エメラルド
※一部暴力描写があります。苦手な方はご注意ください。
「俺と一緒に来るか、隼人」
先日まで顔すら曖昧だった叔父から持ち掛けられた提案。
普通の人であれば、そんな薄っぺらい関係性の相手についていこうとはすぐに思えないだろう。
「はい。よろしくお願いします。」
でも、俺は即答した。
それほどに今の生活には嫌気がさしていたし、
生活できるなら、俺はどこだって良かったから。
俺の実の母親は、俺を産んですぐに死んだ。
だから母親がどういうものかなんて想像もできないし、母とはどういうものか聞いてもどこか他人事だった。
父は俺を養うために仕事量を増やし、家にはほとんどおらず、祖父だけが数少ない話し相手だった。
恵まれてないとか可哀想とか散々と言われてきたが、別に俺自身そう思ったことはない。
実を言うと家族というものに興味がなかった、という方が正しい。
生きていく中で本当に必要なものなのかもわからなかった。
でも自分で自分の生活を保てる稼ぎができるまでは、巧く使うに越したことはない。
だから小さい頃から祖父や父には優しくしたし、子どもから言われて喜びそうなことは何でも言った。
周りからは『優しく頼もしい子』と褒められ、父も『自慢の息子』と話すくらいには評判は良かった。
そんな生活が大きく変わったのは、2年前に祖父が亡くなり、その後すぐに父が再婚したことだった。
元々再婚の相談はされていたが、正直どうでも良かったので、「父の幸せになる方を選んでほしい」と伝えたら泣かれた。
しばらくうんうんと悩んでいた父だったが、祖父が亡くなったことを機に、俺の心の拠り所が無くなるのではないか、と再婚に踏み切ったのだという。
新しい母にはもう娘がいて、年齢は俺の2つ下だったから妹になった。
再婚してしばらくは両親とも妹とも仲良くできていたと思う。
一緒に出掛けたり、ご飯を食べたり、妹とは良く一緒にゲームをして遊んでやったりした。
しかし1年経った頃くらいから、それは徐々に狂い始めた。
元々嚙み合わない歯車だったのか、何が原因だったのかはわからない。
気が付けば父は酒におぼれて深夜まで飲み明かして朝帰りするようになり、母は美容に異常な執着をするようになり常に新しい服や化粧品を買い漁るようになった。
妹においては高校を辞めて1日中ゲームをするだけの引きこもりになり、部屋からは最低限しか出てこなくなった。
日中人に会うのが怖いのか、夜な夜な出かけている音が聞こえるが、知ったことではない。
家族団欒など欠片もない。
そのことに、寂しさも何も感じない俺もおかしかったのかもしれない。
しかし高校3年にもなると受験期のストレスもたまってくる。
そんな矢先、母が俺に関係を迫ってくるようになった。
いい息子でいなければならなかったから適当にあしらったが、嫌悪感とストレスは募った。
もうアルバイトでもして一人暮らしができるように、父に掛け合ってみようかと考えていた時だった。
学校の帰り道に、見覚えのある顔をした男の人が話しかけてきた。
「隼人だよな?俺のこと覚えてるか。お前の父さんの弟だ」
年に1度会うか会わないかくらいだった叔父だった。
風の噂とやらで父の悪評を聞き、心配で家に行こうと思っていたとのこと。
俺は好機だと思った。
父が変わるとは思っていなかったが、何かしら今の生活を変えられるかもしれないと考えた。
