『藍愛哀』
深い眠りからそっと目を覚ます。こんなにも長く眠ったのはいつぶりだろうか。そんなことを思いながらぼんやりとした視界と心地よい毛布のぬくもりに包まれて再び眠りに身を寄せようとする。干しっぱなしの洗濯物にシンクに残したままの食器たち。外の雨音に気づいて洗濯物を急いで取り込みに行く。
―彼が出て行ってもう二週間が経ったー
五年付き合っていた彼が私の部屋からいなくなった。あれから二週間が経つ何も変わらない生活の繰り返しの中で変わったものといえば、彼の優しくてあたたかい香りが部屋からなくなったということ。料理の下手な私の料理を「茜らしいね。」と呆れた顔で微笑む姿が見えなくなったということだった。それ以外何も変わっていなかった。「全部捨てていいよ。」そう言われても捨てることができなかった。置きっぱなしの歯ブラシに、置きっぱなしの彼の服。何も変わっていない私達の部屋だった。
彼との出会いは土砂降りの日の喫茶店だった。カウンターの右端。古い鳩時計の横が私の特等席だった。ずぶ濡れになってきっといつもより深い藍色になったコートを着て私の隣の席に座ったのが彼だった。
「雨、すぐに止むといいですね。」
声をかけてはっとしたのはきっと声をかけられた彼よりも私であったし、暗くて内気な私が初めて声をかけたのが彼だった。
「ですね。」とそっと微笑む彼の横顔に安堵したとともにどこか懐かしさを感じた。運命だったと思う。偶然なんかじゃない。本当に運命だったんだと思う。当時二十三歳だった私が拾った神様からの小さくてあたたかな贈り物だったのかもしれない。
五年前のあの日を思い出しながら鏡の前に立つ私の顔はもうすっかり大人びていていた。―運命なんて信じていないー
あの日神様が私にくれた贈り物は五年間のうちに少しずつ溶けて無くなった。彼からもらった愛の分だけ哀になって部屋の片隅に残された置物になった。
身支度を済ませて傘をさす。もう一度あの特等席で逢えるかもしれない。だって今日は土砂降りだから。
この作品は、一度描くことを諦めた私が「もう一度小説を書きたい」と思い制作したものです。