始まりの終わり
人類史は闘争の歴史であると誰かが言った。
戦いこそ人類の本質であると。
またその逆、戦いは人間の本質ではないと別の誰かは言った。人間の本質は、争いとは無縁であると。
答えはどっちだ?
どっちでもないのか?
そもそも人間の本質とは何だ?
愛か? 金か? 憎悪か? それとも見栄のために生きている? あるいは獣とそう変わらない?
人間って一体何なんだろうな。人は皆、どうして、何のために生きているんだろう?
―――何のために生まれて、何をして生きるのか。
古い歌の一節を思い出す。その歌は、自己犠牲の精神を説くような古いアニメのものだったように思う。顔の一部を千切って他者に食わせるやべぇヒーローの歌だが、大人と子供とで完全に見方が変わるものだろう。
一応は世間一般で大人と言われる年齢になった俺は、考えずにはいられない。
大人になりきれないまま大人になり、今までよく考えもしなかったことについて、考えずにはいられなかった。
果たして俺は、何のために生きているんだろう?
―――まぁでも別に、そんなの今の俺には関係ないか。
俺はただ、目の前の、自分の戦いをこなすだけ。
―――神谷宗司こと俺は、とある界隈で“掃除屋”と呼ばれている(呼ばれていない)。
そんな俺は、毎週末恒例の部屋の掃除をしていた。
別に世の中の悪と戦っているわけでもないが、一週間分の散らかり具合、汚れを溜め込んだ部屋は中々の強敵だ。いつも洗っていたはずの風呂場にさえ、よく見れば隅の方に水垢が溜まっていたりする。気合が必要。
掃除というのは、気合と気付きと忍耐と、少々の勇気が必要な、戦いなのだ。
『――!』
「えー! なんだってー!」
『………!』
「あー、ありがとー!」
手元の掃除機は少し古いタイプであるため、いかんせん音がうるさい。
うるさい掃除機といってもどのくらいなのかというと、本当にうるさいので、例えば今お付き合いしている彼女の声とかがほとんど聞こえなかったりする。だから週末の今、夕方といえる時間帯となった今、近隣の迷惑になりにくい時間帯に掃除しているのだ。
……ん? 彼女がいるのかって?
そう、俺はリア充。今の俺のような人間を、世間ではそんな風に呼ぶらしい。
フ……なんて、浮かれてはいられない。
付き合った彼女こそ多くはないものの、俺は未だに童貞である。
どういうことだ。俺、これでも社会人なんだぞ。社会人になってからまだ日は浅いけど。
しかし、だから、今度こそ。
俺は身も心も愛する人と結ばれ、童貞を卒業するのだ。
さもなくば逝くに逝けない。
一人で勝手にイけばいい………とか、いや、そういう話ではなく。
寂しい日々にはもうサヨナラだ。
寂しい日々にサヨナラするために、俺は恋愛というものに向き合い始めている。
生半可なものではない。難しい。
そんな恋愛というのもきっと、数ある戦いというものの一つなのだろう。
頑張ろう。
「ふぅ……」
掃除機をオフにして、俺は額を拭いながら。
「助かったよ。掃除手伝ってくれてありがとうな」
「それはいいけど……」
一人暮らしが長いと、掃除がおろそかになってしまって良くないな。
俺はしっかりと感謝を込めて礼を言ったが、どうにも彼女は歯切れが悪い。
「―――」
「えっ?」
先程からリビングのソファに座って動かない彼女。
彼女が小さい声で何か言ったようだが、俺は聞き逃した。
掃除機はオフにしたのに、なぜか聞こえなかった。
「別れましょう、私達」
「……え?」
……違う。
聞こえなかったわけじゃない。
自分の耳が聞いた彼女の言葉を、自分で信じられなかっただけだった。
「もう、終わりにしましょう」
「……………え?」
一瞬だけ世界から音が消失した。
「だって…………宗司君、そんなに好きじゃないでしょ。私のこと」
「…………………………………………ぇ」
二の句が継げぬ、頭が真っ白になる、とはこういうことを言うのだろう。
