒する人間にはあり得ない暴挙を切り上げつつ、俺は自宅への帰路につく―――と、その前に。
ガチャガチャと音を立てるビニール袋を手にぶら下げながら、少しだけ公園内を散歩することにした。
「そういえばあの頃も、こうして似たような公園で、似たような気持ちで、一人で腐ってたっけなぁ……」
思い出すのは過去のことばかり。
現在という時間を直視できないと、今に誇れるものがないと、過去の栄光……いや、過去の楽しかった思い出に縋るばかりになる。
我ながら悲しい大人だよ、俺は。
「大人……じゃ、ないよな。俺なんか、クソガキもいいところだろ」
一応、ちゃんとした自己評価は下せるつもりだ。
俺は断じて、立派な人間ではない。成人するだけで大人になれるわけではないと、成人後しばらく経ってようやく気付くのだ。
そんな、どこにでもいる、愚かな男だ。
大人になりきれなかった子供。
大人って何だっけ……。
「ちっ……」
……どうにもこの酒鬱ってやつは、脳を蝕んで……いけないな。油断すると思考がすぐにマイナス方向にいっちまう。
というか、こうなるんならビールなんて飲むんじゃなかったな。
何かイライラしてきた。
アルコールなんか摂取しちまった自分にイライラしてきちまった。
情緒不安定だな、俺。
「――ナンパでもするかぁ! ……したことないけど」
とりあえず、俺は今おかしくなっているのは確かだ。
彼女に振られてから、寂しさを埋めるための女探しとはな。
あげく、したことのないナンパにまで手を染めようとしている。
うーん、我ながらクズだね。
深い傷、鈍い痛みを、別の傷と痛みにすり替えようとしている。別の、もっと軽傷な何かだと思い込もうとしている。
これも俺なりの防衛機制ってやつなんだろうな。
不純な動機だし、決して褒められた状態じゃないだろう。
まぁ、もう、クソくらえだ。
どうにでもなれ。
「どうせ明日も会社だし……適当にその辺の女性に声かけて、拒絶されて、んで帰ってぐっすりスヤスヤ。これで決まりだな」
寝るまでのプランは決まったも同然だ。振られるためのナンパとは、いよいよトチ狂っていると思う。
「……ん?」
ちょうどいいところに、見えた。見えてしまいました、女性が。
女性……いや、もっと幼い。
少女……か?
なぜこんな時間に、一人で。
なぜ、そんな場所で。
「……なんだ?」
俺は今、ちょうど公園から出るところなのだが、さらに少し足を急がせた。
少女の様子がおかしい。
少なくとも、俺の頭からナンパがどうとかいう考えが吹き飛ぶ程度には、少女の様子に違和感を覚えたのだ。
「…………おいおいおいおい! まさか、まさかだよな!?」
妙にオシャレなつくりのこの公園。周囲をぐるりと囲む堀のような水路に渡した橋が、公園の出入り口だ。その橋を渡らないと、公園に出入りすることはできないわけだが。
ただ、少女はその橋の上にいた。橋の、端っこだ。
シャレではなく。
その少女は、欄干に手をかけて身を乗り出すようにして、真下の水路を覗き込んでいたのだ。
やっぱり不穏だ。
その状態から何かをするのなら、何をするにしろ、やめておいた方がいいだろう。
「おーい」
「……!?」
俺が声をかけると、少女はビクリと肩を震わせた。
彼女は、こちらを見て………………見て………………
「……え?」
こ、………見、て……………………
「あ…………あれは!?」
その容姿に、俺は思わず自分の目をこすった。
だって、見覚えがあったから。
「え!?」
ハルカだ。
見覚えがある、どころではない。
今まで忘れたことすらない。
俺が見間違うはずもない。
その赤毛、そのあどけない表情。今にも生意気な表情で笑いかけてきそうな、整ってはいるが少し親しみやすさを感じる顔立ち。
やっぱりハルカだ。
ハルカは、小さい頃―――彼女が死ぬ前の、あの頃の、元気な姿のまま、そこにいて―――。
「……っ!!」
ハルカ(?)は表情を強張らせて俺を見た後、しかしすぐに橋の下に視線を戻し(なぜだか俺のことをシカトして)、水路へ、ひらりと(やけに様になった動作で)身を投げた。
「――!?」
俺は慌てて、橋の欄干に向かい駆け出す。
ハルカが橋から落ちた―――いや、跳び下りた。
……?
