黒猫さんと呪いの分散プロトコール
ありがとう。
75作品、エッセイも加えればもう少しでしょうか。
これだけ分散すれば、恐らく実害は無いでしょう。
十分、十分でございます。
順を追ってご説明いたします。
始まりはN県の徳水村の祭事となります。
ダムに沈んだ村と言えば、分かる人には分かるかと存じます。
この村では古くから呪詛に対して、独自の解釈を持っておりました。
呪詛は祓うのではなく、奉り薄めると言うものです。
特に有名なのが、村から鬼門(丑三の方向)の方角に社を構える牛首神社で、明治初期のコロリ(コレラ)が大流行したことを機に奉られ、毎年牛を一頭供え、盛大に祭事を執り行ったと記録にあります。
祭事の詳細については、まずは神主が祝詞を述べた後、スサノオノミコトの剣をもって、生贄の牛を一太刀のもとに命を奪い、
御神体として社に牛の首を奉り、体については、子供を除く村中の住民で肉を食らいます。
この皆で食らうことが何より重要で、神として奉る災い(呪い)を、一人一人で分かち合い薄めることを意味します。
子供を除く理由についてはお察しください。
厳しい自然環境の中、災害への畏怖が抵抗ではなく共存へと信仰を向かわせたのでしょう。
誰か特定の者に呪いをなすりつける、いわゆる人柱とはならなかったことは、いくらか上等であったと私は思います。
こうして守られてきた信仰でしたが、先に述べた通り、昭和後期のダム建設により、村ごと水の底に沈むことになり、村の元住民たちも散り散りとなりました。
さて、困ったのはこれからです。
ダムでは事故が相次ぎ、引き寄せられるかのように、ダムから投身自殺をはかるものも多数出る始末、事情を知る元村人たちは、牛首様の祟りだと恐れました。
そこで元村人たちが中心に、近隣の村をも巻き込んで、簡易的な祭事を続けることで合意となりました。
流石に平成の世で牛一頭を捌くのは難しかったのでしょう。
祝詞の後、神主がついた餅を振る舞う祭事へと変貌を遂げました。
くどいようですが、ここでも餅は絶対に子供には与えません。
分け与えられているのは、餅の形をした呪いそのものなのですから。
もっとも、祭事の参加者のうち、それを正しく理解していたのはどのくらいでしょうか。
この時から、我々は騙し討ちになれて、罪悪感が麻痺していたのかも知れません。
以降は事故や自殺もぴたりと止み、皆がほっと肩の荷を下ろしておりましたが、令和の世となり、またさらに困ったことが起こりました。
コロナ禍で、祭事が執り行えなくなったのです。
三年行わない事で、すでに近隣の村では豪雨による厄災がたびたび起こり、牛首様の呪いと恐るものもでてきました。
そこで神主と私を含めた元村の住民3名だけで急遽祭事を行ったのですが、やはり人数が少なすぎたのでしょう。3名のうち1名は発狂して、そのままダムに飛び込み死亡しました。
私自身も1週間原因不明の高熱が続き、生死の狭間を彷徨いました。もう1名は謎の失踪のまま、今日まで至ります。
呪詛を、呪いを多人数で薄める必要があったのです。
もう勘のいい方ならお気づきですね。
昭和から平成になり、牛の肉から餅へと呪いの形を変えたように、
平成から令和となり、餅から言葉へと呪いの形を変えるよう、一計を案じました。
これには、神主も賛同してくれました。
便利な世の中になったものです。
何も場所を共有しなくても、同じ時、同じ目的を持つことで、祭事として十分成り立つのですから。
皆さまが『牛の首』について割いていただいた時間、思いを込めて綴った物語こそが、令和における祭事であり、呪いの分散となりました。
改めて、ありがとう。
75作品、エッセイも加えればもう少しでしょうか。
これだけ分散すれば、恐らく実害は無いでしょう。
十分、十分でございます。
ただし一つだけ。これだけが気掛かりで、どうしても警告したかったのです。
参加された方、N県のダムにだけは一生行かないで下さい。
特に夏の夜は絶対にだめだ。絶対に。
家紋さまごめんなさい。
『牛の首』企画について、後味悪いオチをつけてみました。
初めてクレクレします。
黒猫さん、感想よこせ!
半年自粛するとか寂しいこと言わずにさ。