俺は目の前で、彼女が何かを言って部屋を出て行くのを呆然と見送っていた。
バタン。
一人暮らしの安アパートの扉が、閉まった。
「………はぁ~」
冷たい空気にあたりたくて公園まで来ていた俺は、長めの溜め息を吐いた。缶ビールに口をつけ、ちょびりちょびりと飲んではプハァ。そんなことを何度か繰り返してから視線を上げる。
「失恋しても、桜って綺麗なんだなぁ」
何を当たり前のことを。
そんな“当たり前”を口に出してみると、自分で自分が、いや、全てが馬鹿らしくなった。
そういえば、まだ肌寒さが残るものの、季節はもう春だった。桜の木が花を咲かせるのも、まぁ言ってみれば当たり前のことだ。
「――んっ、ぷはぁ………」
もう何口目かになるビール。ヤケ酒とは格好がつかないが、それでもこうして飲まずにはいられない。
幼い頃はヤケ酒などをしている人間の気が知れなかった。
だけど今なら、酒に溺れる人間の気持ちが分かるよ……。
「もう全部、くだらねぇ……」
それでも例年通りに咲いた桜が、夜の公園灯を浴びながら冷たい風に揺れていた。
夜桜。
のっぺりとした暗幕のような夜空の下、人工の明かりに照らされた桜は、やけに映えた。
ちくしょう。
そんな小さな呟きが聞こえた。
俺の声だった。
「あーあ………」
この口からはネガティブな、俺の声とは思えない情けない声と台詞ばかりが漏れ出してくる。
手元はプシュッと次の缶ビールを開け始めていた。
既に三本の空き缶がベンチの上に転がっていた。
今日はよく飲むじゃないか、俺。
「ちくしょぉ……何だよぉ………」
ああ、夜桜が綺麗だ。
そう、思った。
「おっと、感動で涙が………」
そういうことにしておいてほしいものだ。
思えば、俺の人生は上手くいかないことばかりだった気がする。
それでも、全部が全部、そうだったわけじゃないが。
なまじ、少しの救いがあったからこそ、ちらちらと見え隠れしていたからこそ、俺は諦められなかっただけだろう。
幼い頃。
教室では、返却された答案を、同年代のキッズ達が手にしてはしゃいでいた。
誰もかれもが、もれなくエリート。
例えば今さっき返されたテストなんかでも、全員百点。
俺を除いて。
……あれ?
俺もエリートキッズなんじゃないの?
ところがどっこい、ちょっと違うんだなぁ、これが。
「ソウジ君はまた百点逃したの?」
「…るっさいな」
「あれだけ皆が百点取れるって言われてたのに♪ もしかして、わざと?」
「ほっといてくれよ!」
「あははっ!」
長い赤毛を揺らして、その快活な少女は明るく笑った。
俺の席のところまでわざわざ歩いて来て、俺を馬鹿にすることで愉快そうに目を細めて笑い声を上げていた。
彼女はハルカ。この学年では一番の才媛……なのだが。
彼女に一方的に絡まれる俺からすると、普段の彼女からは優等生らしいところなんて欠片も窺えない。
およそイジりと皮肉に裏ステータスを振り分けたかのような、残虐非道な一面を持つヤツには違いないのだが……むしろそれが一番の取り柄みたいなヤツに思われるのに。
一体どこでどうして何が起きたらこうなるのか―――俺という人間は、コイツに全く歯が立たないのだ。
事実、周囲を見れば、俺と彼女に対して天と地ほどの評価の差があるのは明らかだった。
勉強に、運動に………幼少期の対格差を考えれば、まぁ運動能力面で負けても「そういったこともあろう」と納得できるものだが、とにかく俺はコイツに勝てず、そしてハルカはもちろんクラスの誰にも勝てず………。周囲から常に馬鹿にされ続けていたのだった。
「(クスクス……あの子、また百点を逃したみたい)」
「(また九十九点かな?)」
「(そうみたい)」
「(プッ……! クスクスクスっ)」
「(ハルカちゃん、やめればいいのに。あんな出来損ないと絡むの)」
「(しっ。聞こえるよ?)」
「(あんたも笑ってるでしょぉ~)」
「(それに何、あのペンダント? オシャレのつもり?)」