なぜ??
なぜ跳び下りた?
「……まさか!」
俺は酔っ払った頭だが、すぐに閃いた。
そういえば幼い頃、ちょうど水路のあの辺にペンダントを落とした気がする!
あー、落としたな! 確かにあの辺りに落としたぞ!
すると、ハルカは、あの時のペンダントを探しに……!?
「間違いない!」
間違いない、あの少女はやっぱりハルカだ―――!
……なんて思ったところで、ふと我に返った。
待て、ハルカは死んだんだぞ。
俺の目の前で。
俺は、ハルカが死ぬところをしっかり見たことがあるじゃないか。
ハルカは死んだ。もういないんだ。
そう自分に言い聞かせる。
するってぇと、何かい、これはもしかして、酔っ払った俺が見ている夢や幻覚の類……?
アルコールって怖いんだなぁ、と思いつつ、目を再びゴシゴシと。頬をつねってみたりなんかして。
少女が跳び下りた橋の欄干のところに着いたので、眼下を見遣る。
いた。
ハルカっぽい少女が。
………やっぱりハルカとしか思えないんだよなぁ。
「これ夢じゃないよな!?」
感覚はある。痛覚なども正常。依然として目の前には、信じられない光景が広がるのみ。
信じられない人物が、水路でバシャバシャと大急ぎで何かを探す様子が見て取れる。
「は、ハルカ……?」
まさか生きていたとは―――いやいや、だから、確かに、あの時死んだんだって。
死んだ……はず、だろ?
だって………ハルカが死んだ直後はおぼろげだが、その後のことは全部、憶えている。
目の前で、ハルカ…だったモノから流れる、大量の血、飛び散った肉片……から記憶は飛んで、ハルカの葬式、幼い彼女のあどけない笑顔の遺影、悲しむ両親、兼、今の俺の養親―――。
「………」
ハルカは死んだ。
絶対に。
なら………これは、一体どういうことだ??
どう見てもアイツはハルカだ。
ハルカ以外あり得ないってくらいの見た目をしている。
具体的には………彼女が亡くなる直前の姿、そのままなのだ。
ハルカ以外あり得ない。
じゃあ………やっぱりこれ、夢、ですか……?
結局夢オチなんですか……??
「なら、夢の中でくらい………っ!」
そう思うと、俺の胸の内を衝動が支配して、この口をついて大きな声が出ようとしている。
混乱はあるが、今の俺はとにかく彼女と話したかった。
夢だろうと、そうでなかろうと。
叫ばずにはいられなかった。
「ハルカッッ!!」
「――ッ!?」
ギョッとして振り向くハルカ(仮称)。
他人の空似にしては………やはり、その驚く表情すら、似ている。
余りに、似過ぎている。
「シィィーッ!」
「!?」
しかし俺の胸中など関係はなかった。
ハルカはただ、黙っとれ、と言わんばかりに人差し指を口の前に立てていた。
えっ。
ハルカ……?
「ごめんなさい、どうして私の名前を知ってるのかとか、聞きたいことはあるんですけど……ちょっと今は静かにしてくれませんか」
「!? ……!?!?」
俺は開いた口が塞がらない。
ハルカの様子がおかしいのもそうだが、それよりもショックが勝った。
これ……俺、忘れられてません?
何で?
俺、ソウジよ?
ようやく会えたのよ?
かつて、あなたの家で、あなたと一緒に暮らしたこともある、ソウジなのよ?
一緒に掃除もしたでしょ?