だから叔父に実状をすべて、嘘偽りなく話した。
叔父は数刻とまどっていたが、覚悟を決めたように俺を見て言ったのだ。
「俺と一緒に来るか、隼人」
それから、いつ叔父の家に行くか話し合った。
父と母に知られれば止められる可能性があるため、叔父の家に引っ越してから両親には話すことにした。
まあ持っていく荷物など数えるほどしかなかったから、引っ越しと表現するのは大げさかもしれないが。
叔父の家に引っ越す当日。
この日は母が近所の友人何名かと夕食を食べに外出しており、家には妹しかいなかった。
何も言わずに出て行っても良かったが、叔父が『妹にだけは伝えておいた方がいい。行方不明で警察に相談されてもお前が大変だから』と助言されたため、しぶしぶ妹の部屋のドアのノックして勝手に開けた。
「…もう、戻らないから」
ゲーム画面と向き合うその丸まった背中に話しかけたが、こちらを振り向くことはなかった。
久しぶりに会った妹は一回り小さくなったように見えた。
まあ猫背でずっとゲームなんかしてれば、姿勢も悪くなるだろう。
別に返事を求めていたわけではなかったから、それだけ伝えてドアを閉めて家を出た。
家の前まで迎えに来ていた叔父の車に乗り込み、流れゆく車窓の景色を眺めていた。
叔父の家に来てから3日ほど経って、両親が家まで来た。
目的はやはり俺で、『お世話になってるようだから引き取りに来た』と話していたそうだ。
その時には俺は自室で叔父の奥さんと一緒にいたから、実際にその場面は見ていない。
後から聞いた話によると、連れ戻したがっていたのは母で、父はそれをただなだめていただけだったらしい。
しばらく口論する声が聞こえた後、両親と、慌てた叔父が一緒に車に乗っていくのを窓越しに見た。
すぐに叔父から叔父の奥さんのもとに、『家に行ってくる』とだけ連絡がきた。
叔父が血相変えていたこともあり、父たちに言いくるめられて俺はまた元の家に戻らなければならないのかと心配になったが、それは稀有に終わった。
その後叔父はちゃんと帰ってきて、俺は正式に叔父の養子になったからだ。
血相を変えていた理由は、両親が妹を殴って放置してここに来たからで、妹を病院に運んで警察を呼んで、と対処していたからだと、深夜に帰ってきた叔父が奥さんに話しているのを盗み聞いた。
頭を強く殴られてから数時間放置されたこともあり、命は何とか助かったが後遺症が残る可能性が高い、と言われたそうだ。
自分の身を守れなかった妹と、チャンスをつかんで身を守れた俺。
俺ももしかしたら妹と同じ道をたどるかもしれなかったと思うと、あの時声をかけてくれた叔父に感謝した。
それから叔父の元で生活を始めて半年が経った。
あの後両親がどうなったのか、妹がどうなったのか、聞いていないため俺は知らない。
興味がなかったから聞かなかったが、叔父たちから話されることもなかった。
「隼人。お前に、話しておきたいことがある」
その日は俺の誕生日だった。
叔父夫婦はケーキや料理、ちょっとしたプレゼントでもてなしてくれた。
一通り落ち着いたため、受験勉強の続きをしようかと思っていたところ、叔父から『ちょっと来い』と呼ばれて叔父の部屋に案内された。
話しておきたいこととは何だろう。
何歳までここにいられるかの条件だろうか?