「(ねー、シャツの下に隠してるけど、バレバレだっていうのにねー)」
「(先生が気にしないからっていい気になっちゃってさー)」
「(あれじゃない? 隣のクラスの子の真似じゃない!?)」
「(誰だっけ?)」
「(ほら、いたじゃん、あの―――)」
………。
遠巻きに見守る連中が何か言ってる。
聞こえてんだよ。
それでも面と向かって反抗すると返り討ちに遭うのは分かっているので、俺も言い返すことはしない。
まぁ、今さらだったしな。その頃の俺は弱気というわけでもなかったが、そういうのに余り強くなかったのだ。
俺はいじめられっ子らしく、過ぎ去る嵐をただ待つのみ。震えはしないが、時計の秒針に向かって「早く、早く」なんて念を送る日々が続いていた。
無情だ………。
まぁ、俺の私物に被害が及ばない限りはそれでいい。イジメとは言っても、結局は正義感に根差す排除でもなければ、多くは無関心によるもの。つまるところ、ただの侮りだったことが、不幸中の幸いというべきだろうか。
………そういうところも、気に食わないが。
どいつもこいつも、腐っても優等生なんだなぁ、と。そういった面でも劣等感を感じ続けていた。
「(え~! じゃあソウジのやつ、その子のこと好きなんだぁ~!?)」
だからこっちまで声が聞こえてん……
「(フタマタとかフケツ~。キモ~)」
「(ねぇ~。ヤバぁ~)」
グサッとぉ。
心に「キモい」の刃が刺さった。
憶測に憶測が重なり、キモいという感想に行き着く。
全く不思議だな。どうなってんだあいつらのアタマは?
賢さだけ分けてほしい。
いや、フタマタはおろか、好きな子とまともに結ばれようのない状況の俺を指してそう言っているなら、それは果たして「賢い」と言えるのか、はなはだ疑問だ。
………いや、違うな。俺を馬鹿にすることができればそれでいいんだ、やつらは。
忘れよう。聞く耳を持つな。
「ソウジ君めっちゃいじめられてるの、ウケるね!」
そして俺の机の前に立ち追い打ちをかけてくるハルカ。まさかの火の玉ストレート。
やめてほしい。
ていうかニヤニヤと笑ってる。随分と楽しそうだなコイツ。
「なぁハルカ。ちょっとは僕を助ける気になったりしない?」
「しないかなぁ」
「……」
「あっははは!」
不憫な俺をケラケラと笑うハルカだが、この時の俺は知っていた。何だかんだと言いながら、コイツは情に厚い人物だと。きっと最後には俺を助けてくれると。
……まぁ、今すぐイジメっ子達のところに行って「ちょっと! やめなさいよ!」みたいなことを言ったりはしない。
彼女は空気が読めるのだ。
そんなことをすれば、ハルカ自身と俺の立場が両方とも悪くなることを知っている。
カリスマというのは、人心を掌握し、流れを作り出してそれに乗ることができるからカリスマなのだ。
何の準備もなしに単身で大きな流れに逆らうようなら、それは蛮勇。ただのアホだ。
「……ったく。まぁ、それはもういいけどさ」
ともあれ俺は話題を変えた。ハルカはこのことに関してはノータッチらしいので。ていうか俺もイジメに関してはある程度割り切っている。仕方ないよな。
それより。
俺は先程返却されたテストの仕組みにこそ、不満がある。
「………全員が百点取るようなテストで、どうやって個人の実力を測るんだよ」
「でもソウジ君百点じゃなかったじゃん」
ところが、相談(愚痴)相手のハルカからは、辛辣にも事実の指摘が返ってきた。
「……仕方ないだろ」
だって仕方ないじゃん。皆みたいにはできないんだもの。
「あはははっ! やっぱ超気にしてるねぇ!」
「笑うな!」
「アハハハハハハ!」
「笑い過ぎだぞ!」
ハルカはとても愉快そうに笑っていた。俺は頬が熱い。恥ずかしいのだ。何もそんなに笑わなくてもいいじゃないか。コイツは俺の心を刺さないと死ぬ病気にでもかかっているのだろうか。
そもそもにおいて、俺の言うことももっともだろ?