冗談はさておき………せめて俺のことは憶えててほしかったよぉ。
「ちょっと、今は急いでるので……本当、ごめんなさい、おにいさんっ!」
「……っ!!」
あ、こりゃ忘れられてるわ。
まぁしょうがないよな。あの頃からもう、随分と時間が経ち―――
「……ん? 『おにいさん』、だって……?」
そりゃあ、慎重だって昔より随分伸びたし、顔つきだって変わってるだろうけどさ………。
………………ん?
あっ。
「……そうだ」
そこで、俺は大切なことに気付く。
そういえば、と。
「………………いや、もう何年前だよ、最後に会ったのは」
あの頃から、もう随分と時間が経っているのだ。
「……そうだ、そうだよ!」
なのに、ハルカが昔の姿のままなのはおかしい!と。
「……あれ?」
そして、俺は首を傾げた。
また、大切なことに気付いたのだ。
俺も大人になった。
決して「立派な」大人ではないが、世間一般ではいわゆる“大人”と呼ばれる年齢に、成人男性となったのだ、俺は。
まだ童貞だけど……いや、それは今は置いておくとして。
「…………なんでだぁ?」
考えようとすればするほどフワフワ、ボ~ッとする頭の中、必死に考える。
俺は大人で、でもハルカはまだ小さくて。
そう、言うなればロリハルカ。いや、大人のハルカを知らないので、こういう表現もおかしいか。
友人の趣味やネットに毒され過ぎたかな……。
「何がどうなってる?」
俺はフワフワとする頭、ぼうっとする思考のままぼんやりと立ち尽くす。
橋の端っこ。眼下に、水路でバシャバシャと何かを探すロリっ子を見下ろしながら。
「……何この状況」
とりあえず落ち着くために、コンビニで追加の酒でも買ってこようか、などとどうでもいいことまで考え始める始末だった。
酒を買って戻ると、昔の姿のままのハルカ―――しかしまだ彼女をハルカとは認めたくない自分がいるので、彼女を「ロリっ子」と呼称しよう―――が、まだ水路でバシャバシャと動いていた。
溺れているのかと恐る恐る顔を出して確認するが、何のことはない、まだ探し物の最中だ。
そういえば昔は俺もここでペンダントを失くしたなぁ。
あの時は探しても探しても全く見つからなくて、流されちゃったんだろうってことで、二人とも「ここには無い」って結論に至り、ひとまず納得したっけなぁ。
「何探してるのか知らないけど、ほどほどになぁ。もう寒いんだから、風邪引くぞぉ」
「………」
俺は忠告したが、ロリっ子はまだバシャバシャとやっている。
もはや構うまい。俺は俺で、酒を飲むだけだ。
「俺も昔さぁ、ここで探し物をしたんだよなぁ」
「………」
「んでもさぁ、見つかんなかったよ」
「………」
「でもでも、ツレがなぁ? 聞かないんだよ、まだ探す~、ってさ」
「………」
「だから仕方なく、夜までな~、つって。夜前くらいまで、探して。結局見つからなかった」
「…………」
「帰りが遅くなるとさぁ、親が心配するんだよな~。あ、俺の親じゃなくて、その子の親なんだけどさ」
「…………」
「俺はまぁ、居候みたいなもんだったからな~。でも俺の心配までしてくれるんだ、優しい人達なんだよ」
「…………」
別にロリっ子の返答は期待していない。ほとんど俺の独り言だ。
ふと見上げた空は、雲の切れ間に月が顔を出している。おぼろ月。風流なことだ。
「また明日探そうぜ、な?」
「……おじさんは、なぜこんなところにいるんです」
「えぇ~? おじさんは………おじさんは、そうだなぁ…………」
た、確かに。
俺はなぜ、ハルカと思われる少女(あるいは彼女の幻影?)相手に喋りながら酒を飲んでいるのだろう。
夜の公園。
街灯と公園灯のみが頼りの暗闇の中、橋の上に座り込み、ロリっ子のバシャバシャ音を肴に酒を飲む男。
控えめに言って、ヤバい絵面である。
自分でももう、どうかしているとしか思えない。
「何でかなぁ」
「暇なんですか?」
「そうかもなぁ」
「…………」
ロリっ子はバシャバシャとやっている。
この冷たい感じ……とてもハルカとは思えない。
というか彼女が俺のことを「おじさん」呼びするのが、結構こたえるな。
まだまだ若いつもりだし、二十代前半って言えば事実、まだ若い方ではあるだろうが……そりゃあ、ロリっ子からすれば俺なんてもうおじさんかもしれない、か。
あれ? さっき、それこそ初めて俺を見た時、この子ってば俺のこと「おにいさん」とか呼んでくれなかったっけ?