確かに、俺もまさか無償でここにずっといられるとは思っていない。
何らかのこれからの約束事だろうと、俺は少し身構えていた。
「本当は、お前には絶対に話さないでほしいと頼まれたんだが…。
そうはいっても、この先ずっと賢いお前に隠し通すのは無理だろうし。
…何より、お前は、知っておくべきだと思ってな。」
そういいながら自分が座るソファチェアの隣を手でたたかれる。
座れ、の合図と受け取り、促されるまま隣に座った。
「実は、俺はあの日、頼まれてお前に会いに行ったんだ。
お前をこうして引き取ったのも、お前の今後の生活費としてこれを預かったからだ。」
そういって、叔父は一つの通帳を俺に渡してきた。
その通帳の名義は、俺だった。
「…父さんが、僕のために作った口座があるって、昔言ってました」
もっとも、再婚する前の話だったが。
ふと中を開ければ、口座には600万円ほどの残額が入っていた。
「言っておくが、口座を作ったのは父かもしれんが、
その金は、あいつが作ったものじゃない。」
俺は無意識に、これは父が貯めていたのだと、そう思った。
しかし俺がそう思っていたことを見透かしたかのように、叔父が強い口調で否定してきた。
「…俺が『あの子』に会ったのは、あいつの再婚祝いに行った時の、たった一回だけだった。
その時に、何かあったらと何気なしに連絡先を渡していたのを覚えていたそうでな。
お前さんに会う前、『あの子』から急に連絡が来て、どうしてもと頼まれて会いに行った。
そこで、あの家の実情を知ったんだ。」
「…あの、子、って」
「ろくに飯も食わず、寝もしなかったんだろうな。最初は誰かと見違えたよ。
痩せ細って、自分で切ってんだか、ざっくばらんな髪の毛して。
…こんだけ金があるなら、自分のためにちっとは使えばよかったのになア…。」
…まさか。
「今時、ゲームの実況、って言ったか。そんな動画をサイトに上げるだけで結構稼げるんだとな。
わかりやすく仕組みを教えてくれたよ。俺は怪しい金なんじゃないかって疑ってたから。」
まさ、か。
「…まあそれでもあいつらの浪費と並行してそこまで貯金するのは大変だったんだろう。
高校も辞めて、最後には夜間の警備員のアルバイトもしてたんだそうだ。
そんな無理するくらいなら、あいつらの浪費をやめさせればいいと思って、俺も一回電話してみたんだがな。…あの子が諦めた理由がよく分かったよ。
でもな。だったら逃げればよかったんだよ、お前さんみたいにな。
賢い子だ。方法はいくらでもあったろうさ。
…でも、あの子は、あそこに残ることを選んだ。
本当はもっと稼いでから俺に相談したかったそうだが、実の母親がお前に関係を迫りだして限界だと感じたらしい。やめろと言っても聞かないから、お前さんを保護してほしいとさ。」
丸まった小さな後ろ姿が、鮮明によみがえる。
「それは全部お前のだそうだ。お前が好きに使いな、隼人。
あの子が身を粉にして作り出した、努力の結晶だ。」
その言葉に、何も返すことができなかった。
ただ通帳を握りしめて、呆然とみつめるだけの木偶の坊に成り下がっていた。
生まれて初めて、他人からの『愛情』を感じた瞬間だった。
今まで尽くされたことがないわけじゃない。
でもその行為に対して何も感じたことがなかった。
父や祖父、友人等からもいろいろもらったが、お返しをするのが面倒くさいと思うだけで、嬉しいとか申し訳ないとか、そういう感情をもったことがなかった。
だから俺は、
この胸の痛みを、奥底から溢れ出してくるざわめきを、
何と表現したらいいのかわからなかった。
俺はチャンスをつかんで身を守れたんじゃない。
それはただ、元々用意された安全な道を歩いていただけ。
その道を作るために、彼女がどれだけの苦労をしてきたのかなんて俺には想像もつかない。
動画を作ってサイトに載せるだけは、簡単なことじゃない。
こんな大金を、16歳の女の子が、簡単に稼げるわけがないことくらい、
こんな俺でも、痛いほどわかったから。
「あの子はあの日、お前を連れ戻そうとしていた母を必死に止めて、逆上した母に殴られた。
父は知らずに俺のところに来ただけだったから、戻って血だらけで倒れてるあの子を見た瞬間、我に返ってたよ。あの女はあの後逮捕されて、昨日離婚届が受理されたそうだ。」