全員が高得点を取るようなテストで、一体どんな実力が測れるっていうんだ。
差がつかない競争をして、一体どんな意味があるんだ。
……まぁ、俺はその「差がつかないはずの競争」でさえ皆に差をつけられるような、落ちこぼれだけどさ。
百点と九十九点という得点の間には、「見えない壁」が存在する。
俺だけが越えることができない壁。壁の上の方は雲に隠れてしまっているから見ることもできず、目の前には手足をかける場所すら見当たらないような、絶望的なまでに高く険しい、断崖絶壁があるのだ。
点数の上ではあと一歩。
しかし、その一歩には俺が想像すらできないような差が含まれている。
「泣いてる?」
「泣いてねぇよっ!」
我が憎き怨敵・ハルカは、その顔に邪悪な笑み―――傍目には魅力的に見えるであろう笑み―――を浮かべて、俺にしつこく絡んでくる。
「落ち込まないで、元気出してさ」
「頭を撫でるな!」
頭を優しく撫でられたものだから、思わず俺は彼女の手を払った。
「あははは。じゃあね~!」
笑いながらひらひらと手を振って教室を出て行く。
そういえば違うクラスじゃん、アイツ。
「はぁ……」
放課後、やることもない俺は、公園のベンチに座って溜め息を吐き続けた。そんな俺を通行人が気の毒そうにちらりと見ては、通り過ぎて行く。
とても小学生の年齢の子供らしくない哀愁、といったところだろうか。自分がそれほど沈んでいる自覚はある。だって、余りに自分が情けないんだもの………。溜め息が自然と出続けてしまうんだもの………。
こんな姿、弱気は、とても余人に見せられるもんじゃない。
「はぁぁ………」
前回のテストでは百点を逃した。その前も、その前の前も。
そして、今回も。
皆の水準にあと一歩、届かなかった。
俺はいつも、皆に一歩及ばない。
劣等生。
俺は皆とは違うのだ。悪い意味で。
劣等感。
俺はいつまでこうなのだろうか。
「くそっ……」
悔しい。
一人でいるからというのもあって、普段はなるべく表に出さないようにしている感情が、ぐつぐつと煮えたようなドロドロの感情が、首をもたげ始めている。
学園では悔しそうにすればするほど周囲の連中を喜ばせるだけだからな。とはいえ表情に出さないようにするのも一苦労だ。
「なーに落ち込んでんのっ♪」
「痛って」
背後から近づいて来た何者かの、ばしっ、と力加減を知らないビンタが俺の背中を襲う。
「私、塾終わったよ。帰ろう?」
そう言ってベンチの背から顔を覗かせたのは、快活な笑みを覗かせる真っ赤な長い髪の少女、ハルカだ。
「ああ。おじさんとおばさんは?」
「今? 今は出かけてる~」
「そうなんだ」
俺はベンチから立ち上がり、ハルカと共に歩き出す。
今日もいつも通り、俺はハルカの家に帰る。
……まぁ、この辺の事情については、俺に血縁や頼れる親戚がいないのと、しかし今は亡き俺の両親が、ハルカの両親と親しかったうんたらかんたら、というやつだ。とにかく、ハルカの両親が律義にも義理立てしてくれるから、俺は衣食住に困らずに生きていけるのだ。
「そういえば今朝さ、冷蔵庫のベーコン知らないかっておばさんに聞かれたよ」
時に、道を歩きながら、俺は思い出した恨みをハルカに言ってやるのだった。
「あ、ベーコン無かった? ふーん?」
「ふーんって何だよ、他人事みたいに。犯人お前だろ」
「昨夜だねぇ」
「やっぱりお前か」
「だってちょうどお腹減ってたんだもん」
「ったく……。僕は朝から、ベーコンの無いベーコンエッグを食べる羽目になったんだぞ」
「それただの目玉焼きじゃん」
「そうだよ! お前のせいだぞ!?」
「細かいことをいつまでもぉ~……。そんなんじゃモテないよ?」
「うるせぇな。食い物の恨みは恐ろしいんだぞ」
「はいはい」
俺は公園で、ハルカが友人達との遊びや塾などの用事から帰るのを待って、そして二人でハルカの家に帰る。ハルカの両親は共働きだ。そして家の鍵は、ハルカが持っている。
いつものこと。
もう夕方になりかけているような、こんな時間帯であることにも慣れたものだ。
「あ、桜が頭についてるよ」