あれぇ?
なんで呼び方変えたのぉ?
さては、酒に溺れている、情けない男の人だから「おじさん」で括ったなぁ~?
………考え過ぎか。
とはいえ確かに、若いのに今その若さを発揮できない俺なんて「おじさん」で充分だよなぁ。
「はぁ……」
自然、溜め息も出る。
小さく短い溜め息。
けれどもなんだか、今までの疲労とか後悔とか、全ての負の要素を凝縮したような、そんな溜め息。
「おじさんね、振られちゃったんだ」
愚痴も出る。どんどん出る。
「女の人にね、『実は私のこと好きじゃないんでしょう! 終わりよ!』って。こう、バチコーン、ってね」
俺は、どうせ橋の下にいるロリっ子からは見えもしないのに手を振って、先程のことを大袈裟に誇張して語ってみせた。
掃除していた俺は涙目の彼女に平手打ちを食らい、その場に崩れ落ちて。
俺が最後に見たのは、彼女の背中だった―――そんなしょーもないような、情けないオチの話だ。
「なにが悪かったんだろうねぇ……」
その辺がまだ理解できていないのだから、救えない話だ。どうしようもないな、俺。
「君には分かるかい?」
「……」
「それともまだ早いかなぁ、なんちゃってなぁ」
「……」
俺は、公園に来たばかりの時よりかは幾分か穏やかな気持ちで酒を飲んでいた。
カラン、と空になったばかりのアルミ缶を隣に置く。
「はぁ~。やってらんね~……」
橋の下で、冷たい水の中をバシャバシャと手探りするロリっ子。彼女への注意も諦め、手伝うこともせず、橋の上で酒を飲みながら愚痴る大人。傍から見たらいよいよヤバい。
終わってんな俺。
誰か通りかかったら、俺が通報されそう。しかも「男の人が幼女を水路に!」的な内容で。現代の伝言ゲームは絶対に途中で悪意が挟まるからな。
やべぇ。特に俺の社会生命がやべぇ。そろそろ逃げた方がいいかな。
とはいえもう、逃げる気力すらないんだけどな。
「あははぁ……」
何だか気持ち良くなってきた。ほろ酔いだ。俺はまたプシュッ、と別の缶を開ける。今度は缶チューハイだ。芳しい巨峰の香り。うーん、ここまでくるともはやただのぶどうジュースみたいだが、これはこれでいい匂いだ。美味しそう。
「……ん~?」
ふと、俺が会話(独り言)を中断したからだろうか、急に辺りが静かになった気がした。
耳を澄ますと、ロリっ子が水路で何かを探す音とは別に、ブツブツと、何か独り言のようなものが聞こえた。
聞いてみようか。
「(…………ヤバいヤバいヤバいヤバい! どういうこと!? どういうこと!? 確かにここにあるって、反応が――!!)」
「………………んん~?」
余りにも意味不明で、俺は首を傾げた。
そりゃそうだ、独り言だもの。
大して意味を成していなくとも不思議はない。
相互理解など目的のある対話じゃないのだ、俺が意味を汲み取れなくとも文句は言うまい。
「何か言ったかい~?」
「(どうしよう、見つからない!? でも反応はここだし―――流れも緩やか、移動はしていない、はず……!)」
シカトである。
酔っ払った成人男性(俺)が、ロリっ子にシカトされ続けている件。
まぁ、いいんだけどね。
俺も手伝おうとはしていないし。
というか、妙に大人っぽい対応だよなぁ、このロリっ子。
何でか知らないが、このロリっ子からは小さい頃のハルカからは全く感じなかった、大人の世界に染まった人間特有の世知辛さ(?)みたいなものを感じるよ。
大人になったなぁ……いや、だからハルカは死んだんだってば。
彼女は、あのロリっ子は……きっと、他人の空似ってやつだろう、おそらく……多分………。
俺の知るハルカは、もっと子供だ。あの子はハルカと似て非なる誰か。
ハルカの子供だとする方が、よほど自然―――いや、だからハルカは俺の目の前で死んだんだ。しっかりしろ、俺。もう何度同じところをぐるぐると考えている?