「…」
「だから父親にはいつでも会える。
でもな、あの子にもう会うことは、ないだろう。
先週病院を退院して、児童養護施設に入所したそうだ。」
叔父はそういいながら、横から細長い箱を取り出して、俺に差し出した。
「『いらないと言われたら、捨ててくれ』とさ」
受け取った俺の手は、信じられないことに震えていた。
誰からかは聞かずともわかったから、何も言わずに黙って開けた。
箱には高価そうなボールペンが1本だけ、大事そうに入っていた。
クリップ部分には緑色の小さな石がアクセントで埋め込まれている。
箱から取り出し、強く握りしめた。
その様子を見ていた叔父がふと微笑み、立ち上がった。
「話は終わりだ。戻っていいぞ。
それと、話しといてなんだが、この話は全部聞かなかったことにしといてくれ。
『兄さんは優しいから、全部知ったら気を遣って遠慮してしまう。このことは絶対に話さないで。』と何度も釘刺されてるんだ。…だから、これからも絶対遠慮なんかすんなよ。あの子からの物、大切に使え。」
『兄さんは、誕生日にもらうなら、何が良い?』
思い出せる数少ない、彼女との会話。
返答に困ったから適当な壊れやすい消耗品をあげれば、もっと高価なものをねだってほしいと言われたことがあった。
「じゃあ、現金でいいよ」
そんな適当な返事を、彼女は覚えていたのだろうか。
彼女はゲームが最初からうまかったわけではない。
俺が一回褒めたらどんどん上手くなるのが面白くて、何度も何度も褒めてたら人並外れたんだ。
彼女が高校を辞める前日まで、俺は彼女と話していた。
いつからか話さなくなったんじゃなくて、あの日を最後に話さなくなったんだ。
それを俺が忘れていただけで、
今になってあの時の顔が、鮮明に思い出せるんだ。
『兄さん、本当にありがとう。』
泣きそうに笑ってたお前は、あの日どれだけの覚悟をしたんだよ。
なんでそこで『ありがとう』なんだよ。
なんで俺は、そこで、気づけなかったんだよ。
…この悲しみは、喪失感は、
どうしたら、消えるんだよ。
「…教えてくれよ。 …陽葵。」
それから、俺は大学を無事に卒業して起業した。
一つの会社の社長から、気が付けばあれよあれよと何十社を運営する企業グループの代表取締役になった。
「今回のクロークチャンネルは!社員みんなが慕う来栖社長にインタビューです!
いやー!今日もかっこいいですね社長!」
父と元母が離婚してから、陽葵との縁は切れた。
唯一叔父だけが陽葵との面会の権限があるそうだが、陽葵自身がそれを望んでいないらしい。
だから叔父すらも今どこで何をしているのか、教えてもらえないそうだ。
わかっているのは、あの後陽葵の左腕には障害が残ったということだけ。
「ありがとう。これでも社長だからね。身なりには気を遣ってるよ。」
「その胸ポケットに刺さっているペンも素敵です~!」
陽葵からもらったあの金は、大事に使いたかったから、起業の時の資本金にした。
陽葵が動画サイトのことに詳しかったから、俺も勉強して知名度アップに運用した。
「ああ。プレゼントでもらったんだ。」
「そうなんですか!え、そ、それは、彼女さんだったり~?!」
普通の人なら割り切って、大切な思い出として完結して終わっただろう。
でも俺は陽葵を失った喪失感をいまだに解消できずにいた。
陽葵の代わりなんて誰もなれなかった。
陽葵以外の人にはやっぱり何も感じなかったから。
…だから俺は、『陽葵を諦めること』を諦めた。
「彼女じゃないけど、大切な女性からね」
この石のもつ言葉の意味には、「幸福」とか「新しい始まり」とかがある。
おそらく陽葵はこっちらへんを願って、俺にこれを渡したんだろうけど。
「え、そのクリップについてる緑の石って、もしかして!」
「うん」
俺はもう、兄じゃなくなっちゃったから。
この感情はもしかしたら妹に持つものとは違うものかもしれないけど。
(それでも、いいでしょ?)
ボールペンを取り出して、優しく口づけた。
「『愛の宝石』、ともいうんだっけ」
兄妹、恋人、夫婦、家族。
どんな形でもいい。
君とまた一緒にいられるなら、俺はなんだっていい。
だから、君にまた逢える日まで。
俺は君を探し続けるよ、陽葵。