春。道沿いに植えられた桜の木は花を散らし始めているため、その花弁は通行人の上に降り注ぐ。
ハルカがニヤリと笑みを浮かべながら俺の頭の上を見ていた。
「桜、髪の毛についてるって」
悪戯っぽい笑みだった。
何か企んでいそうだが、もうどうでもいいや。自分の頭に手を伸ばしても、そこには髪の毛があるだけ。本当に桜の花びらなんて付いているのだろうか。
「どこに付いてる? 取ってくれよ」
「どうしようかな~♪」
「……」
普通に取ってくれればいいものを、なぜかハルカはこういう時にまでふざけている。
俺はぶんぶんと頭を振った。
「それズルい!」
ハルカがあっと声を上げた。
「落ちた? ちゃんと取れたか?」
「……取れてない」
「は? うそだろ」
ふざけてる時のハルカの言葉は信用できないからな。本当に付いていたのだとしても、もう取れただろう。たぶん。
「……」
俺はそのまま歩きながらも……しかし途中で不安になって、頭の上をぱっぱっと払ってみる。
「私が取ってあげるよ!」
「いやいいって!」
余計なことをしないでほしい。経験上、こういう時のハルカは絶対に何かやらかすのを俺は知っていた。ふざけた時の彼女はロクなことをしないのだ。
だから俺はハルカから一歩だけ身を引いたのだが―――。
背後には、水路。
その水路に落ちないよう、道路沿いに設けられた手すりに、俺は首の後ろ辺りをしこたま打ち付けた。
「……っぶね」
ガァンッ、と揺れた視界に慌てて背後を見る。
水路だ。危ない。
この手すりは高さが一メートルくらいで、しかも真ん中くらいの高さにもう一本だけ棒があるタイプ。そのため幼い俺達くらいの子供などは、ちょっと身を屈めるだけで水路側に身を乗り出せてしまうのだ。
「……ん?」
ふと、胸を撫で下ろす俺をぼうっと眺めるハルカが視界に入る。
「どうした?」
「ソウジ君、そういえばペンダントしてたね」
「ああ、昼間クラスのやつらが言ってたこと? 大丈夫、僕は全然気にしてな―――」
「見せて?」
「……まぁ、いいけど」
素直にお願いされると断れない。俺は首から慎重にペンダントを外し、ハルカに渡す。
壊さなければいくらでも見ていい。
綺麗だろ?
「……大事な物、なんだっけ?」
「ああ、うん。まあ」
何だか生返事っぽくはなってしまったが、しかし改めてコレが大事であるか考えると、どうだろうな。
いつだったか、通りすがりのお姉さんが「あげる」と言いながら強引に押し付けてきて、そこからずっと身に着けているもの。
自分でも、なぜ肌身離さず―――肌身離せず持ち歩いているのか不思議だ。
捨てるに捨てられない。
綺麗な貝(それとも何かのウロコ?)に赤い紐を通したペンダント。とても綺麗で目を引くし、捨てようとしても―――なぜだか捨てることに踏み切れない、不思議なペンダント。だから俺は、これをずっと持ち続けている。
まぁ、特に思い出はないが、この頃の俺はとても大事にしていた。
子供の時って、そういうのあるよな。
大人からするとそれほど価値のないように見えるものに、やたら執着するやつ。
子供心に不思議な魅力を感じていたのだろうか、あるいは亡き両親の代わりに、こういうものに夢中になることで寂しさを紛らわせていたのか。俺はとにかく、ペンダントを身に着けた生活を自然と受け入れていたように思う。
「これ……ほしいって言ったら、くれる?」
「え」
え、マジか、と。この時の俺は固まった。
いくらハルカの願いでも、それは流石に―――いや、でも別に両親の形見でも何でもないんだよなそのペンダント、ただの貰い物だし、などとぐるぐると思考を空転させる。
―――と、その時だ。
「ん!?」
「え!?」
俺は確かに、何かの予感がしていたと思う。
周囲を見回して、探した。嫌な予感の理由を。
「ソウジ君、どうしたの?」
「――ッ!」
「キャッ!?」
ハルカの疑問に答える前に、俺は彼女の身を抱き寄せた。
ブロロロ……と、この狭い道を、物凄いスピードで過ぎ去って行く自動車。
寸前で、俺は辛うじてハルカを抱き寄せ、道の端っこに避けた。
「あ、あぶねぇ……!」