「なぁ、そろそろ探し物もやめてさぁ―――」
俺が手元にあったアルコール飲料類をすっかり飲み切ってしまおうという時。
「……まさかッ!?」
ロリっ子がやけに切羽詰まったような、ちょっと芝居が入ったような、必死な声を出した。
「なんだぁ……?」
俺は欄干に手をかけ、水路を見下ろす。
あの、ハルカの幼い頃に瓜二つなロリっ子と目が合――わない。
ロリっ子ははるか上の方、夜空を見ていた。
「ん……?」
俺もつられて見上げる。
すると―――。
「………………え? 何だ、あれ」
夜空に大きく広がる、幾何学模様。
まるで―――そう、まるで、ファンタジー漫画やアニメに出てくる、魔法陣みたいな。
「なんで……!? う、うそ、そんな……!」
ロリっ子も驚愕していた。俺も驚いている。
それにしても何なんだろうな、あれは。
それはとても巨大、いや広大とすら呼べる広がりを見せていて、模様自体がうっすらぼんやりと、青や赤を行き来するように変色する光を放っている。
見ているだけで頭がおかしくなりそうだ。サングラスでもあればもっと楽かもしれないが。サングラスなら、自宅の車の中。そうすればもっと落ち着いて観察でき―――
………って、そんな場合じゃないんだろうけどな。
「“門”が、開こうとしている……! 世界が、繋がる……!?」
「は……?」
ロリっ子が中二っぽいことを口走っていた。
おいおい、随分と早くにその病に罹患しているじゃないか。
おじさんが特効薬あげようか? 「目を覚ませ」って。パンチが効いた、心を抉る一言が必要か?
「あ、あ…………う、うそ、うそだ…………」
「……?」
わなわなと震えるロリっ子が痛々しい。
色々な意味で。
でもまぁ、気持ちは分かる。
目をゴシゴシ擦ろうが何しようが、あの超常現象は超常だけれども、現実っぽいもんな。
あの魔法陣みたいなやつを見て感じる、この肌を刺すような嫌な気配。そして自分の太ももをつねった時の痛みが、これが全て現実であることを保証している。
「……え、これマジで?」
まさか俺も、この歳になって現実でファンタジーなイベントに遭遇するとは。テンション上がるな。
……が、しかし、上がりかけたテンションだが、急速に冷静になり始める頭が警鐘を鳴らす。
というか突然の理解不能なファンタジーに悲鳴を上げて、回路がショートしてしまいそうな勢いだ。
一体全体、今、何が起きているんだ。
「まだ……まだ、ソウジ君を呼べてないのにッ!!」
「……へ?」
夜空に浮かぶ巨大な魔法陣をボケッと見上げていたところ、ロリっ子が聞き捨てならないことを口にした。
ソウジ君、って、お前それ、いやいや、お前それマジか、マジで? お前、ソウジって、俺、俺のこと、そんな風に、呼ぶってことは―――
「世界が………終わるッ!?」
「………へ?」
ハルカによそ見していた俺は、一瞬の間に劇的に変化を見せていた空への反応が遅れた。
俺が目を向けた先。そこには―――。
「―――おいおい、なんだよあれ……!」
広大な魔法陣みたいな模様の中央に、ぐにゃぐにゃと歪な黒い穴が開き始める。
それこそ空間が歪んだような―――こちらが視認する光が実際に歪んでいるから、実際、空間が歪んでいると表現しても問題ないだろうが―――何かが、広がり始めていた。
「………んん?」
そこからは、もう明らかに異常事態だった。
黒い穴から地上に落ち始める―――黒い何か。
黒い穴から、今まさに地上を汚さんと流れ落ちる液体か何かに見える。
もしやあの穴、墨か原油でも垂れ流しているのか、いやいや落ち着け、その原理はどうなってるんだ、とか、どうやって、なぜ、とか、そんな風に頭の中を混乱が占める。
しかし、よくよく目を凝らすと、その黒い穴から落ちる黒い何かは、液体ではなかったようだ。