成長してからだと「狭い路地でスピードなんか出すなよなぁ!」と怒号の一つでも飛ばしたかもしれないが、この時の俺はただ心臓がバクバクとうるさくて、ヒヤリとした感覚に身体を震わせるだけだった。手汗をべったりとかいていた。
もう少しで、目の前の、この、ハルカが―――轢かれるところだった。
………そう、なっていないことに、ただ酷く、深く、安堵していた。
「大丈夫か……?」
「う、うん……」
俺もハルカも、まだ幼い。
幼いながらも、俺達はまるでカップルのように少しの間抱き合っていた。
青春だねぇ……。
この時の俺は全然それどころじゃないんだけれども。
この時初めて、人の死を身近に感じた―――感じかけたかもしれない。
「あっ!?」
そして、ハルカが突然叫び声を上げた。ケガでもしたんじゃないかと心配する俺の脇の下辺りから、手を伸ばし、ガッ、と手すりを掴んでいる。
「ペンダント!」
「……んえ?」
ハルカの叫び声にただならぬ焦りが含まれていることに気付いて彼女を解放すると、顔を青ざめさせたハルカが水路の方を見下ろしていた。
「ペ、ペンダント……」
「…………………………は?」
一瞬、意味が分からなかった。
俺はハルカの言葉の意味を少し遅れて理解して……理解するごとに、俺の方もサーッと頭から血が引いて行く感じがする。
「ペ、ペンダント!」
ハルカが俺に向かって何かを叫んだ。まるで助けを求めるように―――というのとは、違うだろう。
もう俺も気付いていた。
「ペ、ペンダントォ!?」
でも俺も混乱していたから、ハルカの青ざめた顔を見ながら、彼女の叫びにオウム返しに答えることしかできなかった。
「ペンダント、落としちゃったあぁぁぁ!」
「やっぱりそうかぁー!!」
成り行きとはいえ、仕方ないとはいえ……。
俺も流石に、少しばかりガッカリしてしまった。
「ぐすっ……ごめんね、ソウジ君、あんなに大事にしてたのに………」
「いいっていいって―――おい!? な、泣くなよハルカ!」
めそめそグスンと泣くハルカを連れて家路を急ぐ。
もれなく、俺達二人の足はぐしょぐしょに濡れていた。道路には足跡が残った。
―――そう。あれから二人で水路に落ちた(らしい)ペンダントを探したのだ。今思えば、幼い子供二人で何と危険なことをと思うが……まぁ、雨が降っていたわけでもなければ増水もしていなかったし、セーフということで。
ハルカの様子から分かる通り、もちろんペンダントは見つからなかった。
そもそも水路に落ちたのがハルカの勘違いなのか……道路も探したが無かったので水路に落ちたのだとは思うが、あるいは既に水路を下流まで流れてしまったのか。後者の線が濃厚で、俺達に為す術はない。時刻は夕暮れから夜へと近づいており、なくなく作業を中断。
こういう場合は警察の方に落とし物の相談ができたと思うが、それも帰ってから。
まぁ、俺としてはあのペンダントは、見知らぬお姉さんからの素敵なもらい物だったし、本音を言えば今もちょっとガッカリしているが、別に無かったら無かったで良い。
無いと困るもの、ってわけでもないしな。
「ごめんんぇぇええ、ソウジっ、くんっ……!」
「いいんだってば……泣くな、ハルカ。あんなオモチャ、俺にとっては別に大事ってほどじゃないし、気にするなよ」
隣を歩くハルカがそれはそれは号泣してふらふらと歩くものだから、俺は彼女を支えて家に帰ったのだった。
……ただ、そんなことがあってからだろう。
それからハルカは、俺に対するウザ絡みなどは少なくなり―――さりとて俺との会話が減るでもなく。
要するに、大人しく(大人っぽく?)なったのだ。
ハルカの性格が(若干)柔らかく変化したペンダント喪失事件から、ちょうど一年か。
今年もめぐって参りました、春が。
頭の上に降り注ぐ桜の花びらを俺は意識して避けつつ、そんな俺の不審な動きを気にした風もない隣のハルカが口を開く。
「ソウジ君、今度の誕生日プレゼント、何がいい?」
「誕生日……?」
「ソウジ君の誕生日でしょ。来週」
「そうだっけか」
「やっぱり忘れてた………」
ハルカの家は、誕生日にケーキなどを用意して祝ってくれる。誕生日会は俺も大好きだったが、なぜだか言われるまで忘れていた。
「プレゼント!」
「プレゼントかぁ。うーんむ……」
考えても、特に欲しいものは浮かばなかった。生活に必要なものはおじさんおばさんが揃えてくれるし、割と俺は満足してしまっている。
学校生活に関するものでは鉛筆と消しゴムとノートや教科書などの各種教材、運動着や靴など、何から何まで。
学校生活以外でも、家ではハルカとは別の子供部屋まで使わせてもらっているし、本当に至れり尽くせりだからな。普段から俺は感謝しているし、むしろ申し訳なさすら感じるほどだったのだ。
「特に欲しいものはないな」
「えぇー……」
「何でお前が残念そうなんだよ」
まだ幼かった俺……いや、俺達には、桜の木々は高く見えて。
咲き誇り、そして美しく散り行く桜並木を見上げながら、他愛もない話をしつつ歩いた。
去年と同じ時期、同じような―――特に変わらぬ、景色の中を。
少しずつ変わっていく俺達は。
「………本当はね、もう買ってあるの」
そう言ってハルカが立ち止まったので、俺も立ち止まった。
「ソウジ君、どうせ誕生日プレゼントを『要らない』って言うだろうから」
「?」
どこかもじもじとしたハルカ。
心なしか顔が赤い。
「その………去年は、ソウジ君のペンダント失くしちゃったから、代わりに―――」
ふわり、ひらひら。
春の風が吹き、桜の花びらを運んでは通り過ぎて行く。
白く輝く景色の中で、彼女は俺に素敵な贈り物をくれた。
「……!」
「去年はペンダント失くしちゃってごめんね? それと、失くしたの私なのに、誕生日プレゼントにしちゃってごめん………」
ごめんなさいと共に渡されたペンダント。
何だかよく分からないが深い緑色をした石があしらわれた、ちょっとお高そうな代物。
「いいのに………」
俺は、まさかあのオモチャの代わりにこんな本格的なものが渡されるとは思っていなかったので、ついまじまじとペンダントを観察しながら受け取ってしまった。
「あ、あの………ごめん、気に入らなかった……?」
「……いや。良い物をありがとう。大事に身に着けさせてもらうよ」
先程から謝ってばかりのハルカの目の前で、俺はすぐにペンダントを首に提げることにする。
……なんか、高いやつだとブラジャーのホック(?)みたいなのが付いてるんだな。
女性なんかは髪が長い人も多いから、ペンダントやネックレスにはこういう配慮があるものらしいが―――え、これ、女性用? でもプレゼントだし、見た目もなかなかカッコイイし………。
「どうかな?」
「めっちゃ似合うッッ!!!」
「………ありがとう」
ふんふんと鼻息荒いハルカに詰め寄られて照れくさくなり、思わずその赤毛に視線を逃がす俺だった。
ある日、ふと気になった。
首元のペンダントを手で弄りながら、俺は口を開く。
「ハルカさぁ、好きな人とかいるの?」
「えっ!?」
俺の問いに答える代わりに、驚いたハルカは目を見開いて俺を見た。
「いや、クラスの女子が最近話してるからさ。好きな人がどーのこーのって」
俺は最近になってクラスの話し声の中に大きな変化があったことに気付いていた。
ところで、女子の恋バナはやたら声が大きい気がするが、あれはどういうつもりなんだろうな。キャーキャーと歓喜の悲鳴を上げて、休み時間の教室は動物園よりうるさかった。本当に皆ってガキだよな、なんて思っていた。
「……ソウジ君こそ」
「僕?」
ところが、ハルカからはそう問い返されてしまう。
俺の方こそどうなのよ、と。
「ソウジ君は好きな人いないの?」
「僕はいないかなぁ」
「……」
「……? ハルカ?」
隣を見ると、ハルカは微妙な表情で俺を見ていたようだったが、すぐに顔を背けてしまう。
どうにもくすぐったい。
俺が首に提げたペンダント。あしらわれた石も、もう俺が大分長いこと手で触っていたため、すっかり人肌の温度である。こういうものを身に着けていると、落ち着かない時なんかについ弄っちゃうんだよな。
「………」
「………」
ちらりと見ると、ハルカは真っ赤な顔で俯いている。
………おや?