その黒い何かは、ゴマツブのように、あるいは植物にたかるアブラムシのように、細々としているが、確かに、何かの個体の集合だった。
「う、うそぉ………なんかキモぉ………」
キモぉ、と口から思わず素直な感想が。
だって、あれ、全部大量の虫だとしたら―――しかし待て、落ち着け。
この距離で―――あの黒い穴から、相当に離れているであろうこの場所から―――見えるくらいだ。
あれは虫と言っていいほど小さくはないはず。
おそらく、少なくとも人間と変わらないか、それより大きな個体の集まりだ。
そんなものが、大量に、無数に。
空から―――魔法陣の中央の黒い穴から、地上に。
まるで、黒い大気のダウンバーストのように、地上に降り注いでいる。
方角からして、あれはこの国の首都がある方面からのようだが………。
「………ん?」
ガサリ。近くで、何かが藪の中から顔を出す。
「………え?」
それは、黒い猫だった。
猫と言っても、黒くてデカい、猫に似た、何か別の獣だった。そうそう、例えるなら、黒い虎だ。しかし虎とも違う。肢体は尻尾まで含めて大型のネコ科に見えるが、顔つきは犬のそれにも近い。
その口には、それこそ普通の猫を咥えている。咥えられている方の猫は、俺にもなじみのある、普通の野良猫なのである。
まるで捕食者に抗うかのごとく―――いや、実際そうなのだ―――ニ゛ャ゛ァ゛ァ゛~と暴れ、抗っている普通の猫を、冗談みたいなサイズの黒い獣が咥えている。
あの猫も、自分より遥かに大きな捕食者に首の後ろを噛まれていては、どんなに抵抗しようとも逃れられないようだが。
「………あっ」
襲われるかと身を硬直させた俺の視線の先で、黒いデカい獣は、橋の上のこちらからすぐに興味を失ったのか、そのまま無視して方向転換。
そのままその辺の住宅の生け垣にガサガサとデカい穴を空けながら姿を消した。
「何だったんだ……?」
首を傾げる。あんな獣、テレビや動画でも見たことはなかった。脳内にはこれといって該当生物が引っかからないのだから不思議なものである。あんなのが近所で出没しているのだとしたら、ニュースにもなっていそうなもの。どこから逃げ出した動物であるにしても、野良猫を咥えて移動するほどなのだ、間違いなく肉食であろうし、あの図体のデカさは人間だって捕食対象になり得るのではないか。
「なにぼうっとしてるの!?」
「ん~?」
いつの間に水路から上がっていたのか、俺の隣には裸足のロリっ子が立っていた。水路の水ですっかりスカートの裾をびしょびしょにしながら、俺をやや見下ろす格好で、腕を腰に当てて怒りの形相。怒っていらっしゃる。
「早く、逃げなさいよ!」
「ん~?」
ロリっ子に叱られながら、しかし我ながら呆れることに、呑気なことに。
まだ現実感に乏しい今の状況で、俺はアルミ缶の底に残ったひと掬いほどのアルコールを飲み干すべく、顔の上に掲げていた。まだあと少し、お酒が中に残っているのでね。
ちょろろ……
缶の中に最後まで残っていた液体が全て、俺の舌の上に降り注ぐ。
「うっわ………」
「うわとか言うなよ」
ドン引きしたロリっ子に余りにも素直なリアクションをされ、おじさんはちょっと傷つく。
「酒に溺れる大人なんて、かっこ悪いわよ……」
「言うじゃねぇかロリっ子」
「ろっ……!?」
格好悪かろうが何だろうが、別にもうどうでもいい。
空の幾何学模様が、魔法陣が何だってんだ。
デケェ獣がなんだってんだ。
目の前には幼い姿のままのハルカが立っているし。
こんなもん、酔っ払った頭でも分かる。
全部夢だ。
夢だと分かる夢。
つまり、明晰夢というやつだろう。
………先程は、これが夢ではないと確認した気もするが。
………あれ? 確認したっけ?
それとも、これはやっぱり夢なのか?
もしかしなくても結構酔っ払ってるよな、俺。
「しかしそれにしても、この歳でこんな『ふぁんたじ~』な夢見るなんて、どうかしてらぁな、俺ってやつは……」
「は!? 夢!? おじさん何言ってるの、早く逃げないと―――」
ロリっ子は切羽詰まっている。俺の方にばかり逃げろと言うが、彼女だって逃げなくて良いのだろうか。
まぁ、これが夢かどうかすらも今の俺には分からないが、とにかく俺だけじゃなく、このロリっ子も逃げた方が良いように思う。
「お前は逃げないのか?」
「私? 私は………」
そう言って背後の水路をちらりと見るロリっ子。
「まだちょっと、探し物が………」
そう言って、彼女が言いよどんだ時だった。
ヒュン―――
「――っ!?」
視界の端から何かが飛来するのが見えた。
余りに一瞬のこと。何か黒い飛来物、ってことくらいしか分からなかった。
「キャッ―――!?」
けれども気付けば、俺はロリっ子の身体を抱きしめ、橋の上を転がっていた。
「えっ、なっ、なに………!?」
「………」
間一髪で避けることができたみたいだが……今のは何だろう。
腕の中であうあうと声を上げるロリっ子も戸惑っている……って、それはこんな行動に出た俺に対してか。
「立てるか?」
「え、は、ハイっ……!」
俺はロリっ子を立たせ、ケガが無いことを確認して自分も立ち上がる。
夢の中だろうが何だろうが、目の前でロリっ子にケガをされた日には、その後の寝覚めは最悪なものになるだろう。
「おっとっと………」
「……」
ところで、俺はやはりただの酔っ払いなので、立ち上がると若干ふらついてしまう。
そのまま再び、ストンと腰を下ろした。
非常に格好がつかない。ロリっ子からは責めるようなジト目で見られるし。
「今のは………あっ!?」
「え?」
そして次の瞬間、ロリっ子は目を見開いた。
そのハルカによく似た―――というかハルカ以外の何者でもない顔立ち―――が見る先は、どうやら俺の方であるようだ。
なんだ。何をそんなに驚いた顔で見てやがる………と。
そう、自身に関心を向け始めたところで、背中が熱を持っていることに気付く。
「熱っ………つーか、痛っ!?」
熱い、じゃなくて痛い、だ。
最初は誤ったリアクションも仕方ない、だって背中には熱さにも似た激痛が走っていたのだから。
自分の背を振り返ろうと地面についた手が、ぬるり、と血の感触を伝えてくる。
さっきの黒い飛来物、俺の背中を掠っていたのか。しかも結構な出血量だ。
なんだ、俺、避けられてないじゃん……。
「なんだ、クソっ………」
それにしても痛い。
何だろう、銃弾だろうか。背中の肉をけっこう抉られたりでもしなければ、こんな痛みと出血量にならないような気もする。
………待てよ、銃弾?
だったら今、俺達は狙われているのか?
どこの誰に?
だが、銃声などは聞こえなかった。消音装置の類だろうか。そんな、映画みたいなこと―――
「―――!?」
そしてまた、視界の端に飛来物。
今度はしっかり捉えた。
黒い、何か、矢じりのような形をした物体、黒い礫。あれは決して、銃弾ではない。しかも、発射元とおぼしき人影などもない。
あれが飛んできたのは―――遥か上空からだ。
夜空のあの魔方陣にぽっかりと空いた、黒い穴の方からだ。
「―――っ!」
とにかく今はぼうっとしているわけにもいかない。
ところで、これは不思議な話と言って良いのだろうが、あの危険な黒い何かの標的が自分なのかそうでないのか、動物の本能がそうさせるのか、今の俺にははっきりと分かっていた。
あの黒い礫が狙う先は………!