おやおや?
あれっ? これって、もしかして―――なんて、子供心に俺は悟った。
もしかしてこれ、ハルカのヤツ、俺のこと好きなんじゃね、と。
そして幼い男心ほど単純なものもないだろう。
もしかして相手が自分のことを好きかもしれないと思った瞬間から、急激に俺の方でものぼせたように心と身体が熱くなる。
これで勘違いだったら恥ずかしいが、この頃の俺はそんなことは考えない。
「そ、そのうち!」
「……えっ?」
真っ赤な顔のハルカが、潤んだ目を俺に向けた。
あどけない顔で、精いっぱい勇気を振り絞ったような、緊張した表情。
風になびく赤毛を手で押さえ、ハルカは言った。
「そのうち、ソウジ君にも好きな人ができるよ!」
「…………はぁ?」
俺は彼女の言ったことの意味が分からない体で返事をしてしまったが、内心はバックバクだった。
きっと二人とも、似たような表情をしていただろうから。
ちょっと言い回しは分かりにくかったが、もしかしてハルカのやつ、俺と同じ気持ちなのでは―――。
「………っ!」
こんなの初めてだ。
経験したことのない、一大事。
お互いに生きの詰まるような、しかしどこか熱く甘ったるい空気に、頭がのぼせてしまいそうになる。
「――ッ!? ソウジ君ッ―――!!!」
…………しかし。
その初恋は、唐突に終わりを迎えることとなる。
それは、本当にあっけない―――そして、これ以上ないくらい最悪な、終わりだった。
「なん…………で……………………」
呆然と、ただ眺めていた。
眺めるしかなかった。
まるで赤い絵の具がキャンバスの上を広がるかのような、その光景を。
―――目の前を、血が、絵の具のように地面の上を這って広がる光景を。
「ハル……カ…………………………」
住宅街には珍しくもない、ブロック塀。
そして、乗用車。
しかし両者は今、その境目が曖昧なほど。
「なに…………が……………………」
本当は、俺も分かっていた。
一部始終を見ていた。
丁字路をものすごい速度で曲がってきた銀色の乗用車が、俺達に突っ込んで来た。
……いや。
正確には、俺の方に突っ込んで来たところを、ハルカが俺を突き飛ばしたのだ。
その結果―――。
「う………………………………そ………………………………」
住宅の塀と、そこに突っ込んだ乗用車の間に、人間のひき肉が出来上がっていた。
崩れた灰色のブロック塀は、乗用車のフロントガラスを割り、ボンネットをへこませていた。
ハルカの血と、吹き飛んだ臓器や眼球、そして少量の肉片―――そしてその顔を辛うじて隠している、今は血で赤黒く染まってしまった赤髪が、その灰色の景色をどこか現実味のない赤色ですっかり染め上げていた。
どこか遠くで聞こえる、呻き声にも似た、掠れた悲鳴。
………いや、俺の悲鳴だった。
俺は、生まれて初めてというほど大きな声を上げた。
その悲鳴を最後に、俺の全身からは力が抜け、意識が途絶えたのだった。