「―――ハルカっ!」
生命の危機に瀕してだろう、脳内であれこれと高速演算でもなされているのか、スローモーションのように遅くなる体感時間。
ややもどかしい遅さながら、気づけば俺は立ち上がる動作に入っており、のろのろと手を伸ばす。
―――そして直後には、俺はロリっ子の身体を突き飛ばしていた。
間に合うか分からない一瞬。俺はまだ完全に立ち上がってはおらず、中腰のような姿勢だったため、両手で横からロリっ子を押した格好だ。
大人が子供にそのようなことをする絵面は、もはや虐待のようであるが、もちろんロリっ子を助けるためだ。
ロリっ子の身に及んだ危険を緊急で回避するため。
しかし、俺達の間には体格差があり過ぎた。
ロリっ子を突き飛ばした俺は、ロクな抵抗に遭うこともなく―――つまり静止することなく、今度はロリっ子のいたポジションへ、代わりに我が身を置くことになる。
そして当然、飛来物を避けるのにも間に合わず、俺は中途半端に身を翻したばかりに、上半身、自らの胸部に、黒い礫が吸い込まれたのが見えて。
「―――ッ!!」
胸に広がる、熱い感覚。
倒れ込む際、ロリっ子がこちらを呆然と見つめる様子が視界に映る。
ああ、胸が熱い、熱いんだ………これはもしかして、恋?
俺はロリっ子に、恋してしまった……!?
………もちろん、そんなことはない。
俺は全身から力が抜けていくのを感じながら、気付けば、幾何学模様と黒い穴の浮かぶ夜空を見上げ、橋の上に倒れていた。
もはや、肉を抉られた背中の痛みなど些細なことだと言わんばかりの胸の痛みに、意識を手放したくなる。
最後のあの黒い礫は、俺の胸部から背中にかけて、ものの見事に貫いていたのだ。
「カッ……ハッ………………」
あ、人間の身体に穴が開くとこんな感じなんだ、なんて思いながら。
「―――お、おじさん!?」
はっと我に返ったロリっ子が、慌てて駆け寄って来るのが分かった。
一方の俺は、もはや呼吸すらままならず、早くも目蓋に力が入らなくなっている。
そんな俺に近づいて、ワイシャツの胸元をバッ、と開くロリっ子が、驚愕に目を見開いた。
「………………………………………えっ」
ロリっ子は目を見開き、そして顔を青ざめさせるのが分かった。
そりゃあ、俺の胸元は今、エラいことになっているだろう。
血が出ているのが自分でも分かるし。
何か、銃弾ではないけど、高速で飛来した黒い矢じりのようなものに貫かれたのだ。
無事であるはずがない。
「あなた………………まさか………………」
ロリっ子は俺の胸元を見て………
………いや。
「これ……これって、い、イヤ、そんな、そんなことっ……………!!」
俺の胸に、血まみれとなってしまったペンダントを見て。
ロリっ子は、泣きそうな顔で、震える声を出した。
「あなたが、ソウジ君だったのね………!?」
「………」
俺に膝枕するロリっ子の驚愕した表情を最後に眺めて、俺は自分の目蓋が閉じていくのを止められなかった。
ああ、やっぱりこいつ、ハルカだったんだ。
何でか知らないけど、生きて(?)たんだ。
………何で幼い頃の姿のままなんだ?
今まで何してたんだ?
彼女には聞きたいこと、言いたいことが、たくさんあったのに。
そんな風に思いながら。
―――でも、最後に、恩返し……っぽいことができて、良かったよ。
まぁ、まだ危機は去っていないと思われるが。
せっかく助けたんだから、逃げてほしいなぁ。
できればそのまま、無事でいてくれ。
「ハ…ル………………逃…げ………………」
「ソウジ君っ!!!」
俺の意識は、ここで完全に暗転した。




